↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/20

第16話 大地の天秤

城壁ができて三日後。


一人の修道女が雨宿を訪れた。


名はセシリア。


西方修道院で古文書を研究しているという。


彼女はヨナスを見るなり言った。


「あなたは、自分のための家だけ造れないのではありませんか」


ヨナスは息を呑んだ。


セシリアが古い書物を開く。


そこには、鑿を持つ人物と金色の線が描かれていた。


『大地の代行者』


数百年に一度、多くの人々が居場所を失う時代に現れる者。


他者の切実な必要を、大地の力で形にする。


「代行者は、自らの欲望のためには力を使えません」


ページをめくる。


古い文字。


『己がための屋根、築くこと能わず』


ミレイが顔を曇らせる。


「じゃあ、ヨナスさんは生涯自分の家を?」


「この力で、という意味です」


セシリアは続けた。


「他者へ居場所を与える者は、自分だけのための居場所を大地から受け取れない」


ヨナスは自分の手を見る。


「だから、何も視えなかった」


長い疑問に答えが出た。


悲しいというより、納得に近かった。


「ヨナスさん」


「大丈夫です」


ミレイがすぐ言う。


「その言葉、便利に使わないでください」


ヨナスは苦笑した。


セシリアはさらに指を進める。


「もう一つ、こうあります」


『その者が、もはや一人で屋根を支える必要なき時、大地はその手を離す』


「どういう意味です」


「私にも完全には分かりません」


セシリアは首を振る。


「ただ、力には終わりがあるということでしょう」


その夜。


ヨナスは城壁の上から雨宿を見た。


家々の灯り。


自分の家はない。


でも以前ほど苦しくない。


ミレイの言葉が残っている。


あなたは雨宿に住んでいる人です。


家がなくても、そう言われた。


今はそれだけで、少し足りた。


セシリアが持ってきた古文書は、誰にでも読めるものではなかった。文字は古く、ところどころ消え、挿絵の金色も薄れている。彼女は修道院で写本を作りながら、何年もこの一節を研究してきたという。


「どうして、私だと思ったんですか」


ヨナスが聞く。


「噂だけなら半信半疑でした」


セシリアは答えた。


「一晩で家を造る人、一日に一つしか奇跡を起こせない人。そこまでは似た伝承が他にもあります。でも『自分の家を持っていない』と聞いて」


「誰がそんなことを」


「旅商人です」


ヨナスはドミニクを思い浮かべ、少し苦笑した。


「口が軽い」


「でも、そのおかげで私は来られました」


セシリアは書物を広げた。


そこには、昔の代行者について短い記録がいくつか残されていた。


一人は干ばつの村へ水路を造った。


一人は戦で焼かれた町へ避難所を築いた。


一人は雪崩で孤立した山村へ橋を架けた。


どれも人々を救った後、詳しい記録が途切れている。


「この人たちは、その後どうなったんです」


「分かりません」


「家を持てないまま?」


「恐らく」


ミレイが唇を噛む。


「それを『天秤』と呼ぶんですか」


「大地から力を借りる代わりに、自分の欲望のためには使えない。その均衡を昔の人は天秤と呼んだのでしょう」


ヨナスは不思議と腹が立たなかった。


むしろ、自分だけがおかしいわけではなかったと知って安心した部分さえある。


だがミレイは違った。


「どうして、人を助ける人だけが自分の家を諦めなきゃいけないんです」


セシリアは静かに答えた。


「私にも、その決まりが正しいとは言えません」


「なら」


「でも、古文書は『家を持ってはならない』とは書いていません」


ミレイが止まる。


「『己がための屋根、築くこと能わず』です。自ら力で築けない、という意味にも読めます」


ヨナスも顔を上げた。


小さな違い。


けれど重要な違いだった。


「他人が造った家なら?」


「古文書には何も」


ミレイがヨナスを見る。


ヨナスは視線を逸らした。


「まだ、その話は早いです」


「何が早いんです」


「私一人のために家を造る理由がありません」


ミレイは何か言いたそうだったが、その場では黙った。


セシリアはもう一つ、能力の条件について興味深い解釈を示した。


「大地が応えるのは、単に困っている人がいる時ではありません」


「違うんですか」


「『その人が生きるために必要な形』がある時です」


金貨が欲しい、もっと広い家が欲しい、といった望みには応えない。


しかし雨をしのぐ家、水を得る井戸、病人を支える診療所には応える。


「つまり、力は人の願いではなく必要を測っている」


「誰が測るんです」


「それを昔の人は大地の意思と呼びました」


ヨナスは鑿を見る。


「私は選ばれたんでしょうか」


「そういう言い方もできます」


セシリアは少し考えた。


「でも私は、選ばれたというより、あなたが聞ける人だったのだと思います」


「聞ける?」


「人の必要を」


ヨナスは黙った。


公会にいた頃から、住む人の暮らしを想像する癖があった。


それをラルフは「助手の余計な考え」と切り捨てた。


もしかすると、自分が欠点だと思われていた部分こそ、この力と繋がっていたのかもしれない。


その夜、セシリアは診療所の一室へ泊まった。


ヨナスは城壁の上で一人、古文書の一節を思い返した。


『その者が、もはや一人で屋根を支える必要なき時、大地はその手を離す』


力を失う。


以前なら怖かったかもしれない。


今は少し違う。


今日だけでも、雨宿ではヨナスの力を使わずに屋根が一枚修理され、食事が作られ、病人が手当てされた。


自分一人で支えているわけではない。


では、いつ大地は手を離すのだろう。


その時、自分には何が残るのだろう。


まだ答えは出なかった。


セシリアは古文書の写しを一部、雨宿へ残した。ヨナスは夜になると何度もそれを読み返した。


古い代行者たちの記録には共通点があった。皆、大きな功績を残しているのに、自分の名前を刻んだ建物が一つもない。


「自分を残そうとしなかったんですね」


セシリアへ言うと、彼女は首を傾げた。


「あるいは、残ったものが建物ではなかったのかもしれません」


「どういう意味です」


「水路が残れば、人が住める。橋が残れば、人が行き来する。名前が消えても、その人が作った暮らしは続く」


ヨナスは雨宿を見た。


自分の名前が残るかどうかは、以前ほど重要ではなくなっていた。


誰かがここで暮らし続けるなら、それでいい。


セシリアはもう一つ、古文書の末尾に小さく書かれた注釈を見せた。


『代行者、己を数えずして天秤傾く』


「これは?」


ヨナスが聞く。


「解釈が難しいのですが」


セシリアは慎重に言う。


「他者だけを必要な存在と考え、自分自身を必要の側へ含めないと、均衡を失う……という意味かもしれません」


ミレイが即座にヨナスを見る。


「ほら」


「私を見ないでください」


「古文書まで言ってます」


「解釈かもしれないでしょう」


三人とも少し笑った。


だがヨナスの胸には残った。


己を数えずして。


自分だけ人数から外さないでください、とミレイに言われた第14話と同じ言葉。


偶然かもしれない。


それでも、代行者の役目は自分を消すことではないのかもしれない。


人を救うために自分を壊せば、長く救い続けることもできない。


その考えは、防衛戦で無理に敵を倒す力を求めず、守る形を選ぶ理由の一つになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。