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第六話「近づく」

第六話「近づく」


---------------


西行の世界にお伺いして六回目、

西行は真魚を無視しなくなった。


ただそれだけだった。

声をかけてくるわけでも、

こちらを向くわけでもない。


でも真魚が近づいても、

立ち去らなくなった。

二人で並んで、その歌の情景の中にいた。


真魚はそれで十分だった。


---------------


「小山田の 庵ちかく鳴く 鹿の音に おどろかされて 驚かすかな」


秋の山里だった。


小さな田んぼの向こうに、粗末な庵が一つあった。

静かな夜の空気の中、突然鹿の声が響いた。

高く、細く、寂しげな声だった。


西行は庵の前に座っていた。

真魚はその隣に立った。


しばらくして、西行がぽつりと言った。

「鹿の声で目が覚めたことがある」


真魚は黙って聞いていた。


「静かだと思っていた夜が、実はそうではなかった。

鹿も、虫も、風も、みなそこにいた。」


真魚は鹿の声を聞きながら思った。


気づいていないだけで、

世界はいつも満ちているのかもしれない、と。



---------------


「きりぎりす 夜寒に秋の なるままに 弱るか声の 遠ざかり行く」


秋の深い夜だった。


虫の声がしていた。

でも夜が深まるにつれて、その声は少しずつ遠くなっていった。

寒さが増すたびに、弱くなっていった。


西行は草の上に座っていた。

真魚もその隣に座った。


「声が遠ざかっていきますね」と真魚は言った。


「秋が深まるからだ」と西行は言った。

「寒くなるほど、声は小さくなる。それでも鳴いている」


真魚はその言葉を聞いて、胸の中に何かが刺さった。

弱くなっても、鳴いている。


学校で声を出せない自分のことを、真魚はふと思った。

でもここでは、真魚もこうして声を出している。


---------------



「松にはふ 正木のかづら 散りにけり 外山の秋は 風すさぶらむ」


山の裾野だった。


松の木に絡まっていたつたが、

秋風に吹かれて散り始めていた。


風が強くて、葉が舞い、空が広かった。


西行は風の中に立っていた。

真魚もその隣で風を受けた。


「散るのは悲しくないですか」と真魚は聞いた。


「散るから美しい」と西行は言った。

「散らぬものに、美しさはない」

真魚はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。


散るから美しい。


学校の中で、うまくいかないことばかりだった。

でもいつか、それも散っていくのだろうか。

散った後に、何か別のものが来るのだろうか。


---------------


「白雲を つばさにかけて 行く雁の 門田のおもの 友したふなる」


秋空だった。


白い雲の間を、雁の群れが飛んでいた。

翼に雲をまとうようにして、田んぼの上を渡っていった。

どこか遠くへ向かっていた。


西行は空を見上げていた。真魚もその隣で空を見た。


「雁はどこへ行くんですか」と真魚は聞いた。


「遠いところへ」と西行は言った。

「でも仲間と一緒だ」


真魚は雁の群れを目で追った。


仲間と一緒に、遠いところへ。


自分にはそういう仲間がいないと、真魚は思った。

でもそれを口にはしなかった。



---------------


「年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり さ夜の中山」


夜の山道だった。


険しい道が続いていた。

木々の間から月が見えた。


西行は杖をつきながら、ゆっくりと歩いていた。


真魚はその後をついていった。


「年を取ってからも、旅をするんですか」と真魚は聞いた。


「また来られるとは思っていなかった」と西行は言った。

「でも来られた。命があったから」


真魚は黙って歩いた。


命があったから、来られた。

それだけのことが、この人には深く響いているのだと思った。


---------------


「雲かかる 遠山畑を ながむれば そこに住む人 いかに寂しき」


高い場所だった。


遠くに山が見えた。その斜面に、小さな畑があった。

雲がかかって、霞んでいた。

誰かがそこで暮らしている。

でも遠すぎて、姿は見えなかった。


西行はその畑を眺めていた。

真魚もその隣で眺めた。


「あそこに住んでいる人は、寂しいですか」と真魚は聞いた。


「寂しいだろう」と西行は言った。

「でも寂しさの中にしか、見えないものがある」


真魚はその言葉を聞いて、胸の中で何かが動いた。


寂しさの中にしか、見えないものがある。


図書室の隅で一人で本を読んでいた日々が、

真魚の頭をよぎった。


あの孤独の中で、真魚は本の中の人たちと出会った。

歌と出会った。

西行と出会った。


もしかしたら、あの寂しさは必要だったのかもしれない。


---------------


「おぼつかな 秋はいかなる 故のあれば すずろに物の 悲しかるらむ」


秋の野原だった。


すすきが揺れていた。

空が高かった。

理由もなく、ただ悲しい気持ちになる、

そういう秋の日だった。


真魚はその情景の中に立って、ふと思った。


この空気を、知っている。


猿丸太夫の歌の情景と同じ空気だった。

奥山の紅葉と鹿の声。

あの寂しさと静けさが混ざり合った空気。


西行の歌の情景と、猿丸太夫の歌の情景が、

同じにおいを持っている。


なぜだろう。


真魚の中で、何かが動き始めた。



---------------


「よられつる 野もせの草の 上よりも 大空くもる 夕立の雨」


夕立の前だった。


野原一面の草が、風に乱されていた。

空が急に暗くなって、大きな雲が広がっていた。

雨が来る前の、あの独特の空気だった。


西行はその空を見上げていた。

真魚は西行の横顔を見ながら、

前回のことを考えていた。


猿丸太夫の歌の情景と、西行の歌の情景。

同じ空気。同じ寂しさ。同じ。

何か。


似ているというより、同じだ。


同じ人が、同じ場所に立っているような感覚。


でもそんなことは、あり得ない。

猿丸太夫と西行は、全く別の時代の人だ。


なぜ。



---------------


「朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 形見にぞ見る」


冬の野原だった。


枯れたすすきが、風に揺れていた。

名前だけを残して、すべてが朽ちていく。

でもその名前は、朽ちない。


真魚は枯野を見渡しながら、確信していた。


猿丸太夫と西行は、繋がっている。


同じ魂が、この歌たちを詠んだ。

だからこそ、同じ空気が流れている。

だからこそ、西行の歌の情景には、

猿丸太夫の歌と同じにおいがある。


でも、どうやって繋がっているのか。


真魚にはまだわからなかった。

ただ一つだけ、聞いてみたいことがあった。


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「いつ嘆き いつ思ふべき ことなれば 後の世知らで 人の過ぐらむ」


夕暮れの野原だった。


空が橙色に染まっていた。風が静かに吹いていた。


西行は遠くを見ていた。

真魚はその隣に立った。

しばらく、二人とも黙っていた。


真魚の中で、言葉が形を作り始めていた。

聞いてはいけないかもしれない。

でも聞かずにはいられなかった。


「あの」と真魚は言った。


西行は動かなかった。

「あなたは昔」


真魚は一度、息を吸った。

「歌を、詠めなかったことがありますか」


夕暮れの風が、静かに吹いた。


西行の手が、かすかに止まった。


ほんの一瞬だった。

でも真魚には見えた。見えてしまった。

焦り。嬉しさ。寂しさ。


三つが同時に、その横顔をよぎった。


西行は長い間、黙っていた。


やがて、静かに口を開いた。


歌うように、ゆっくりと。


「奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき」


猿丸太夫の歌だった。


真魚は何も言わなかった。

言わなくても、わかった。


夕暮れの空が、二人の上に広がっていた。

これ以上の言葉は、何も要らなかった。



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