第7話 最初の広場
人が増えれば、暮らしには「みんなで集まれる場所」も必要になります。
ヨナスが次に造るのは、雨宿の人々をつなぐ最初の広場です。
それから数日。
井戸の周りには、暮らしの形が増えていった。
エナとリク。オルド。ノアと両親。診療所に残ったミレイ。そして、井戸の噂を聞いてやってきた旅人や、行き場を失った者たち。
誰かが木を拾い、誰かが火を起こし、誰かが食べ物を分ける。
まだ村と呼べるほどではない。
けれど何もなかった荒野に、人の暮らしが生まれ始めていた。
ヨナスは、それを少し離れた岩から見るのが好きだった。
「またそこですか」
薬草の束を抱えたミレイが来る。
「よく見えるので」
「何が?」
「みんなが」
ミレイは少し黙った。
「中に入れば、もっとよく見えますよ」
ヨナスは答えなかった。
その日の午後。
井戸の方から怒鳴り声が聞こえた。
「だから、そっちを通るなと言っただろ!」
「そんなことを言われても、ここしか道がないんだ!」
三人の男が揉めていた。
一人がヨナスへ不満をぶつける。
「こいつらが、うちの小屋の前を勝手に通るんだ!」
「井戸へ行くにはあそこが一番近いんだ!」
人が増えたことで、それぞれが勝手に住む場所を決めていた。
井戸、診療所、小屋、天幕。少しずつ離れている。
道はない。
雨が降れば泥。晴れても石が多い。
人は一番歩きやすい場所を通る。すると誰かの生活の前を横切る。
「昨日、子どもが転んだんです」
女が言う。
「夜なんてもっと危ない。診療所まで行きたくても暗くて方向が分からない」
オルドがため息をつく。
「人が増えるというのも面倒なもんじゃのう」
「少し嬉しそうですね」
「そりゃあ、面倒を見る人が増えたということは、生きてる人が増えたということじゃ」
その言葉にヨナスは笑った。
でも問題は残る。
道。
集まる場所。
どこへ行けばいいか分かる場所。
目を閉じる。
鑿が熱くなる。
灰色の世界。
金色の線。
ところが今回は、壁も屋根もなかった。
線は地面を走り、井戸と診療所と家々を繋いでいく。
中央に大きな円。
「……広場」
ヨナスは自分でも驚いた。
これまで造ったのは何かを囲うものだった。
でも今視えるのは、囲わない場所。
人が来て、そこからまた別の場所へ行く空間。
「やってみます」
家々と井戸と診療所の中間地点へ向かう。
荒野の真ん中。
石と風しかない。
鑿で大きな円を描く。
――ガチリ。
光が地面を這う。
土が平らになり、平たい石が美しく組み合わさる。円形の石畳。その中心から三方向へ小径が伸びる。井戸、診療所、家々へ。
縁には低い石の腰掛け。風を少し避けられる程度の石壁。
光が消えた。
誰もしばらく声を出さなかった。
やがてリクが走り出した。
「わあっ!」
石畳の上を走る。
転ばない。泥もつかない。
ノアも後を追う。
「こら、走りすぎないの!」
リーサが言いながら笑う。
さっきまで喧嘩していた男たちは小径を歩き、顔を見合わせた。
「これなら家の前を通らなくて済む」
「雨でも井戸まで行ける」
石の腰掛けへ座った女が言う。
「ここで立ち話もできるね」
ヨナスは不思議な感覚で眺めた。
誰か一人のために造ったわけではない。
広場には所有者がいない。
誰の家でもない。
でも、みんなが使える。
誰かが座る。
誰かが話す。
誰かが待つ。
「ヨナスさん」
ミレイが隣へ来る。
「家じゃないですね」
「はい」
「でも、ここも居場所ですね」
ヨナスは広場を見た。
人が集まることで、そこが居場所になる。
誰かと誰かの間に生まれる場所。
「そうですね。これも」
夕方。
広場の中央に小さな火が焚かれた。
最初は湯を沸かすだけだった。
でも誰かが芋を持ってきた。別の誰かが乾いた肉。エナが粉を少し。ミレイが香りのいい葉。オルドが井戸の水。
気づけば大きな鍋でスープが煮えていた。
「これは誰の夕飯じゃ?」
オルドが聞く。
誰かが笑って答えた。
「みんなのでしょう」
ヨナスはいつものように少し離れようとした。
リクが手を掴む。
「こっち」
「私は」
「座るの」
「空いてるよ」
ミレイが向こうから笑っている。
「諦めた方がいいですよ」
ヨナスはため息をつき、輪の端へ座った。
でも、輪の中だった。
オルドが椀を渡す。
「ほれ」
「ありがとうございます」
ミレイが笑う。
「上達しましたね」
「何がです?」
「ありがとう」
ヨナスも笑った。
スープは少し薄い。でも美味しかった。
誰かが昔いた村の話をする。別の誰かが家をどう建てるか話す。子どもが割り込む。
大したことのない話。
でもヨナスは、その中へ座っていた。
「ヨナスさん」
「はい」
「今日は外から見ていませんね」
ミレイの言葉に気づく。
いつも少し離れていた自分が、今は輪の中にいる。
「……思っていたより、悪くないです」
「それはよかった」
夜。
