第3章 老騎士(aged knight)その4
8.
一ヶ月が過ぎた。
朝の素振りが百回を超えた。
数えるのをやめたのは百二十回目のあたりである。数えるより先に、体が次の一振りに入っていた。剣の速度が戻っていた。刃が空気を切る音が四十代の頃に近くなった。
その日、ガルドは剣を布に包み、郊外へ向かった。
帝都の東、丘の裏手に使われなくなった演習場の跡がある。三十年前、ガルドが新兵を怒鳴りつけていた場所だ。柵は倒れ、土は草に覆われていたが、木製の的が三本まだ立っていた。
ガルドは外套を脱ぎ、剣を抜いた。
一合目で、身体が思い出した。
腰の落とし方。踏み込みの角度。肩を先に出さず、背中で押し出す感覚。手首を返す一瞬の間。五十年近く体に叩き込んだ形が、筋肉の底から一つずつ浮かび上がってくる。頭で思い出すのではない。体が勝手に正しい位置へ行く。
的が鳴った。
乾いた腹に響く音だった。的の表面がへこみ、木の繊維が裂けた。
ガルドは動きを止めなかった。二本目の的へ移り、三本目へ移り、また一本目へ戻る。汗が顎から滴り、草の上に落ちた。息が上がる。だが、上がった息が戻る。戻ったところで、また振れる。
体が思う通りに動くということ、それだけの喜びだった。
思った通りに体が動く。それがこれほど嬉しいことだったのかと、六十三歳の男は驚いていた。
引退してから五年、俺はこれを失って生きていたのか。
日が傾いてからガルドは剣を収めた。
帰り道でのことである。
丘の坂を下りかけたとき、視界が暗くなった。
前触れはなかった。景色の縁から墨を流し込まれたように、見えるものが黒く狭まっていく。耳の奥で高い音が鳴った。ガルドは倒れなかった。倒れる前に、傍らの木の幹に手をついたからだ。
そのまま、動かずに待った。
一、二、三――
十まで数える前に、黒はゆっくり退いた。景色が戻ってくる。夕暮れの赤い光が、丘の草を照らしていた。
ガルドは幹から手を離し、掌についた樹皮の屑を払った。
「疲れだ」
声に出して言った。
一日中、剣を振った。六十三の身体で、一日中である。疲れて当たり前だ。むしろ、この程度で済んでいることを喜ぶべきだろう。
彼は頭の中の帳面に、そう書きつけた。異常なし、と。
その夜、胸が重かった。
痛みではない。誰かが胸の上に、濡れた毛布を一枚置いていったような重さである。息が浅くなる。寝返りを打つと少し楽になる。
翌朝、それは消えていた。
消えたので、ガルドはそのことを考えなかった。
その頃から、体の外側も変わってきていた。
作業着の胸が窮屈になった。腰の帯を一つ内側の穴で締めるようになった。鏡はほとんど見ないが、水面に映る顔が妙に赤いことには気づいていた。汗はいよいよ止まらず、冬に入ろうという時期に、外套なしで畑に立っていた。
そして、ささいなことに腹を立てるようになった。
これは、ガルド自身には自覚しにくい変化だった。
ある朝、井戸端に例の子供が来た。以前、釣瓶を手伝ってくれた近所の子供である。悪気などまるでない顔で、いつものように取っ手に手を伸ばした。
「触るな」
ガルドの声が、自分でも驚くほど大きかった。
子供は手を引っ込め、しばらく老人の顔を見上げていた。それから、何も言わずに走って行った。
ガルドは桶を引き上げ、水を運び、家に入った。
土間で、桶を置いた。
’’今のはなんだ’’
胸の中がざわついていた。子供に言うことではなかった。以前の自分なら、礼を言って水を運ばせ、代わりに芋の一つも持たせてやったはずだ。
腹の底で、まだ何かが熱く鳴っていた。
理由のない苛立ちだった。理由がないのでぶつける先もない。
ガルドは水がめの縁を掴み、しばらく立っていた。
やがて彼は結論を出した。
’’おそらくは薬の影響’’
その結論に、彼はがく然とした。がく然としたが、やめるわけにもいかなかった、いや出来なかった。
彼は次の朝も、二錠を数えて飲んだ。
9.
