第3章 老騎士(aged knight)その5
10.
三ヶ月目に入った。
ガルド・ヴェインの体は、六十三の体としては信じ難い状態にあった。
腕は太くなり、胸は厚くなり、その上で脂が削げ落ちていた。前腕には縄のような血管が浮き、拳を握れば手の甲にまで筋が走る。腹の肉は消え、肋の輪郭が浮いていた。畑仕事で日に焼けた皮膚の下に、乾いた筋肉だけが残っている。
若返ったのではない。老人の体の上に、無理やり若い肉を貼りつけたような姿だった。
鏡を見れば、赤黒く火照った顔が映る。目の下の窪みは深く、眼球には細い血の筋が走っている。頭は片側だけが脈に合わせて痛み、耳の奥では絶えず高い音が鳴っていた。それは静かな夜ほどよく聞こえた。
肘が痛んだ。
肩でも手首でもなく、肘の内側である。剣を振り抜いた瞬間、そこに熱い針を刺されるような痛みが走る。以前は振った直後だけだったのが、今は一日中消えない。膝も同じだった。肉は言うことを聞く。肉を繋いでいるものだけが、悲鳴を上げ続けていた。
’’肉は薬で急に育ちます。ですが、腱と関節はそうはまいりません’’
あの女の声が、時折頭の隅を通り過ぎた。
通り過ぎるだけだった。
心臓の圧迫感は、毎晩来るようになっていた。
寝床に入って四半刻もすると、胸の中央に重いものが乗る。息を深く吸えない。仰向けでは苦しいので、上体を起こして壁にもたれる。そうして座ったまま、夜明けまで浅い眠りを繰り返す。
しかし、動いている間は何ともなかった。
これはガルドにとって重要な発見だった。横になると苦しい。座っていれば少し楽になる。立って動いていれば、まるで何もない。ならば答えは簡単だ。
動き続ければいい。
一度だけ、薬を抜いてみたことがある。
三ヶ月目の初め、ふと思い立って、朝の二錠を飲まずに畑へ出た。試すつもりだった。もう体は仕上がっている。ここまで来れば、薬などなくとも数日は保つのではないか。そう考えたのだ。
昼過ぎに、鍬が持てなくなった。
力が入らないのではない。持ち上げようという気が、体のどこからも湧いてこないのだ。畝の途中で手が止まり、そのまま畑の縁に座り込んだ。日が傾くまで、ガルドはそこにいた。立ち上がる意欲がまるで起きない。
それは引退してからの五年間、彼が寝床の中で数えていた日々の感触に、よく似ていた。いや、それよりも深かった。あの頃はまだ、剣を磨く気力があった。
日暮れ前、ようやくガルドは這うようにして家に戻り、銀の板から二錠を押し出した。
一刻後、彼は薪を割っていた。
その夜、ガルドは薬の残りを数えた。数えながら、指が震えているのが自分でも見えた。震えているのは薬のせいなのか、それとも別のもののせいなのか、彼は考えなかった。
三ヶ月目の半ば、ガルドは郊外の演習場跡へ行った。
その日は先客がいた。騎士団の若手が四、五人、非番を潰して型稽古をしていたのである。かつての副団長の顔を知っている者はいなかった。
騎士たちは畑帰りのような身なりの老人が剣を担いで現れたので、皆、遠巻きに眺めていた。
ガルドは、そのうちの一人に声をかけた。
「一手、願えるか」
「いや、それは……」
若い騎士は困った顔をした。
周囲の若い騎士たちも困惑した顔をしている。
「ご老体、我々は訓練をしており、その、チャンバラではないのですが」
「分かっておる。分かっているうえで、一手願いたい」
断れば老人に恥をかかせる。受ければ怪我をさせるかもしれない。彼は分別のある若者だったので後者を選び、そして手加減をすることに決めた。
「分かりました。では一本勝負で」
木剣が合わされた。
一合目、若騎士は教本通りの正しい打ち込みを老人が受けやすい速さで放った。
受けられた。
二合目、少し速くした。
受けられた。
それだけでなく、受けた瞬間に剣の腹を滑らされ体が半歩泳いだ。
三合目で、若騎士は手加減をやめた。
やめざるを得なかった。三合目の打ち込みは、正面から叩き落とされたのである。手が痺れた。目の前の老人はまだ一歩も動いていない。足の位置が最初から一寸も変わっていなかった。
四合目、若騎士は踏み込んだ。渾身の面である。
老人の体がようやく動いた。半身になって剣をやり過ごし、若騎士の伸びきった腕の内側へ入る。若騎士は自分がどこへ行ってしまったのか、一瞬わからなかった。
五合目は、なかった。
気づいたとき、木剣の切っ先が、自分の喉元で止まっていた。
演習場が静かになった。
「……失礼ですが」
若騎士は、乾いた口で言った。
「お名前を、うかがっても」
ガルドは剣を下ろし少し考えてから答えた。
「畑をやっている」
そう言って、彼は外套を拾い、丘を下りていった。
若騎士たちが後になって詰所で古参に話し、その古参が顔色を変えるのは、また別の日のことである。
その夜ガルドは剣を磨いた。
いつもより、ずっと長い時間をかけた。
指先の震えのせいで、砥石の上を刃が滑る。何度もやり直した。やり直しながらガルドは腹を立てなかった。時間ならある。今夜は眠らないのだから。
刃はやがて灯りを吸って青く光った。
彼はそれを鞘に納め、膝の上に置いて壁にもたれた。
胸の上の重さはその夜も来ていた。
11.
