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第四話「扉」

第四話「扉」


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あの日から、真魚は百人一首の本を図書室で借りた。


返却期限が来るたびに、また借りた。

三回目に借りたとき、司書の先生が少し驚いた顔をした。


真魚は何も言わなかった。

説明できなかった。

歌を声に出して読むたびに、飛んだ。

必ず飛ぶわけではなかった。

何度読んでも飛ばない歌もあった。

でも飛ぶ時は、必ず何かが胸の中で引っかかった瞬間だった。

言葉の意味が、突然立体的になる感覚。

平面だった文字が、

においを持ち、

温度を持ち、

音を持つ瞬間。

その瞬間に、真魚は別の場所にいた。


---------------

春の野原に飛んだことがあった。


霞がかかって、遠くまで菜の花が続いていた。

風が柔らかくて、

真魚はしばらくそこに立ったまま動けなかった。


嵐の海に飛んだこともあった。

波の音が耳を打って、塩の匂いがして、

真魚はすぐに戻りたくなった。

でも不思議と怖くはなかった。


どこへ飛んでも、真魚は一人だった。


誰もいない場所に、ただ真魚だけがいた。

それがよかった。

誰の顔色も窺わなくていい。

笑うタイミングを気にしなくていい。

ただそこにある情景の中に、真魚は溶け込んでいた。


---------------


西行の歌に初めて飛んだのは、十月の終わりだった。


「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」


沢のほとりに立っていた。

夕暮れの光が水面に滲んでいた。

葦が風に揺れて、かさかさと音を立てていた。

その時、一羽の鴫が飛び立った。

羽音が夕暮れの空気を切り裂いて、遠くへ消えていった。


真魚は息を呑んだ。


美しかった。

ただそれだけだった。

言葉にならないほど、美しかった。


そしてその時、真魚は気づいた。


誰かがいる。


少し離れた場所に、男の人が立っていた。

墨染めの衣をまとった、僧のような人だった。

真魚に気づいていないのか、ただ沢の向こうを見つめていた。


その横顔に、真魚は目を奪われた。


美しい人だと思った。


でもそれより、その表情が気になった。

何かを、抱えている人だと思った。


悲しいとも違う。

寂しいとも違う。

何か大きなものを、ずっと胸の中に持ち続けている人の顔だった。


真魚にはそれが見えた。

見えてしまった。


---------------

次の瞬間、沢が消えた。


図書室の蛍光灯が視界に戻ってきた。

真魚はしばらく、本を閉じたまま動かなかった。


あの人は、誰だろう。

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