第4話 戻ってきた場所
ヨナスが再び井戸のそばへ戻ると、そこには待ってくれていた人たちがいました。
「帰る家」はなくても、「戻りたい場所」は少しずつ生まれていきます。
翌朝。
ヨナスは目を覚ますと、自然に北東の空を見た。
夜は岩陰で過ごした。外套を丸めて枕にし、膝を抱えるように眠ったせいで背中が痛い。
今日はどこへ行こう。
荒野を抜けるなら南へ進めばいい。遠くに小さな町があるらしい。日雇いの仕事なら見つかるかもしれない。
そう考えながら、足はもう井戸の方角へ向いていた。
「あの人に会いに行くだけだ」
誰に言い訳するでもなく呟く。
「水も飲ませてもらえるし」
昼前。
井戸小屋が見えてきた。
そしてヨナスは足を止めた。
オルドだけではない。
見覚えのある女と子ども。
エナとリクだった。
エナは井戸から水を汲み、リクは小さな木桶を抱えてオルドの周りを歩いている。
「あっ!」
リクが真っ先に気づいた。
「ヨナス兄ちゃん!」
その呼び方に面食らう。
オルドも振り返った。
「おお。戻ってきたか」
胸が妙に詰まった。
「……はい」
エナが歩み寄る。
「ヨナスさん」
「体調は大丈夫ですか」
「はい。本当に、あの家のおかげです。リクも熱を出さずに済みました」
リクが外套を引っ張る。
「ねえ、おうち、まだあるよ」
「うん」
「ぼく、ちゃんと寝たよ。暖炉あったかかった」
ヨナスは自然に笑った。
井戸の周りには昨日より生活の痕跡が増えていた。乾かした布。薪。水瓶。リクの小さな靴。
誰かが、ここに留まり始めている。
「ほれ」
オルドが木の杯を差し出す。
「飲め」
冷たい水を一口。
「……うまいですね」
「じゃろう」
そしてオルドは何気なく言った。
「お帰り」
ヨナスの手が止まった。
「……え?」
「昨日、戻ってこいと言ったじゃろ。だから、お帰り」
王都の南門が脳裏に蘇る。
――二度と戻るな。
その言葉を上書きするように。
――お帰り。
返事ができない。
「どうした」
「いえ……何でもありません」
エナも穏やかに笑った。
「お帰りなさい、ヨナスさん」
胸の奥へ、長い間冷えていた場所へ、突然熱いものを流し込まれたようだった。
「昨日、あなたがあの家を出てから、ずっと気になっていました」
「私を?」
「だって、私たちに家をくださったのに、自分は雨の中へ行ってしまったでしょう」
「私は大丈夫です」
反射的に答える。
オルドが鼻を鳴らした。
「どこがじゃ。目の下が真っ黒じゃ」
リクが覗き込む。
「ねむいの?」
「少しだけ」
「じゃあ寝たら?」
「……どこで?」
リクはきょとんとして、井戸小屋の横を指した。
「ここ」
大人たちが笑う。
「そこは地面だよ」
「でも、ぼくたちも前は地面で寝てた」
エナがそっと言った。
「今は違います。少なくとも、ここには水があります。火も起こせます。毛布もあります」
リクが最後に言った。
「ぼくもいる」
ヨナスは何も言えなくなった。
ここには水がある。火がある。毛布がある。そして、人がいる。
建物としての家はない。
それでも昨日までの荒野とは違う。
「……少しだけ、休ませてもらってもいいですか」
オルドが笑う。
「最初からそうしろと言っとる」
午後。
ヨナスは井戸小屋のそばで眠った。
少しだけのつもりが、目を覚ますと夕方だった。
近くではエナが鍋を火にかけ、リクはオルドと石を並べて遊んでいる。
「起きた!」
リクが声を上げる。
「よく眠っていましたね」
「すみません」
エナが笑った。
「どうして謝るんですか」
自分でも分からなかった。
誰かの近くで眠ること。誰かに見守られた状態で眠ること。それ自体が申し訳なく感じたのかもしれない。
夕食は薄い野菜のスープだった。
四人で火を囲む。
リクが拾った石の話をする。オルドが昔いた村の話をする。エナが、あの家の壁がどれほど雨を防いだか話す。
ヨナスはほとんど喋らなかった。
でも、黙って座っているだけで胸が静かになった。
そこへ、二人の旅人がやってきた。
井戸を見つけて目を見開く。
「水……?」
オルドが手を振った。
「飲め飲め」
旅人たちは水を飲み、何度も礼を言った。
自分が造ったものが、知らない誰かまで助けている。
「ヨナス」
