第3章 老騎士(aged knight)その7
14.
ロウェンが駆け寄ってきた。
「師匠!!」
鎧の音を鳴らして膝をつき老人の肩に手をかけようとする。
ガルドは左手を上げて、それを制した。
「騒ぐな」
その声は思いのほかしっかりしていた。
ロウェンは手を止め師の顔を見た。深刻な顔をしていない。苦しんでもいない。むしろ、穏やかだった。ただその頬は赤黒く、額から顎へ絶え間なく汗が伝い、鎧の隙間から白い湯気が立ち上っていた。
「水を」
「はい」
水袋の口を当ててやると、ガルドは半分ほどを一息に飲み、残りを頭からかぶった。それでも足りないという顔をした。
右腕は動かなかった。
肘から先が、鎧の中でだらりと垂れている。ロウェンが籠手を外すと、肘の内側が拳ほどに腫れ、紫色に変わっていた。
「……これは」
「切れたんだろう」
ガルドは他人事のように言った。
「六体目のときに、音がした。痛くはない」
「痛くない?」
「痛くない」
ロウェンはその言葉に背筋を冷やした。
この腫れ方で痛みがないはずがなかった。
騎士たちが担架を持ってきた。ガルドは移動を拒まなかったが、天幕までの短い距離で、二度、意識が薄くなった。運ばれながら、彼は「大丈夫だ」と繰り返した。二度目のとき、その声はもう自分の口から出ているという実感を伴っていないようだった。
天幕に着いたのは、日が高くなってからだった。
従軍の医師が来た。
四十がらみの疲れた顔の男である。彼はガルドの鎧を脱がせ、脈を取りそこで手を止めた。
もう一度取り直した。
「……これは」
医師は老人の胸に耳を当てた。しばらくそうしていた。それから体を起こした。
医師の顔から、表情が抜けていた。
「先生」
ロウェンが言った。
「どうなのです」
医師は天幕の外へロウェンを促した。二人は少し離れた場所で向かい合った。
「心の臓が、大きくなりすぎている」
医師は静かに言った。
「胸に耳を当てただけでわかる。打つ音が異常だ。それに、脈が一定ではなかった。速く打っていたかと思うと、一拍抜ける。抜けたあとで、また速くなる」
「それは、今日の戦のせいですか」
「いいや」
医師は首を振った。
「今日の戦で、こうなったのではない。無理をしたか心の臓が、今日、限界に来た」
ロウェンは黙っていた。
「率直に申し上げる」
医師は言った。
「あの方は今回の戦いがなくとも、遠からずこうなっていた。一年、いや、それより短かったかもしれない。……中隊長殿。あの方は何をしておられたのか」
ロウェンは答えられなかった。
答えは知っていた。ずっと知っていた。二ヶ月前、畑の畝の前で問い質し、答えを拒まれ、それきりにした。あのとき自分が何を選んだのかを、彼は今、はっきりと理解した。
「……止められる、権利がなかったのです」
ロウェンはそう言った。
医師は何も聞き返さなかった。この種の答えを聞くのは、初めてではなかったのかもしれない。
日が傾いた。
冬の日は短い。天幕の布が橙に染まり、やがて紫が混じり始めた頃、ガルドが目を開けた。
「ロウェン」
「はい」
ロウェンは膝をついた。
「剣は」
「ここに」
「握らせろ」
ロウェンは剣を鞘ごと取り、師の左手に添えた。老人の指が柄を包んだ。皮の厚い、節くれだった、血管の浮いた手だった。震えていた。
「……納めていなかったな」
ガルドが言った。
血を拭って鞘には収めてあったが、彼の中ではまだ抜き身のままだったらしい。老人は左手だけで鞘を持ち直し、鍔の位置を確かめ指で柄頭の埃を払った。
その動作が、驚くほど丁寧だった。
「ロウェン」
「はい」
「俺が生きていた中で、一番いい仕事をしたのはいつか、わかるか」
ロウェンは、少し考えた。
