第3章 老騎士(aged knight)その3
6.
「金貨五枚」
決して安くはなかった。
しかし、払えない額でもなかった。ガルドは外套の内から古びた革袋を取り出し、中を検めた。慰労金の蓄えである。この五年、特に使うあてもなく、ただ眠らせていた金だった。
金貨を五枚カウンターに並べる。
「確かに頂戴いたしました」
セックは金貨を袋に落とし紙箱を差し出した。
ガルドが受け取ろうとしたとき、女の指が箱の端を軽く押さえた。
「ただ」
その声が、一段低くなった。
「用法と用量は必ずお守りください。一日に二錠まで。それ以上は、決して」
「守る」
「本当に?」
「守る」
老人は短く答えた。
「三十年、部下に飲ませた水の量まで数えて生きてきた。指示を守れんような男はまっさきに死ぬ」
セックは目を細めた。
「……ええ。あなたはお守りになるでしょうね」
その言い方にガルドは一瞬だけ引っかかりを覚えた。
褒められたようでもあり、憐れまれたようでもあった。しかし女はすぐに指を離しいつも通りの営業用の笑みに戻ってしまった。
ガルドは紙箱を懐にしまい、扉へ向かった。
そこで足を止め、振り返る。
「ひとつ聞く」
「はい」
「あんたは、止めないのか」
セックは、水晶球に手を伸ばしかけたまま、顔を上げた。
「あなたは子供ではありません」
彼女は言った。
「私は薬局の店主として、効き目と副作用をご説明いたしました。それをどう使われるかは、あなたのご選択です。それ以上私が口を出すことではございません」
ガルドは小さく笑った。
大通りの薬師たちは、みな親切だった、正しかった。彼を“いたわるべき老人”として扱った。
四軒目にして初めて、この老人は自分が求めていた答えを貰ったのだ。
それが正しいものかどうかは考えなかった。
「世話になった」
「またのお越しを」
ガラス戸が閉まる。
老人の足音が裏通りの闇に消えていった。
セックはしばらく扉を見ていたが、やがてカウンターに戻り水晶球に指を添えた。
球の中に、外套の背中が浮かび上がる。まっすぐな背中だった。歩幅は乱れず、膝を庇う気配もない。まだ何も飲んでいないというのに、その足取りはこの店に入ってきたときより、いくらか若返って見えた。
「借りものの体で、本物の死に様を買おうというのですから」
セックは頬杖をついた。
「錆を落とした分、その剣の厚みは薄くなっていくというのに、それでもあえて」
球の中で、老人が角を曲がる。
彼女は少し笑った。
彼女は人の業を見るのが好きなのだ。
7.
変化は緩やかに来た。
最初の一粒を飲んだ夜、ガルドは何も感じなかった。銀の板から白い錠剤を押し出し、水で流し込む。それだけである。武具を新調したときのような、大袈裟な気構えをしていた自分が少し滑稽に思えた。
翌朝も、体は昨日の体だった。
ただ、三日目の朝素振りが三十三回になった。
四日目は四十回。
五日目には、四十回振り終えても肩が上がった。ガルドは剣を下ろし、しばらく自分の右腕を見ていた。それから、もう一度剣を構えた。
一週間が経つ頃には、朝の素振りは五十回になっていた。
膝の痛みが引いていた。
これが一番おかしなことだった。膝は薬でどうにかなるものではないと、三軒の薬師が口を揃えて言った。実際、雨の前になると膝の中で砂を噛むような感覚があり、それは十年間、ガルドの朝の一部だった。
その砂が消えていた。
正確に言えば砂はまだそこにあるのだろう。ただ、それを支える肉が戻ってきたので、砂の音が聞こえなくなっただけだ。ガルドはそう理解した。理屈はわからないが身体の側からはそう感じられた。
井戸の釣瓶を片手で引き上げてみた。
上がった。
ガルドは桶を縁に置き両手を見下ろした。皮の厚い、染みの浮いた老人の手だ。何ひとつ変わっていない。だがその中に、確かに力が戻っている。
「……なるほど」
彼は呟いた。
その日、ガルドは二軒目の薬師にもらった煎じ薬を土間の隅から出してきて、畑の脇に捨てた。
代償も同じ週のうちにやってきた。
夜、剣を磨いていたときのことである。
砥石に刃を当て、鎬に沿って滑らせる。五十年近く毎晩やってきた作業だ。目を閉じていてもできる。
その手が震えた。
大きく震えたのではない。指先が小刻みに揺れているのだ。剣を振るときには何ともない。薪を割るときも、桶を持ち上げるときも何ともない。細かい仕事をしようとしたときだけ、指の先が勝手に動く。
ガルドは砥石を置き、右手を膝の上に乗せた。しばらくして、震えは収まった。
「……あの女の言った通りだ」
彼は独りごちた。腹は立たなかった。むしろ、説明された通りのことが説明された通りに起きているという事実は、彼を妙に落ち着かせた。戦場でもそうだった。想定通りの被害は被害とは言わない。
汗も出るようになった。
朝晩の冷える時期だというのに、じっと座っているだけで背中が湿る。夜半、寝床の中で足の脹脛が引き攣り、あまりの痛みに声が出たこともあった。壁を蹴り、足の指をつかんで反らせ、痛みが去るのを待つ。翌朝、その痛みのことをガルドは特に考えなかった。
眠りは浅くなった。
二刻と続けて眠れない。目が覚めると、決まって胸が速く打っている。走ったあとのような脈が、寝床の中で鳴っている。しばらく仰向けのまま天井を見ていると、それは静かに引いていく。
ガルドはそれを記録した。
紙にではなく頭の中に、である。四十年以上、部隊の兵站を数え続けてきた男の癖だった。今日は二錠、動悸は二度、こむら返りは一度。想定の範囲。異常なし。
そう心に帳面をつけて彼は再び目を閉じた。
その週の終わりにロウェンが訪ねてきた。
月に一度の訪問である。律義なものだ。しかし、今回は少し早い。前回の帰り際、何か言いかけてやめてしまったことが、この不器用な男の中でずっと燻っていたのだろう。
ロウェンは薪を割り、井戸から水を汲み、それから縁側でガルドの顔を見て、意外そうな顔をした。
「師匠、顔色がいいですね」
「そうか」
「ええ。前に来たときより、その……」
ロウェンは言葉を探して、諦めた。
「肩の張りが違います」
「豆がよく採れたからな」
「豆でそこまで変わりますか」
「変わるんだろう」
ガルドは湯呑みを口に運んだ。
そのとき指先が震えた。湯が少し縁からこぼれ、膝を濡らした。
ロウェンは何も言わなかった。ただ、その目が湯呑みから師の手へ、手から顔へ一度だけ動いた。
ガルドは薬のことを話さなかった。
話す理由がなかった。話せば、この男は止めるだろう。止められれば、断らねばならない。断れば、この男が傷つく。それだけの手順を踏むくらいなら、黙っている方が早い。
そう考えたことに、ガルドは自分で気づかなかった。
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