出発の数日前にガルドは黄昏薬局を再訪した。
薬が尽きかけていた。
ガラス戸を押すと、あの日と同じ明るさが老人を迎えた。棚の並びは変わっていない。カウンターの奥に女がいた。
「ようこそ黄昏薬局へ、お客さま」
セックは顔を上げ、そして一目見て言った。
「心臓の状態は」
挨拶も、体調をうかがう言葉もなかった。
ガルドは苦笑した。
「お前の言ったとおりだ。だが、まだ持つだろう」
「……そうですね」
女は琥珀の目を細めた。
視線が、老人の顔から首筋、胸、そして指先へと降りていく。手が震えていることも、瞼の下が腫れていることも、首の血管が拍動に合わせて動いていることも、彼女はひと目で見て取ったようだった。
「夜、横になれますか」
「座って寝ている」
「では、そういうことでございましょう」
セックはそれ以上、何も診なかった。
彼女は薬を出す前に珍しいことをした。カウンターの脇にあった椅子を引き、ガルドに勧めたのである。
「おかけください」
「立っている方が楽なんだ」
「存じております。それでも、少しだけ」
ガルドは腰を下ろした。
女も、カウンターの内側の椅子に座った。二人はしばらく向かい合っていた。
外の裏通りでは、いつも通りの夜が始まっている。酔漢の声。犬。悲鳴。この店の中だけが、水の底のように静かだった。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
セックが言った。
「業務ではありません。ただの興味です」
「言ってみろ」
「騎士として死ぬことと、騎士として生きることは、あなたの中でどう違いますか」
ガルドはすぐには答えなかった。
膝の上で組んだ手を見ていた。血管の浮いた、赤黒い六十三歳の手だった。
「……生きることは続けることだ」
やがて彼は言った。
「強くあり続けること。守り続けること。今日も明日も来年も、同じ場所に立っていること。それが騎士として生きるということだ。俺はそれを五十年近く続けた」
「はい」
「だが、もうできん。この体では続けられん。続けられないものを続けようとする老人ほど、見苦しいものはない。俺はそれを何人も見てきた」
老人は顔を上げた。
「だから、せめて死に様だけは選びたかった」
セックは、頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
止めもせず、褒めもせず、憐れみもしなかった。ただ、注文を受けた者が注文を確かめたときの声で彼女はそう言った。
ガルドには、その「分かりました」がこの世で一番欲しかった言葉に聞こえた。
大通りの三軒の薬師は彼を気遣った。ロウェンは彼を止めようとした。誰もが正しく、誰もが優しかった。しかし、誰も彼の言うことをそのまま受け取らなかった。
「――薬を」
ガルドは言った。
「はい。ただいま」
セックは立ち上がり棚の奥から新しい紙箱を取り出した。
前と同じ形の箱である。ただ、刷られた文字がわずかに違うことに、ガルドは気づかなかった。異国の文字はどれも同じに見える。
老人は革袋から金貨を五枚、カウンターに並べた。
セックはそれを一枚ずつ確かめ、それから小首をかしげた。
「少し足りませんね」
「……はて」
ガルドは眉を寄せた。
「前と同じだけ出したはずだが」
「ええ。ですが今回は少しばかり処方が違っておりまして。前のままではもうあなたの体は動きませんから」
女はこともなげに言った。
「その分、お高くなっております」
ガルドは革袋の口を開け、中を覗いた。銅貨が数枚、底で鳴っただけだった。慰労金の蓄えはこれで尽きたことになる。
「生憎、手持ちがない」
「では」
セックは箱をカウンターの上に滑らせた。
「次にお越しになったとき、足りない分をお支払いくださいませ」
ガルドは、笑った。
久しぶりに、腹の底から可笑しかった。
「……あい分かった」
彼は箱を懐にしまい、立ち上がった。
「借りは返す。騎士だからな」
「お待ちしております」
扉が閉まった。
セックはしばらく扉を見ていた。それからカウンターに戻り、帳面を開いて、羽根ペンで一行、書きつけた。
売掛。金貨一枚。
彼女は帳面を閉じ、水晶球に指を添えた。
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