↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/20

第5話 白い診療所

高熱に苦しむ少女を前に、ヨナスの力だけでは救えない現実が立ちはだかります。

「建物」と「人」、その両方がそろって初めて命を守れることを知る回です。


井戸の周りには、少しずつ人が増えていた。


最初はオルドとエナ、リクだけだった。次の日には旅人が二人。その翌日には荷物を背負った夫婦と、足の悪い老女。


誰かが誰かに話す。


「荒野に水の出る井戸がある」


「雨の夜に、一晩で家を建てた若者がいる」


「困っている人を見ると、その人に必要なものが分かるらしい」


ヨナス自身は、まだ噂の広がりを実感していなかった。


朝になれば井戸の周りを歩き、壊れかけた荷車を直す。誰かが焚き火を起こせば石を並べる。夜になれば岩陰か井戸小屋のそばで眠る。


不思議なことに、もう南へ行こうとは考えなくなっていた。


ここに留まると決めたわけではない。


ただ、朝になると誰かがいる。


「おはよう」と言われる。


リクはヨナスを見つけると走ってくる。


オルドは何かあるたびに呼ぶ。


その積み重ねが、足を少しずつこの場所へ縫い留めていた。


そんな日の午後。


子どもの泣き声が荒野に響いた。


「いやだ! お父さん、いやだ!」


一人の男が、幼い少女を抱いて走ってくる。


男の顔は恐怖で引きつっていた。


「誰か! 誰か助けてくれ!」


ヨナスは反射的に立ち上がる。


「どうしました!」


「この子が……!」


腕の中の少女は四つか五つ。顔が赤く、唇が乾き、浅い息を繰り返している。


額へ触れる。


熱い。


「いつからです」


「三日前から熱が下がらない。昨日までは水も飲めた。でも朝からほとんど何も口にしない」


「薬師は?」


「いない。俺たちは向こうの岩場に住んでる。女房が看てる。でも、もうどうしたら……」


男の名はバルト。少女はノアという。


「案内してください」


十五分ほど走った先に、岩と岩の間へ粗末な布を張った天幕があった。


中は異様に暑い。


外は風があるのに、熱と湿気がこもっている。地面は濡れ、むしろも湿っていた。


ノアの母リーサが立ち上がる。


「あなた!」


「井戸の……あの、家を造った人だ」


リーサの目に一瞬だけ光が宿る。


「お願いします。この子を……」


「顔を上げてください」


ヨナスは天幕を見回した。


ここでは、休ませるほど体力を奪われる。


「ほかに場所がなくて」


リーサの言葉が胸に刺さる。


ほかに場所がない。


自分が何度も感じてきたこと。


右手が熱くなる。


鑿を取り出す。


灰色の世界。


金色の線。


だが今回は、ただの家ではない。


風を通す。熱を逃がす。床を地面から離す。水を使える場所。身体を清潔にする場所。薬草を乾かす棚。湯を沸かす炉。病人を横たえる寝台。


一つの言葉が浮かぶ。


「……診療所」


天幕の外、風の通る高台へ移動する。


「ここです」


鑿で円を描く。


――ガチリ。


黄金の光が大地へ流れ込む。


白い壁が立ち上がる。湿気を吸う滑らかな壁。高い窓。高い屋根。地面から少し上げられた床。中には二つの寝台、流し、石炉、棚、机。


数分後。


荒野に白い小さな診療所が立っていた。


バルトもリーサも泣いた。


しかしヨナスは、ノアを見て気づいた。


熱は下がっていない。


呼吸も苦しそうなまま。


建物はできた。


でも病気は治っていない。


「……足りない」


バルトが振り返る。


「何が?」


「人です。治せる人が必要です」


「薬師……だから、それがいないんだ」


バルトの声が絶望に沈む。


ヨナスは拳を握った。


建物は完璧に造れたのに、それだけでは救えない。


「……くそ」


その時。


「ヨナス!」


オルドが杖をつきながら駆けてきた。


「何があった!」


「病気の子どもです。薬師が必要なんです」


「薬師……」


オルドが考え込む。


そして顔を上げた。


「待て。わしの姪が薬草商の手伝いをしとる」


「どこに?」


「西の街道。今日、この辺りを通るはずじゃ。ミレイという娘だ」


「呼べますか」


「わしが行く」


「その足では」


「水をくれた恩を返す時じゃ」


止める間もなく、オルドは走り出した。


待つ時間は長かった。


ノアを診療所へ移す。高い窓から風が入る。熱気が抜ける。リーサが額を拭き、バルトが井戸から水を運ぶ。


ヨナスは、できることを探した。


でも、もう建物は完成している。


それ以上何もできないことが苦しかった。


「ヨナスさん」


リーサが呼ぶ。


「ありがとうございます」


「……まだ助かっていません」


