第3章 老騎士(aged knight)その6
12.
夜明け前、ガルドは装備を整えた。
鎧は古い。十年以上前の型で、留め具の意匠はとうに廃れている。だが保守は欠かしたことはなく、革帯も張り替えてあった。籠手をはめ、胸当ての紐を締める。指が震えて、紐の端を三度取り落とした。
四度目で締まった。
剣を腰から吊るし、外套を羽織る。土間に立って、ガルドは家の中を振り返った。
机の上に遺言状がある。畑の南には豆の枯れ蔓が残っている。壁には亡妻が編んだ古い敷物が掛かっている。
見納めのつもりはなかった。ただ、部屋の中が妙にはっきりと見えた。
彼は戸を閉め、鍵をかけなかった。
門のところに、ロウェンが立っていた。
鎧を着ていた。中隊長の紋が入った、現役の鎧である。馬を二頭引いていた。
「……俺も行きます」
ガルドは足を止めた。
「来るな」
「行きます」
ロウェンは、老人の顔をまっすぐに見た。
「副団長の背中を守るのが、自分の仕事です」
冬の風が二人の間を通り抜けた。
ガルドはその顔をしばらく見ていた。止めることはできないと悟った。二十年前も、この男はこうだった。放り投げても、殴っても、次の朝には持ち場に戻っていた。
自分がそう育てた。
「……足を引っ張るな」
「引っ張りません」
「隊への話は」
「カルデン卿には話を通しました。正規の編入ではありません。“義勇の従士”という扱いです。卿はかなり渋られましたが」
「が」
「三十年前、卿は師匠の防衛線の後方部隊におられたそうです」
ガルドは何も言わず馬に手をかけた。
膝が上がらなかった。
一度目、鐙に足がかからなかった。二度目でかかり、そこから体を引き上げるのに、腕の力を使い切った。鞍の上で息を整えるガルドを、ロウェンは見ていた。何も言わなかった。言えば、この人は引き返させると知っていたからだ。
二人は北へ向かった。
道中、ガルドはよく水を飲んだ。飲んでも飲んでも喉が渇いた。冬の街道だというのに、外套を脱いで馬に括りつけていた。夜営の火の前でも、彼だけが火から離れて座っていた。
三日目の夜、ロウェンは師の寝顔を見た。
見て、すぐに目を逸らした。
寝ていなかったからだ。ガルドは毛布にくるまって座り、壁のように背を立てたまま、目を開けて夜を見ていた。
13.
国境の森での戦闘は、大きな戦ではなかった。
魔族の小部隊、三十名ほど。鎮圧部隊は百二十。数の上では話にならない。問題は森が深いことと、逃がせば村にまた被害が出ることだった。
カルデン卿は堅実な男らしく、包囲を組んだ。三方から押し、一方だけを開けておく。開けた先には別動隊が待つ。逃げ道があると信じさせて、そこへ追い込む。二十年前に、ガルドがロウィンに教えた形と似ていた。
ガルドとロウェンは、包囲の左翼の一翼を担った。
夜明けとともに、鬨の声が上がった。
森の中で、鉄と鉄が触れ合う音が始まる。悲鳴。折れる枝。獣とも人ともつかぬ咆哮。ガルドは下生えを踏みしめ、前へ出た。
そして、剣を抜いた。
右手が、剣の重さを正確に感じた。
それは三十年前、一番脂が乗っていたときに感じていた、あの重さだった。柄の革の一目一目が掌に食い込み、刃の側へ傾こうとする重心が手首に伝わる。その重心を、手首ではなく肘で支え、肘ではなく肩で受け、肩ではなく背中で押さえ込む。背中は腰に繋がり、腰は膝に、膝は足の裏に繋がっていた。
足の裏から地面が返ってくる。
一本の幹のように、力が通っていた。
’’これだ’’
ガルドはそう思った。
言葉で思ったのではない。体で思った。十年間、いや、二十年近く失われていたものが、今この瞬間掌の中に戻っていた。
最初の一体が下生えを跳ねて出てきた。
ガルドは半歩だけ動いた。
魔族の腕が空を切り、その脇腹に、老人の剣が横から入った。骨と骨の間を抜けて反対側へ届く。魔族は自分が斬られたことに気づく前に膝を折った。
ガルドは剣を抜き、次へ向かった。
二体目は正面から来た。ガルドは受けなかった。受ければ肘が保たないことを、体が知っていた。半身で流し返す刃で首の付け根を断つ。
三体目は逃げようとした背中を追った。
四体目と五体目は同時だった。ガルドは背後の木の幹まで下がり、二体が回り込む線を潰した。狭い場所へ誘い込めば、二体は一体ずつしか来られない。三十年前、新兵に何度も怒鳴って教えた形だった。
六体目の一撃を、初めて正面から受け止めた。
重い一撃だった。
刃が噛み合った瞬間、右の肘の内側で、何かが小さく鳴った。
紙を裂くような、ごく短い音だった。痛みはなかった。むしろ腕は熱く、力に満ちていた。ガルドは押し返し、相手の体勢が崩れたところへ踏み込んで剣を叩きつけた。
七体目は、剣を落として下がった。
ガルドはそれを追わなかった。剣先を突きつけ、後ろから来た若い騎士に引き渡した。八体目、もう一体、腕を折られてうずくまっていた個体も同じようにした。
やがて、森が静かになった。
森の静けさは、戦いの終わりをどんな伝令よりも早く伝える。
「終わりました!」
どこかで、そう叫ぶ声がした。
ガルドは剣を下ろした。
周囲の騎士たちが老人を見ていた。誰も声を出さなかった。義勇の従士という扱いの畑仕事の老人が単独で七体を相手取り、五体を屠り、二体を無力化した。それを彼らは目の前で見ていた。
ロウェンだけが泣きそうな顔で立っていた。
その顔は、勝利した男の顔ではなかった。
ガルドは近くの木の幹まで歩き、背中を預けて座り込んだ。
鎧の内側が、湯を浴びたように濡れていた。冬の朝である。他の騎士たちは吐く息が白い。ガルドの体からは湯気が立っていた。
喉が渇いた。水袋に手を伸ばそうとして、右腕が上がらないことに気づいた。
肘から先が、他人のもののように垂れていた。
痛みはまだ来ていなかった。
視界の縁が、少し暗い。
そして。
心臓が、おかしな打ち方をしている。
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