第6話 ミレイ
診療所で出会った薬草師ミレイは、ヨナスにとって初めて「助ける側」ではなく「支えられる側」を教えてくれる存在でした。
少しずつ、ヨナスの心にも変化が生まれていきます。
朝。
ヨナスは見慣れない白い天井を眺めていた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。高い位置にある細い窓。そこから差し込む朝の光。やがて昨夜、自分が造った診療所だと思い出す。
そして、自分がその中で眠ったことも。
「……朝まで」
身体が軽い。背中も痛くない。雨にも風にも晒されていない。
それなのに、妙に落ち着かなかった。
寝台から起き上がると、奥から声がした。
「まだ寝ていていいですよ」
ミレイが小さな鍋を火にかけている。髪は昨夜より少し乱れていた。どうやら彼女もほとんど眠っていない。
「ノアは?」
「熱は下がりました。まだ体力は戻っていませんけど」
奥の寝台では、ノアが穏やかな呼吸をしていた。リーサは椅子に座ったまま眠り、バルトは壁にもたれて目を閉じている。
家族三人が、同じ場所にいる。
ヨナスは、それを見るだけで胸が温かくなるのを感じた。
「あなたも、少し顔色が戻りましたね」
「私ですか」
「他に誰がいるんです」
「私は患者ではありません」
「患者じゃなければ倒れないんですか?」
返事に詰まる。
ミレイは木の椀へ湯を注ぎ、差し出した。
「どうぞ」
「何です?」
「疲れている人用の薬草茶」
一口飲む。
「……苦い」
ミレイが笑った。
「効きそうでしょう」
「味と効き目は関係あります?」
「気分の問題です」
ヨナスもつられて笑った。
誰かと一緒に、こんなふうに笑ったのはいつ以来だろう。
午前中、ノアが目を覚ました。
「お母さん」
リーサが飛び起き、手を握る。
「いるよ。ここにいるよ」
ノアは白い壁、高い窓、棚、石炉を見回した。
「ここ、どこ?」
リーサは笑った。
「あなたが元気になるためのお家よ」
ヨナスは少しだけ考えた。
ここは診療所だ。病気を治すための場所。
でもノアにとっては、母親がいて、父親がいて、安心して目を覚ました場所。
それなら家と呼んでも間違いではないのかもしれない。
「お兄ちゃん」
ノアがヨナスを見る。
「このお家、つくったの?」
「うん」
「すごい。ありがとう」
ヨナスは一瞬固まった。
「……元気になってください」
横でミレイが見ている。
「子どもにお礼を言われるの、苦手ですか」
「どう返せばいいか分からないだけです」
「普通に、どういたしまして、でいいんですよ」
「そうですか」
ミレイはしばらく見つめたあと、言った。
「ヨナスさん。感謝されるのに慣れてませんね」
胸の奥が少し痛んだ。
「……そうかもしれません」
それ以上は聞かれなかった。
午後、オルドがやってきた。
「おお。生き返ったような顔になったな」
「おじいさんのおかげです」
バルトが何度も頭を下げる。
オルドは気まずそうに杖を振った。
「わしは姪を呼んだだけじゃ」
「それが一番大事だったんです」
ヨナスが言うと、オルドは眉を上げた。
「昨日、私一人では何もできませんでした」
「診療所を造ったじゃろ」
「病気は治せない」
「当たり前じゃ。お前さんは薬師じゃない」
あっさり言われる。
「なら薬師に頼ればいい」
ヨナスは黙った。
オルドは不思議そうにする。
「人間というのは、一人で全部やるようにはできとらん。わしは水を掘れんかった。お前さんが掘った。お前さんは病気を治せんかった。ミレイが治した。それでええ」
それでいい。
単純な言葉なのに、ヨナスには眩しかった。
夕方。
ミレイは診療所の棚を整理していた。
「帰らないんですか」