「それでも。さっきまでより、呼吸が楽そうです」


確かに少し深くなっている。


だから。


建物はすべてではない。


でも無意味でもない。


遠くから声がした。


「こっちです!」


オルド。


その隣に若い女。


大きな革袋を肩に掛け、薄茶色の髪を後ろで束ねている。


「患者は!」


「中です!」


女は飛び込むなりノアの額、呼吸、瞼、口の中を手早く確認した。


「いつから?」


「三日前です」


「水は?」


「朝からほとんど」


「吐いた?」


「少し」


女は革袋を開く。


「お湯を」


ヨナスが石炉へ向かう。


「布を何枚か」


リーサが渡す。


女は迷わない。


誰が何をするか、次々と指示する。


ヨナスはその姿を見た。


自分が建物を造る時と少し似ている。


必要なものが見えている。


ただし彼女が見ているのは、壁でも床でもない。


目の前の人間だった。


「あなた」


突然、女がヨナスを見る。


「はい」


「棚を使います。この乾いた葉を置いて」


ヨナスは、自分が無意識に造った棚を見る。


薬草を並べる。


「……ちょうどいい高さ」


女は石炉を見る。


「火力も調整しやすい。風も抜ける」


そしてヨナスを見る。


「これを、あなたが?」


「必要だと思って」


女は何か言いたそうにしたが、すぐノアへ戻った。


「話はあと」


夜。


ノアの熱はゆっくり下がり始めた。


薬草を煎じたものも少し飲めた。


リーサは娘の手を握ったまま泣き、バルトは外へ出て白い壁へ額をつけ、声を殺して泣いた。


ヨナスは診療所の入口に立っていた。


自分が造った建物の中で、誰かが誰かを救っている。


「少しは安心していいと思います」


若い女が隣へ来る。


「本当ですか」


「まだ油断はできません。でも、今夜を越えられる可能性は高いです」


ヨナスは大きく息を吐いた。


「ありがとうございます」


女が首を傾げる。


「私に?」


「はい」


「あなたの娘ではないでしょう」


「そうですが。それでも」


女は少し笑った。


「変な人ですね」


「よく言われます」


女は診療所を見回した。


「本当に不思議な建物。最初から、誰かがここで病人を看ることを前提に作られている」


「視えたんです」


「視えた?」


「必要な形が」


女はじっとヨナスを見る。


怖がっていない。疑ってもいない。ただ知りたいという目。


「私はミレイ。オルドの姪です」


「ヨナスです」


「知っています。叔父が道中ずっと話していました」


「どんな話を」


「水をくれた。井戸を一瞬で造った。自分は寝床もないのに、人のものばかり造る」


ヨナスは黙った。


「そこまで言いましたか」


「何度も」


ミレイは少し真面目な顔になる。


「一つ聞いても?」


「何でしょう」


「この診療所だけでは、ノアは助かりませんでした」


「……分かっています」


「でも、この建物がなかったら、私が来ても助けられなかったかもしれません」


ヨナスは目を上げる。


「暑い天幕の中では薬も傷む。水も使えない。清潔な床もない」


ミレイは静かに続ける。


「あなた一人では足りなかった」


「はい」


「私一人でも足りなかった」


少し微笑む。


「だから、助かったんです」


その言葉が胸に残った。


自分一人では足りない。


少し前までなら、無力さだと思ったかもしれない。


でも、足りないから誰かと一緒にやる。


それで人が助かる。


「建物だけではなく、人がいるから」


ミレイが頷いた。


「居場所になるんだと思います」


ヨナスはその言葉を胸の中で繰り返した。


居場所。


建物ではない。


人がいる。誰かが待つ。誰かが手を差し伸べる。


それで初めて、居場所になる。


その夜。


ミレイは言った。


「ヨナスさん。今日はここで休んでください」


「私は外で」


「だめです」


「でも」


「顔色が悪いです。患者用の寝台は一つ空いています」


「迷惑では」


ミレイは不思議そうな顔をした。


「どうして?」


返事ができない。


「少なくとも今夜は、ここにいてください」


その言葉をすぐには受け取れなかった。


ここにいてください。


王都を追われてから、ほとんど聞いたことのない言葉。


「……分かりました」


その夜。


ヨナスは初めて、自分が造った建物の中で朝まで眠った。


自分の家ではない。


それでも。


誰かに「ここにいていい」と言われた場所で。


ノアの熱が下がるまでの夜、ヨナスは何度も診療所の外と中を行き来した。自分にできることは少ない。それでも水が必要と言われれば汲みに行き、薪が減れば補い、リーサが眠りそうになれば椅子を勧めた。