「……三十年前の、防衛戦ですか」
「違う」
ガルドは天幕の隙間を見ていた。橙と紫が混ざり合った空が、細く覗いている。
「今日だ」
ロウェンは、何も言えなかった。
その仕事のために師が支払ったものを、彼はさっき医師から聞いたばかりだった。言うべきことは山ほどあった。三ヶ月前に言うべきだったことも含めて、山ほどあった。
だが今、この人に向かってそれを言うのは、この人の最後の仕事を取り上げることだった。
「……はい」
ロウェンは、そう答えた。
「はい。今日でした」
ガルドは、満足したようだった。
しばらく、二人とも黙っていた。天幕の外では、兵たちが焚き火を起こしている。魔族の遺骸を焼く煙が、風に流れていく。ごく普通の、戦のあとの夕方だった。
「……借りがある」
ふいに、ガルドが言った。
「借り、ですか」
「裏通りの、薬局だ。金貨一枚、足りていない」
老人は、少し笑った。
「戦の褒賞で払うつもりだった。騎士が借りを残すのは、みっともない」
「……自分が払います」
「そうか」
それきりだった。
ガルドの目が、少しずつ遠くなっていった。
痛みはなかった。苦しみもなかった。ただ、光が変わっていくように、静かに。天幕の隙間の橙が薄れ、紫が濃くなり、やがてその区別がつかなくなった。
最後にガルドが見ていたのは、夕暮れの空だった。
橙と紫が混ざり合う、この世界の黄昏の色だった。
それは、あの裏通りの店の窓から見えた空に、よく似ていた。
15.
黄昏薬局のカウンターの奥で、セックは水晶球を覗いていた。
球の中には、天幕の中の光景が小さく映っている。
剣を抱いたまま動かなくなった老人。その傍らで、頭を垂れたまま動かない騎士。橙と紫の光が、二人の上を静かに移ろっていく。
セックは、しばらくそれを眺めていた。
「こちらでも、死に場所をお求めになる方がおられるのですね」
誰に向けるでもなく、彼女は呟いた。
「わたくしの知る海の男たちも、そうでした。死んだあと神の元へ導かれるのだと信じておりましてね。いつか来る最後の戦に備えるのだと」
女は頬杖をついた。
「……こちらの世では、人が死んだあと、どこへ行かれるのかはわたくしにはわかりかねますけれど」
球の中の光が、ゆっくりと薄れていく。
「あの方は、ご自分で選んだ」
16.
ロウェンが黄昏薬局を訪ねてきたのは、それから十日後の黄昏時だった。
扉が開くと同時に、大男が狭い店内で身の置き所に困ったような顔をして立っていた。裏通りに一軒だけ光っているこの店を見つけるのに、彼は三日かかっていた。
「ようこそ黄昏薬局へ、お客さま」
「……客ではない」
ロウェンは懐から布包みを取り出し、カウンターに置いた。
「ガルド・ヴェインの、薬代の残りだ。金貨一枚と聞いている。あの人は、道中で笑いながら言っていた。戦の褒賞で払わねば、騎士が借りを残すのはみっともない、と」
彼は包みを開いた。金貨が一枚、灯りを受けて鈍く光った。
「あの人の慰労金から出した。受け取ってくれ」
セックは、金貨を見た。
そして、押し返した。
「もう、必要ありません」
「……なぜだ」
「あの方から支払っていただくことに意義があったのです」
彼はその意味を何となく理解した。理解するとなおさら聞きたくなった。
「……あんたが、あの人に薬を売ったのか」
「はい」
女はあっさりと認めた。
「効き目も、副作用も、余命についても、すべてご説明いたしました。その上で、あの方がお選びになりました」
「止めなかったのか」
「あなたは、止められましたか」
ロウェンの喉が、鳴った。
反論は何ひとつ出てこなかった。この女に言うべきことは、そのまま自分に返ってくる言葉だった。
彼は金貨を包み直し懐にしまった。