「はい」
「この辺り、少し整えた方がよさそうじゃ」
「どういう意味です?」
「人が来る。これだけ水があれば噂になる」
エナも頷く。
「私も、途中で会った人に話しました。同じように困っている人がいるかもしれないから」
人が増える。
それは喜ばしいことなのか。それとも、また何かが始まるということなのか。
まだ分からない。
夜。
ヨナスは自分のための寝床を思い描いてみた。
やはり何も視えない。
けれど今夜は、前ほど胸が冷えなかった。
ここには、自分を見つければ笑う人がいる。
戻れば「お帰り」と言う人がいる。
その事実が、小さな屋根よりも温かかった。
「……お帰り、か」
星空を見上げる。
帰る家がなくても、戻ってきたいと思う場所が一つできていた。
井戸のそばで一眠りしたあと、ヨナスはリクが石で作ったものを見せられた。地面に小石を四角く並べただけのものだった。
「これ、ぼくのおうち」
「ずいぶん小さいね」
「ここがお母さん。ここがぼく」
二つの丸い石。
「ヨナス兄ちゃんは?」
突然聞かれ、言葉に詰まった。
「私は……別のところかな」
リクは納得しなかったらしい。四角の外にあった石を一つ拾い、中へ置いた。
「ここ」
「そこは狭いよ」
「つめたら入る」
子どもらしい乱暴な答えだった。
ヨナスは笑ったが、その小石を元の場所へ戻すことはできなかった。
夕方、旅人たちが井戸へ来た時も、オルドは誰の素性も深く尋ねなかった。水を汲み、座れる場所を教え、それで終わりだった。
「知らない人でも飲ませるんですか」
ヨナスが聞くと、オルドは怪訝そうな顔をした。
「喉が渇いとるのに、名前を聞いてから飲ませるのか?」
「いえ」
「なら同じじゃ」
王都では、何をするにも証明が必要だった。所属、資格、身分、許可。もちろん、それには理由がある。だが、この荒野で死にかけた人間へまず必要なのは、水と火だった。
ヨナスはその単純さに救われる気がした。
夜、エナがリクを寝かせたあと、ヨナスのそばへ来た。
「この間の家、ずっと使ってもいいんでしょうか」
「もちろん」
「でも、あなたの力で造ったものなのに」
「エナさんとリクのために視えた家です。だから、最初から二人のものだったんだと思います」
自分で言って、少し驚いた。
建物は造った人のものではない。必要とした人の暮らしのものになる。
それなら、自分のための家が視えないことにも何か意味があるのだろうか。
まだ答えはない。
「ヨナスさん」
「はい」
「あなたが戻ってきてくれて、リクがすごく喜んでました」
「私も……少し嬉しかったです」
言葉にすると、胸がくすぐったい。
エナは笑った。
「じゃあ、また明日も」
ヨナスはすぐには答えなかった。
明日という言葉を約束のように使うのが怖かった。
けれど最後には、小さく頷いた。
「はい。また明日」
その一言が、雨宿という名もまだない場所へ、ヨナスをもう一日留めた。
その夜、エナはリクが眠ったあと、小さな布袋をヨナスへ渡した。中には乾かした木の実が入っていた。
「旅の途中で拾ったものです。大したものじゃないけど」
「受け取れません」
いつもの返事をすると、エナは少し困った顔をした。
「じゃあ、リクからのお礼ということで」
見ると、布袋には子どもの字らしき線が何本も描かれている。文字ではない。ただの模様。
「ヨナス兄ちゃんの袋、って言ってました」
断れなくなった。
ヨナスはその袋を長く持ち歩くことになる。王都の高価な道具より、誰かが自分のために用意した小さな袋の方が捨てられなかった。
この頃から、彼の荷物には「人からもらったもの」が少しずつ増え始める。
朝の井戸には、少しずつ決まった順番ができた。最初にオルドが水を汲み、その次にエナ。ヨナスは誰もいなくなった頃に自分の水筒を満たす。
ある日、エナが先に桶を差し出した。
「ヨナスさんが先」
「私は後で」
「いつも後でしょう」
結局、押し切られた。
些細な出来事だった。
でも、自分の順番を譲られることにヨナスは驚いた。
公会では若い助手はいつも最後。それが当然だった。
ここでは、その日の都合で前にも後ろにもなる。
人として扱われるというのは、こういう小さな場面に現れるのかもしれない。