「どこへ?」
「薬草商のところです」
「ああ。戻るつもりでした」
「でした?」
「ここ、必要になりそうです」
ヨナスは診療所を見回す。
「建物が?」
「私が」
ミレイは窓の外を見た。
井戸。人々。少しずつ増える天幕。
「これだけ人が集まれば、怪我人も出ます。病気になる人も。町までは遠い」
「でも仕事は」
「薬草商には雇われていただけです」
「生活は?」
「困ったら考えます」
ヨナスは驚いた。
「そんな簡単に」
「簡単じゃありませんよ」
ミレイは笑う。
「でも、必要とされている場所にいたいと思っただけです」
必要とされている場所。
ヨナスはその言葉を胸の中で反芻した。
自分は、それをずっと探していたのかもしれない。怖くて、探していないふりをしていただけで。
「ヨナスさんは?」
「何がです?」
「ここにいるんですか」
答えに迷う。
「まだ、決めていません」
「そうですか」
ミレイはそれ以上聞かなかった。
代わりに静かに言った。
「じゃあ、決めるまでいてください」
「それでいいんですか」
「誰に許可を取るんです?」
ヨナスは笑った。
「……もう少しだけ、ここにいます」
その夜。
ヨナスは診療所の外へ出た。
中は温かい。だからこそ怖かった。
慣れてしまうことが。
ここにいていいと思ってしまうことが。
「何をしているんですか」
ミレイが毛布を抱えて立っていた。
「外の空気を」
「寒いですよ」
「大丈夫です」
「またそれですか」
毛布を押しつけられる。
「使ってください」
「患者さんが」
「全員分あります」
ヨナスは受け取った。
まだ室内の熱が残っている。
「ありがとうございます」
ミレイが少し笑った。
「今のは上手でした」
「何が」
「ありがとう」
ヨナスも笑う。
「練習中なので」
「では次は、人に心配された時に素直に受け取る練習ですね」
「それは難しいですね」
「ゆっくりでいいです。でも、勝手にいなくなるのはなしです」
ヨナスの表情が少し固まった。
「どうしてそんな話に」
「なんとなく。そういう人に見えるから」
反論できなかった。
「ミレイさん」
「はい」
「なぜ、そこまで気にするんですか」
ミレイは少し驚き、やがて穏やかに答えた。
「目の前にいるから。それじゃ理由になりませんか」
ヨナスは答えられなかった。
目の前にいる。それだけで心配する。
そんなことが本当にあるのか。
でも毛布は、確かに温かかった。
ミレイが診療所へ残ると決めた翌日から、ヨナスの一日は少し変わった。
朝、井戸へ水を汲みに行くと、以前なら自分で二つの桶を持って戻っていた。ところがミレイは当然のように一つを取った。
「半分持ちます」
「大丈夫です」
「その言葉は禁止にした方がいいですね」
「禁止?」
「少なくとも私の前では」
押し問答の末、ヨナスは一つを渡した。たったそれだけなのに、自分の仕事を奪われたような落ち着かなさがあった。
しかし診療所へ着けば、ミレイはさっさと桶を置き、自分の仕事へ戻る。別にヨナスを弱い人間扱いしたわけではない。ただ二人いるから二人で持った。それだけだった。
その単純さが、ヨナスには難しかった。
昼になると、ミレイは患者のいない時間に周囲の人々の顔を見て回った。
「どうして病気でもない人まで?」
「病気になる前の方が見つけやすいこともあります」
オルドの咳が少し増えた。エナの手荒れが酷い。ノアは元気になったが、まだ走りすぎると息が上がる。ミレイは細かな変化を覚えていた。
「一人一人、全部覚えてるんですか」
「全部じゃありません。でも、昨日と違えば気づけるくらいには」
ヨナスは感心した。
建物なら寸法を測れば違いが分かる。人間はそうではない。昨日の顔、昨日の声、昨日の歩き方を覚えていなければ、今日の違いに気づけない。
