第11話 旅商人ドミニク
雨宿という名が外の人間の口から出たのは、命名から半月ほど経った頃だった。
昼過ぎ、大きな荷馬車が一台やってきた。
荷台には布、塩、油、小麦、鍋、工具。御者台には日に焼けた大柄な男。
広場へ入るなり周囲を見渡し、感心したように息を吐いた。
「……ここが雨宿か」
ヨナスは思わず振り返る。
初対面の人間が、その名前を知っている。
男はドミニクと名乗った。南北の街を行き来する行商人で、旅人から雨宿の話を聞いたという。
「水がある。診療所がある。泊まれる。追い返されない。街道じゃ、なかなか評判だぞ」
広場へ商品を並べると、人々がすぐ集まった。塩、針、丈夫な布、鍋。どれも雨宿では不足していたものばかりだった。
夕方。
ドミニクがヨナスを探してきた。
「噂の建築士はあんたか」
「噂?」
「知らないのか。一晩で家を建てる男、地面を掘らずに井戸を造る男、金を取らずに家を渡す変人」
最後だけ、ヨナスは苦笑した。
「誰がそんなことを」
「面白い話は勝手に広がる」
しかしドミニクの顔から、少しずつ笑みが消えた。
「ただな。王都にも届いている」
胸の奥が冷える。
「建築公会が調べてる。監査部もだ」
ラルフの顔が浮かぶ。
「忠告しておく」
ドミニクは雨宿を見た。
「ここは、旅人からすればありがたい場所だ。だが外から見れば妙でもある。誰の許可で建てた。誰の土地だ。税はどうする。治安は誰が守る。犯罪者が逃げ込んだらどうする」
一つ一つ、ヨナスは初めて考えた。
自分たちには助け合う場所。
王都から見れば、許可なく増えていく正体不明の集落。
しかも中心にいるのは、かつて追放された自分。
「悪いと言ってるんじゃない」
ドミニクは言った。
「外からは、そう見えるって話だ」
そして街道を見た。
「もう一つ。雨宿へ来たいって人間が増えてる」
「どれくらい」
「分からん。だが、名前がついた場所には人が向かえる」
ヨナスは第9話の夜を思い出す。
名前があれば、帰ってくる時に呼べる。
だが同じ名前は、行き場のない人にも届く。
「居場所ってのは」
ドミニクは荷馬車へ戻りながら言った。
「作るより、守る方が難しいぞ」
その夜。
ヨナスはなかなか眠れなかった。
雨宿は、自分たちだけの場所ではなくなりつつある。
外から見られ、評価され、狙われる場所になっていた。
ドミニクは雨宿へ二日滞在した。理由は単純で、商売になったからだ。
人々は塩や針を買い、代わりに乾燥させた薬草、木工品、縫い直した布袋などを渡した。ドミニクは金だけでなく物々交換にも慣れていた。
「街道じゃ、金がない人間の方が多いからな」
彼はそう言いながら、バルトが作った匙を三本まとめて買った。
ヨナスはその様子を興味深く見ていた。雨宿の人々が、自分たちの手で作ったものを外の世界へ渡している。ここで生まれたものが、初めて町の外へ出ていく。
逆に外から入ってくるものもある。
塩。鉄釘。丈夫な布。情報。
中でも情報は、ヨナスが想像していた以上に大きかった。
「北では麦が高い」
「西の街道で橋が一本落ちた」
「王都じゃ冬前に税が上がるって噂だ」
ドミニクは食事の席で次々と話した。
雨宿にいると、世界はこの広場と井戸を中心に回っているような錯覚を覚える。けれど外では、別の町が動き、別の人が困り、別の争いが起きている。
「ヨナスさん」
ドミニクはふいに真面目な顔になった。
「ここで暮らしてると分かりにくいだろうが、雨宿は外から見るとかなり異常だぞ」
「異常?」
「悪い意味だけじゃない。数か月前まで何もなかった場所に、人が住み、道ができ、診療所がある。しかも税吏も領主もいない」
オルドが横から言う。
「いない方が静かでええ」
