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第五話「追いかける」

第五話「追いかける」


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あの人が誰なのか、真魚にはわからなかった。


墨染めの衣。

旅の僧のような佇まい。

沢の向こうを見つめていた横顔。

何かを抱えている人の顔。

あの表情が、頭から離れなかった。


---------------


翌日、真魚は図書室で西行の歌を探した。

百人一首の解説本に、一首だけ西行の歌が載っていた。


---------------


「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」


平安時代の歌人、西行法師。

出家して各地を旅した僧。

解説にはそれだけしか書いていなかった。

もっと読みたかった。


学校の図書室では足りなくて、

土曜日に市立図書館へ行った。

西行の歌集を探すと、

山家集という西行の歌集と、

西行の歌が多く収められた新古今和歌集という本があった。

真魚はそれを借りて、家に持ち帰った。


その夜から、真魚は西行の歌を読み始めた。


---------------


「岩間とぢし 氷も今朝は 解けそめて 苔のした水 道もとむらむ」


早春の山の中だった。


岩の間に張っていた氷が、朝の光を受けて少しずつ溶け始めていた。

苔の下を、細い水が音もなく流れていた。

どこへ向かうのかわからないまま、ただ流れていた。


真魚はその水を見ていた。


誰もいない山の中で、氷が溶けて水になる。

誰も見ていなくても、春はちゃんと来ている。


あの人はいなかった。


でも、この水の流れを詠んだ人がいる。

それだけで、真魚は何か温かいものを感じた。


---------------


「降りつみし 高嶺のみ雪 解けにけり 清瀧川の 水のしらなみ」


山の上から川を見下ろしていた。


高い峰に積もっていた雪が溶けて、

清滝川に白い波を立てていた。

春の光が川面に反射して、眩しいほどだった。

真魚は岸に立って、その流れを見ていた。

雪が溶けて水になって、川になって、どこかへ流れていく。


終わりではなくて、始まりなのかもしれない、と真魚は思った。


あの人はやはりいなかった。


でも、この川を見た人がいる。

この白い波を美しいと思った人がいる。



---------------


「よし野山 さくらが枝に 雪散りて 花おそげなる 年にもあるかな」


吉野の山だった。


桜の枝に、雪が散っていた。

花が咲くにはまだ早い、寒い春の日だった。

枝は白く覆われていて、

花なのか雪なのかわからないほどだった。


そしてその時、真魚は気づいた。


少し離れた木の下に、あの人が立っていた。


雪をまとった桜の枝を見上げていた。

真魚に気づいていないようだった。

その横顔に、また同じものを感じた。

何か大きなものを抱えている人の顔。


真魚は声をかけようとした。


でも言葉が出なかった。


次の瞬間、山が消えた。



---------------


「聞かずとも ここをせにせむ ほととぎす 山田の原の 杉のむらだち」


夏の山だった。


杉の木が群れをなして立っていて、

その間から夏の光が差し込んでいた。

どこかからほととぎすの声がした。


あの人がいた。


杉の木々の間に立って、鳥の声に耳を澄ませていた。

真魚が近づこうとすると、その背中がわずかに動いた。

気づいている、と真魚は思った。


でもあの人は振り向かなかった。


真魚は立ち止まった。

無視されている。


それはわかった。でも不思議と傷つかなかった。

この人には、この人の理由があるのだと思った。




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「横雲の 風にわかるる しののめに 山飛びこゆる 初雁の声」


夜明けの空だった。


横に長く伸びた雲が、風に吹かれて少しずつ形を変えていた。

夜明けの薄明かりの中、雁の群れが山の上を越えていった。

その声が、静かな空気を切り裂くように遠ざかっていった。


あの人が立っていた。


空を見上げていた。


真魚が近づくと、今度は逃げなかった。

でも振り向きもしなかった。

真魚がそのすぐ後ろに立っても、あの人はただ雁の声を聞いていた。


しばらく、二人とも黙っていた。


やがてあの人が、ぽつりと言った。

「また来たのか」

低い、静かな声だった。


真魚は少し驚いて、それからこう答えた。

「はい」


あの人はそれ以上何も言わなかった。

でも、立ち去りもしなかった。


二人で並んで、しばらく夜明けの空を見ていた。

雁の声が、遠くなっていった。


次の瞬間、空が消えた。


真魚は図書室の椅子の上にいた。

胸の中に、夜明けの空と雁の声の残像があった。


あの人が、西行だと真魚は確信していた。





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