二ヶ月目に入る手前で、ロウェンが再び訪ねてきた。
今度は用件があって来た顔をしていた。
「北の魔族の件です」
縁側に腰も下ろさず、ロウェンは言った。
「小規模ですが、組織的です。単なる食い詰めた落人の集まりではありません。指揮を執っている個体がいます。国境沿いの村が二つ、避難を余儀なくされました。騎士団は鎮圧部隊を編成中で、来月には出ます」
「そうか」
ガルドは畑の畝を見たまま言った。
「部隊長は」
「第三中隊のカルデン卿です」
「あれか。悪くない。腰が重いのが玉に瑕だが、包囲を崩さん男だ」
「はい」
ロウェンは頷き、それから少し笑った。
「――副団長も、出撃されますか」
冗談のつもりだった。
言った瞬間に、冗談ではなくなった。
ガルドが振り向いたからだ。
その顔を見て、ロウェンの背筋が冷えた。畑の泥を落としもせず立っている老人の目が、五年前――いや、二十年前と同じ光を放っていた。ロウェンはその目を知っている。防衛線の三日目、水も矢も尽きたときに、この人はその目で「まだ立てる者は前へ出ろ」と言った。
「師匠……まさか」
ガルドは、否定しなかった。
長い沈黙が落ちた。
冬の風が畑を渡り、豆の枯れ蔓を鳴らした。
「駄目です」
ロウェンが言った。
「駄目です、師匠。体がどういう状態か、ご自分でわかっているはずでしょう。確かにこのふた月で、あなたは変わりました。確かに動けるようになった。それは自分にもわかります。ですがそれは……」
彼は言葉を切った。言ってしまえば、後戻りできなくなる気がした。
それでも言った。
「その顔の赤さは何です。その汗は、手の震えは。何をされているんですか」
「……」
「答えてください。何をされているのかを」
ガルドは、鍬を土に突き立てた。
「ロウェン」
「はい」
「俺が何をしようとしているか、わかっているか」
ロウェンは答えなかった。
答えられなかったのではない。答えは、この二ヶ月ずっと自分の中にあった。前回、帰り際に言いかけてやめた言葉が、まさにそれだった。
’’師匠は、死に場所を探しておられる’’
「……はい」
かろうじて、そう言った。
「だったら、止めるな」
ガルドは言った。
声を荒らげはしなかった。ただ、その一言は鉄の板を置くように重かった。
「お前には、その権利がない」
ロウェンの口が、開いたまま止まった。
権利がない。
その通りだった。ロウェンはこの人の部下だった。二十年前、防衛線の三日目に襟首を掴まれて後方へ放り投げられた十八の少年だった。あのとき、ロウェンは前へ出ようとして、この人に止められた。命令だった。ロウェンは従った。従ったから、今ここに立っている。
止めるという行いを、この人はロウェンから奪った上で、自分だけは行使する。
理不尽だった。
そして、その理不尽こそが、二十年前にロウェンの命を拾ったものだった。
「……わかりました」
ロウェンは言った。
それ以上、何を言っても意味がないことを、彼は理解していた。この人はもう決めている。
「今日は、これで失礼します」
「薪はいいのか」
「割っておきます」
ロウェンは裏へ回り、日が暮れるまで薪を割った。
いつもより、ずっと多く割った。
その夜、ロウェンはひとりで酒を飲んだ。
騎士団の詰所ではなく、行きつけの店でもなく、名も知らぬ通りの安酒場だった。誰にも会いたくなかった。杯を三つ空けても、酔えなかった。
泣かなかった。
泣けなかった、と言うべきかもしれない。
杯の底を見ながら、ロウェンが考えていたのは、あの日の防衛線のことだった。放り投げられた自分の背中と、土の匂いと、振り返ったときに見えた師の背中。あの背中は、前を向いていた。
’’今度はあの背中を守る’’
そう思ってしまった自分に、ロウェンは気づいた。
止めることを禁じられた瞬間、彼の頭はもう、ついて行く算段を始めていた。
杯を置き彼は硬貨を並べて店を出た。
冬の夜気がひどく澄んでいた。
ご来店(ご一読)いただきありがとうございます。
もし当薬局のカルテに興味をお持ちいただけましたら、ページ下部の星マークより評価をお願いいたします。
皆様の評価やブックマークが、次の薬の調合する原動力となります。