扉に手をかけて、そこで一度振り返った。
「ひとつだけ、聞かせてくれ」
「はい」
「師匠の選択は正しかったのだろうか」
セックは、少し考えた。
考えるふりではなかった。琥珀の目が、一瞬だけ水晶球の方へ動いた。
「それは騎士であるあなたが一番知っていることではありませんか」
ロウェンは、目を閉じた。
長い息を吐いた。
「そうだな」
その一言にこの一週間彼が飲み込んできたものが全部入っていた。医師の言葉も二ヶ月前の畑の畝も、止められなかった自分も。
「自分も…そうしたかもしれん」
そして、ロウェンは頭を下げた。
深く、長く下げた。それが誰に向けたものなのか、彼自身にもよくわからなかった。
そして店を出ていった。
扉が閉まる。
セックは、その背中を水晶球で追わなかった。
代わりに彼女は帳面を開き、羽根ペンを取った。
売掛、金貨一枚。未回収
第三話 老騎士 ー了ー
黄昏薬局レポート
今回セックがガルドに処方した薬剤は、タンパク同化ステロイド(テストステロン様作用の薬剤)とクレンブテロールを合わせたものという設定です。いわゆる「筋肉増強剤」ですね。物語の都合で一つの錠剤にまとめていますが、この二つを併用するのは現実のドーピングでも実際に行われている組み合わせです。
テストステロン様作用の薬剤は、治療の範囲を超えた量を使うと筋肉量と筋力が増えます。ただし代償として、心筋が異常に厚くなる(心肥大)、赤血球が増えすぎて血が濃くなる(多血症)、血圧が上がる、肝臓を傷める、といったことが起こります。攻撃性や苛立ちが強くなるのも報告されている作用で、作中でガルドが井戸端の子供を怒鳴りつけた場面はこれによるものです。
クレンブテロールは気管支拡張薬でぜん息の処方薬です。代謝を高めて脂肪を減らし、筋肉の分解を防ぎます。副作用として、交感神経を刺激するため、手指の震え、動悸、発汗、不眠、が起こります。第三章でガルドが剣を磨けなくなった細かい震えは、この作用です。
作中で特に書きたかったのは、筋肉だけが薬で急に強くなり、腱や関節がついてこないという点です。筋肉は数ヶ月で作り替えられますが、腱や靱帯のコラーゲン組織は年単位の時間がかかります。ましてガルドは六十三歳です。四十代の出力を出す筋肉と、六十三歳の腱。この不一致が腱断裂を招きます。実際、ステロイド使用者の腱断裂は珍しくない事故だそうです。ガルドの肘が「音を立てて切れたのに痛みがなかった」のは、戦闘中のアドレナリンによる鎮痛作用です。
そして心臓です。厚く大きくなった心筋は、力が強いのではなく、むしろ不整脈を起こしやすい脆い臓器になります。そこへ戦闘の負荷と大量のアドレナリンが加われば、致死性の不整脈から心停止に至ります。従軍医師が「戦がなくとも遠からずこうなっていた」と言ったのは、そういう意味です。
もう一点、やめられないという問題があります。外から男性ホルモンを入れ続けると、体は自分でホルモンを作るのをやめます。若い人なら数ヶ月で戻ることが多いのですが、高齢だと回復しないことがあり、その場合は薬をやめた瞬間に、飲み始める前より深刻な脱力と抑うつに落ち込みます。第四章でガルドが一日だけ薬を抜き、畑から立ち上がれなくなった場面はこれです。ガルドは三ヶ月目の時点で、すでに「選ぶ」ことができなくなっていました。死に様を選んだつもりで、実際には選択肢を先に失っていた。
今回の話で書きたかったのはそこです。
ご来店(ご一読)いただきありがとうございます。
もし当薬局のカルテに興味をお持ちいただけましたら、ページ下部の星マークより評価をお願いいたします。
皆様の評価やブックマークが、次の薬の調合する原動力となります。