ミレイは、そんなヨナスへ遠慮なく指示を出した。


「その桶、そこではなく流しの横へ」


「はい」


「火を少し弱く」


「これくらい?」


「もう少し」


王都の公会にいた時、指示を受けることには慣れていた。けれど、あの頃とは不思議に感覚が違った。誰かの地位を守るためでも、書類を整えるためでもない。目の前の一人を助けるための指示だった。


夜半、ノアが苦しそうに身じろぎした時、ミレイはすぐ額へ手を当てた。


「熱が動いてる。もう少しです」


「分かるんですか」


「完全には。でも、身体が戦ってる時の熱と、弱っていく時の熱は違います」


ヨナスは感心した。


「あなたにも視えるんですね」


「金色の線は出ませんけどね」


ミレイが笑う。


「でも、長く見ていれば分かることはあります。顔色、息の速さ、目の動き。その人が普段どんな身体か知らないと分からないことも」


人を知ること。


ヨナスは、自分の力とは正反対だと思った。自分の設計図は一瞬で必要な形を示す。けれど、人そのものを知るには時間がいる。


「建物は、造ったら終わりだと思っていました」


「違うんですか」


「今日、違う気がしました」


診療所は完成した瞬間から役に立った。だが、ミレイや家族が使わなければただの白い箱だった。棚も炉も寝台も、人が手を伸ばして初めて意味を持つ。


夜明け前、ノアが小さく水を欲しがった。リーサが泣きながら杯を支える。


その時、ヨナスは自分の胸にあった重たいものが少しほどけるのを感じた。


建物だけで救えなかった。


でも、自分の建物が誰かの手を助けた。


それでよかった。


一人で完結しなくてもいい。


公会では、失敗の責任だけが個人へ押しつけられた。ここでは、できることを持ち寄って一つの命を支えた。


その違いは、ヨナスがこの場所へ留まり始める理由の一つになった。


朝、診療所の窓から外を見ると、オルドが井戸の周りを掃いていた。エナとリクが水を汲みに来る。バルトが外で眠り込んでいる。


昨日まで別々だった人たちが、一つの建物を中心に朝を迎えている。


ヨナスはふと思った。


もしかすると、自分が造っているのは建物ではないのかもしれない。


誰かと誰かが出会い、互いを気にかけるための、きっかけなのかもしれない。


その考えはまだ輪郭を持たず、朝の薄い霧のように胸の中へ漂っていた。


ミレイが来るまでの時間、バルトは何度も自分を責めた。


「もっと早く町へ連れて行けば」


「雨が降る前に薬を買っておけば」


リーサは夫へ「今それを言っても仕方ない」と言いながら、自分もまた「私が気づくのが遅かった」と呟いた。


ヨナスは、そのやり取りを聞いていた。


事故が起きた時、王都の公会はまず責任者を探した。誰のせいか。誰が書類へ署名したか。誰を処分すれば終わるか。


ここでも同じことを始めたら、目の前のノアを見る人がいなくなる。


「今は」


ヨナスは二人へ言った。


「誰のせいかより、ノアが今夜を越えることだけ考えましょう」


言いながら、自分自身へ言っているような気がした。


自分も追放後ずっと、「誰が悪かったのか」を考え続けていた。ラルフ。公会。同僚。そして時には、自分自身。


それは必要なことかもしれない。


でも、過去の責任を考えることと、今生きるために手を動かすことは別だ。


ノアの夜は、そのことをヨナスへ教えた。


ミレイが薬草を煎じる間、ヨナスは炉の火を見ていた。火が強すぎれば薬が煮詰まり、弱すぎれば時間がかかる。建築と同じで、ただ大きな力があればいいわけではない。必要な加減がある。


「今」


ミレイが言った。


「火を少しだけ落として」


ヨナスは薪を一本外す。


「それくらい」


小さな共同作業。


けれどその夜、ヨナスは自分の手が「建物を造る時だけ役に立つ」のではないと知った。


桶を運ぶ。火を調整する。疲れた父親へ椅子を出す。


奇跡ではない。


誰にでもできること。


それでも必要とされる。


この経験もまた、最後に力を失ったヨナスが普通の人間として暮らしていくための、小さな下地になっていった。


診療所ができたことで、雨宿に集まる人々の安心感は目に見えて変わった。旅人は「もし途中で怪我をしても、あそこまで辿り着けば」と話すようになった。エナはリクが熱を出しても以前ほど取り乱さなくなった。


建物一つが、病気を治すわけではない。


けれど「助けを求める場所がある」という事実は、人の恐怖を減らす。


ヨナスはそのことを知った。


家は雨を防ぐ。井戸は喉の渇きを防ぐ。診療所は、何かあった時に一人で抱え込まなくていいという安心を作る。


建築が人へ与えるものは、物理的な機能だけではない。


それは、ヨナスが公会で学んだどの教本にも、ほとんど書かれていなかった。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。