広場へ一人残ったヨナスは、今日、自分のための寝床を思い描こうとはしなかった。
屋根は欲しい。寝台もあれば楽だ。
でも今夜は、石の腰掛けへ背を預けても前ほど寒くなかった。
ミレイが毛布を持って来る。
「学習しませんね」
「今日はここで眠りたいんです」
「気に入ったんですね」
「多分」
毛布を受け取る。
「ありがとうございます」
「満点」
「何の試験ですか」
「人に頼る練習」
「頼ってはいません」
「毛布、返します?」
ヨナスは少し考えた。
「……借ります」
ミレイは満足そうに頷く。
「この広場、きっとこれからいろんな人の帰る途中になると思います」
「帰る途中?」
「井戸から家へ。診療所から家へ。旅からどこかへ。その途中に誰かと会う」
ヨナスは石畳を見る。
自分には帰る家がない。
でも誰かが帰る途中で立ち止まる場所なら造れる。
家を造らなくても、居場所は造れる。
そのことを、初めて知った。
広場ができた翌朝、誰が決めたわけでもないのに人々はそこへ集まった。
オルドは井戸から水を汲んだ帰りに腰掛け、エナはリクを遊ばせながら洗濯物を畳んだ。バルトは新しい小屋に使う板を並べ、リーサはノアを日なたへ座らせた。
ヨナスはその様子を見て、設計図では予想できなかったことが起きていると気づいた。
人は、広場を目的通りには使わない。
休むための石の腰掛けが子どもの遊び場になり、道案内のつもりで伸ばした小径の端では、女たちが野菜の皮を剥いている。低い石壁には濡れた布が掛けられた。
「使い方が違う」
ヨナスが呟くと、ミレイが笑った。
「困ります?」
「いえ……面白いです」
「建物って、作った人の思い通りには使われないんですね」
「それがいいのかもしれません」
公会にいた頃、ヨナスは図面通りに施工されることが正しいと思っていた。もちろん安全のためには必要だ。だが完成した後、その場所をどう暮らしに取り込むかは住む人のものだ。
午後には、広場で初めて小さな物々交換が始まった。
旅人が余った乾燥豆を置き、エナが縫い直した布袋と交換した。バルトは木を削って作った匙を並べ、代わりに塩を受け取った。
「市場みたいですね」
ヨナスが言う。
「まだ三人しか売ってませんけど」
ミレイはそう言いながら、薬草を小袋へ分けていた。
「あなたも売るんですか」
「薬じゃありません。虫除けです」
「需要がありそうです」
「ヨナスさんには無料であげます」
「それでは商売にならない」
「代わりに棚を直してください」
「なるほど」
こうして、物だけでなく手間も交換されていく。
ヨナスは一日中それを眺めていた。
夕方には、オルドが広場の真ん中へ石を一つ置き、「ここを集合場所にしよう」と勝手に決めた。
「何の集合です?」
「何かあった時じゃ」
「何かとは」
「火事とか、迷子とか、喧嘩とか」
「最後のは集合しなくても」
「年寄りは喧嘩を見るのも暇つぶしじゃ」
周囲が笑う。
その夜、子どもたちは広場の石畳へ寝転がって星を見ていた。
リクが指を伸ばす。
「あれ何?」
「星」
「名前は?」
ヨナスは答えられない。建築のことならいくらでも説明できるが、星には詳しくない。
セシリアがまだ来る前のこの時期、星の名前を知る者はオルドだった。意外にも老人は昔、旅商人の荷運びをして各地を歩いたことがあるらしい。
「旅人は夜空で方角を知るんじゃ」
オルドが星を結んで見せる。
ヨナスも子どもと一緒に聞いた。
広場は、ただ道を繋ぐ場所ではなく、知っていることを渡す場所にもなっていく。
ヨナスは心の中で設計図を思い返した。
金色の線には、こんな光景まで描かれていただろうか。
いや。
設計図が示したのは石の配置と道だけだった。
そこで何が起きるかは、人が作る。
その事実が嬉しかった。
自分の力がすべてではない。
自分が造った後に、誰かが続きを造ってくれる。
それは、ヨナスが初めて知る安心だった。
広場には、やがて「待つ」という使い方も生まれた。遠くへ薪を拾いに行った家族を待つ。町へ出た行商人の帰りを待つ。診療所で手当てを受ける家族を待つ。
ヨナスはある夕方、オルドが広場の端へ一人座っているのを見つけた。
「誰かを待ってるんですか」
「お前さんじゃ」
「私?」
「今日は朝から見んかったからな」
ヨナスは言葉を失った。
用があるからではない。いなかったから待った。
そのことが、広場のどの石より重く感じられた。
広場ができたことで、雨宿には初めて「皆で祝う日」も生まれた。ノアが完全に回復した日、リーサが小さな菓子を焼き、広場で配ったのだ。
菓子は硬く、甘味も少ない。
それでもノアは一人ずつに配り、最後にヨナスへ渡した。
「ここ作ってくれたから」
「診療所を?」
「広場も。みんなに会えるから」
ヨナスは受け取った。
建物の役割を、使う人が自分の言葉で教えてくれる。
それは建築士として何より嬉しい評価だった。




