第九話「月と旅と」
第九話「月と旅と」
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「お前の願いは何だ」
西行の問いが、真魚の胸の中にずっと残っていた。
歌を詠みたい。
そう思い始めていた。
でもまだ、はっきりとした言葉にはならなかった。
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次に飛んだとき、西行は川のほとりに座っていた。
夜だった。
月が水面に映っていた。
真魚が現れると、西行は少し顎を動かした。
隣に座れ、ということだと真魚はわかった。
真魚は西行の隣に座った。
しばらく二人で、月の映る川を見ていた。
やがて西行が口を開いた。
「今日はこの歌だ」
「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」
真魚は歌を頭の中で繰り返した。
嘆けと言って、月は私を物思いにかりたてているのだろうか。
そうではない、恋の悩みを月のせいにしている、私の涙なのだよ。
「月のせいにしているけど、
本当は自分の中にある悲しみだという歌ですか」
と真魚は言った。
「そうだ」と西行は言った。
真魚は月の映る川を見ながら言った。
「誰かのせいにした方が、
楽なことってありますよね。
学校でも、あの子が悪いって思う方が楽で。
でも本当は、
自分の中にある何かが反応しているだけなのかもしれない」
西行はそれを聞いて、少し間を置いてから言った。
「月は何もしていない。
ただそこにある。でも人はそこに自分の心を映す。
月が悲しいのではなく、自分が悲しい。
それを正直に詠んだ」
真魚はその言葉を聞いて、胸の中で何かが解けた気がした。
自分の心を、正直に。
学校では、本当のことを言えなかった。
表と裏が裏腹なまま、ずっと過ごしてきた。
でも歌の中では、正直でいいのかもしれない。
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しばらくして、西行が次の歌を口ずさんだ。
「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」
真魚はその歌を聞いて、静かに言った。
「風流を解する心まで捨てたはずの出家の身でも、
しみじみとした趣は自然と感じられる。
鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れよ。」
西行は何も言わなかった。
真魚は少し考えてから言った。
「これは最初に私があなたに会った場所の歌ですね」
西行はわずかにうなずいた。
「あの時、私にはあなたが見えました」と真魚は言った。
「何かを抱えている人だって」
西行はしばらく黙っていた。
「捨てたつもりのものが、捨てられていなかった」とやがて言った。
「出家しても、美しいものに心が動く。
それを恥じていた時期もあった」
「恥じなくていいと思います」と真魚は言った。
「心が動くから、歌が生まれるんじゃないですか」
西行は真魚を見た。
その目に、かすかな驚きがあった。
千年間、誰もそう言ってくれなかったのかもしれない、と真魚は思った。
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やがて西行が最後の歌を口ずさんだ。
「都にて 月をあはれと 思ひしは 数にもあらぬ すさびなりけり」
真魚はゆっくりと言った。
「都で月をしみじみと思ったのは、
取るに足らない慰みだった。
旅に出て、本物の月を見てから、そう思った。という歌ですか」
「そうだ」と西行は言った。
「都にいた頃は、月を見ているつもりだった。
でも旅に出て、野宿をして、雨に濡れながら月を見て、
初めて月が見えた気がした」
真魚は夜空の月を見上げた。
「本物を見るためには、外に出なければいけないんですね」
「快適な場所にいては、見えないものがある」と西行は言った。
「痛みの中でしか、見えないものがある」
真魚は黙って月を見ていた。
学校での日々が、真魚の頭をよぎった。
椅子を引かれた日。
ノートに落書きをされた日。
図書室に逃げ込んだ日。
あの痛みの中で、真魚は歌と出会った。
あの痛みがなければ、西行とも出会えなかった。
「痛みの中で見えたものを、歌にすればいいんですか」と真魚は言った。
西行はゆっくりと真魚を見た。
「お前は、少しずつわかってきたな」
それだけだった。
でも真魚には、それで十分だった。
月が、川面に静かに映っていた。