「そういう問題じゃない」
ドミニクは笑ったが、続けた。
「王国側からすれば、勝手に町が一つ生まれたようなもんだ」
ヨナスは黙った。
「それに、噂が尾ひれをつけてる」
「どんな?」
「ヨナスは石の山を一晩で城に変える。枯れ地を森にする。死者まで蘇らせる」
「最後は完全に嘘です」
「噂なんてそんなもんだ」
ミレイが少し嫌そうな顔をした。
「能力を大きく見せた方が、怖がる人も増えますね」
「そうだ。崇める奴も、利用したい奴も」
ドミニクはヨナスを見る。
「だから、自分の力でできることと、できないことを自分で分かっておいた方がいい」
その言葉は後々重要になった。
ヨナスは自分の能力を、まだ感覚的にしか理解していなかった。
一日に一つ。
自分の家は造れない。
食料や薬は作れない。
必要なものが視える。
でも、どこまでが「必要」なのか。
何を造れて、何を造れないのか。
雨宿が大きくなるほど、曖昧なままでは危険だった。
その夜、ヨナスとミレイは広場で能力について話し合った。
「例えば、金貨が必要な人がいたら?」
「視えません」
「食料は?」
「たぶん無理です。倉庫は視えても、中身は出てこない」
「薬は?」
「診療所は造れました。でも薬草はあなたが持ってきた」
「人を傷つけるものは?」
ヨナスは少し考える。
「分かりません」
ミレイは真面目に言った。
「そこは知っておいた方がいいですね」
ヨナスは頷いた。
力は便利な道具ではない。
自分自身にも完全には理解できない何かから、条件付きで借りているもの。
そう考えた方がしっくり来た。
翌朝、ドミニクは旅立った。
「また来る」
「本当に?」
リクが聞く。
「商売になるからな」
皆が笑う。
ヨナスは荷馬車を見送りながら、外の世界へ繋がったことの嬉しさと怖さを同時に感じていた。
雨宿は、もう隠れていられる場所ではない。
ドミニクが持ち込んだものの中に、一枚の古い地図があった。
雨宿周辺は、ほとんど空白だった。
小さな街道の線と、遠くの村の名前。井戸も診療所も、当然載っていない。
「ここだ」
ドミニクが指を置く。
何も書かれていない場所。
ヨナスは長く見つめた。
「雨宿って、地図にないんですね」
「まだな」
「名前があって、人が住んでいるのに」
「地図に載るってのは、外の世界に『ここにある』と認められることでもある」
ヨナスは複雑だった。
認められたい。
でも見つけられるのが怖い。
自分自身と同じだと思った。
公会では認められたいと思いながら、拒絶されるのが怖くて余計な発言を控えることもあった。雨宿も今、外の世界との関係を避け続けることはできない。
ドミニクは地図の余白へ、小さく『雨宿』と書いた。
「勝手に書いていいんですか」
「俺の地図だからいい」
ヨナスは笑った。
たった二文字。
でも、空白だった場所に名前が入った。
その地図は後にセシリアが雨宿を探して来る時にも使われる。
そして王都側もまた、同じように地図の空白へ雨宿を見つけていく。
場所として認められることは、守られる可能性と支配される可能性の両方を持つ。
ヨナスは初めて、町を作ることが建物を作ることよりずっと複雑だと知った。
ドミニクが去った後、雨宿では初めて「外から来た人へ何を伝えるか」という話し合いも行われた。
水は自由に使っていい。診療所は急病人を優先する。宿泊は広場へ申し出る。刃物や争いを持ち込まない。
簡単な決まりを木板へ書いた。
ヨナスはその板を見て、少し感慨深かった。
誰でも受け入れることと、何をしてもいいことは違う。
居場所を守るには、優しさだけでは足りない。安心して暮らすための境界や約束も必要になる。
後の城壁も、王都との交渉も、その延長線上にあった。