「ヨナスさんも、昨日より肩が下がってます」
「それは良いことですか」
「少し力が抜けているという意味なら」
「では良いことにします」
ミレイは笑った。
午後、リクが手のひらを擦りむいて泣きながら診療所へ来た。大した傷ではなかったが、ミレイは水で洗い、薬草の軟膏を塗り、小さな布を巻いた。
ヨナスが隣で見ていると、リクは涙を拭いながら聞いた。
「ヨナス兄ちゃんは、けがしたら誰が治すの?」
「私はあまり怪我をしないから」
「うそ」
リクはヨナスの手を指した。鑿を握る指には古い切り傷がいくつもある。
ミレイがすぐ反応した。
「見せてください」
「古い傷ですよ」
「いいから」
半ば強引に手を取られた。
その瞬間、ヨナスの身体がわずかに固くなった。
誰かに手を取られることに慣れていない。王都では手は働くためのものだった。傷があれば自分で布を巻き、それで終わりだった。
ミレイは気づいたのか、力を少し緩めた。
「痛くしません」
「怖がっているわけでは」
「知ってます」
小さく笑う。
古い傷を見たあと、新しい小さなひび割れに軟膏を塗られた。
「職人の手ですね」
「下働きでしたけど」
「でも、この手で人の家を造った」
ヨナスは返事をしなかった。
褒められると、まだどうしていいか分からない。
ミレイは無理に言葉を求めず、包帯を巻き終えると手を離した。
「はい。今日は水仕事少なめで」
「困ります」
「みんなに頼ってください」
「またそれですか」
「何度でも言います」
その日の夕方、ヨナスは本当にエナへ水汲みを頼んだ。
「もちろん」
エナは何でもないことのように答えた。
ヨナスは拍子抜けした。
頼ることは、もっと大きな借りを作ることだと思っていた。けれど、エナは翌日には逆に屋根の板が外れたと相談へ来た。ヨナスが直す。
貸し借りというより、行ったり来たりしている。
それが暮らしなのかもしれない。
夜、広場で一人考えていると、ミレイが隣へ座った。
「今日は何回、人に頼れました?」
「数えるんですか」
「進歩を見るために」
「三回」
「上出来」
ヨナスは苦笑した。
「子ども扱いされている気がします」
「二十四歳の頑固な子どもですね」
「それは酷い」
二人で笑う。
笑ったあと、ヨナスはふと思った。
王都では、誰かに弱みを見せればそこを責められる気がしていた。ここでは逆に、弱いところを見せた方が誰かが手を出してくる。
まだ完全には信じられない。
けれど、少しずつ試してもいい気がしていた。
ミレイが雨宿へ残ると決めてから、診療所には簡単な診療記録が作られた。名前、症状、使った薬草、経過。ヨナスは文字の整理を手伝った。
「建築公会の書類より少ないですね」
「病人の前で紙を書きすぎるのも変でしょう」
「でも記録がないと次に困る」
「だから必要な分だけ」
その言葉に、ヨナスは少し笑った。
必要な分だけ。
自分の力と同じだった。
必要以上に大きくしない。必要以上に抱え込まない。
その考え方は、雨宿の暮らしそのものへ少しずつ染み込んでいく。
ミレイは診療所へ簡単な薬草畑も作り始めた。ヨナスは「畑なら力を使いますか」と聞かれたが、首を振った。
「これは自分たちで育てられるでしょう」
二人で土を起こし、種を植える。
大地の力なら一瞬で整った畝を作れたかもしれない。けれど、その日は半日かけて手を汚した。
ミレイは言う。
「育つのを待つのも大事ですよ」
ヨナスは、何でもすぐ完成する自分の力とは逆だと思った。
人間関係も同じなのかもしれない。
一瞬では作れない。時間をかけて育つ。
その比喩を口にすると、ミレイは少し照れたように笑った。




