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第3章 老騎士(aged knight)その2

3.

その週、ガルドは薬師の所を三軒回った。


一軒目は表通りの老舗である。白髪の薬師は膝と肩を丁寧に診て、脈を取り、それから穏やかに言った。


「よくここまで持たせておいでです。あとは、お年を考えて安静になさることですな」


二軒目は評判の若い薬師だった。関節痛によく効くという煎じ薬を三包渡された。実際、それを飲んだ夜は膝が楽になった。楽になった膝で素振りをして、三十三回目で肩が上がらなくなった。


三軒目の薬師は、ガルドの経歴を聞くと目を輝かせ、それから同情の色を浮かべた。


「騎士様の慰労金がおありでしたら、東の温泉療養地はいかがです。あちらは古傷によく効くと評判で、ご老体の湯治客も多く……」


ガルドは礼を言って店を出た。


三人とも、間違ったことは何ひとつ言っていない。三人とも、目の前の老人の体のことを正確に見て、正確な助言をした。


ただ、誰ひとりとして、この老人が本当に求めているものを聞こうとはしなかった。


彼らにとってガルドは「衰えた老人」であり、衰えは治すものではなく、なだめて付き合っていくものだった。それは正しい。おそらく、この上なく正しい。


正しさは、ガルドの役には立たなかった。


家に帰る道すがら、彼はふと、いつだったか詰所で聞いた騎士たちの与太話を思い出した。


’’裏通りに、妙な薬局があるらしい’’


’’裏通り? あんな所に薬屋なんぞ立ちゆかんだろう’’


’’いや、それがやけに立派な店構えで、壁一面がガラス、中は真昼みたいに明るくて、棚には見たこともない異国の薬が並んでる。表じゃ手に入らんものが手に入るとらしい’’


’’その店は日頃見当たらないが、黄昏時に裏通りを歩くと見つかることがあるそうだ’’


’’胡散臭い’’


’’胡散臭いですとも’’


あのとき、ガルドも一緒になって笑った。


その晩、彼は笑わなかった。


翌日の黄昏時にガルドは裏通りへ向かっていた。


大通りを外れると、石畳はすぐに途切れた。泥と、小便の匂い。軒先のランタンは今にも消え入りそうで、その頼りない光の下に、痩せた男や、派手に胸元を開いた女が屯している。


一度、影が二つ、後ろからついてきた。


外套の下は年寄りだ。荷は軽そうだが、身なりは悪くない。おおかたそんな値踏みだったのだろう。


ガルドは足を止めず、振り返りもしなかった。ただ、歩幅と背筋と、腰の位置をわずかに変えただけだった。三十年前に染みついた歩き方である。それだけで足音は離れやがて消えた。


裏の住人も割に合わないことは避けるのだ。


角をひとつ曲がったところで、ガルドは足を止めた。


濁った闇の中に、そこだけ切り抜いたように明るい壁があった。


一階の壁の全面が、大きな一枚のガラスになっている。ガラス越しに見える店内は、真昼のように明るく、清潔で、棚には異国の文字が書かれた小箱と小瓶が整然と並んでいた。


軒先の看板の文字も、読めなかった。


ガルドは、鎧を着ていない自分の胸元に、無意識に手を当てた。それから、扉を押した。


「ようこそ黄昏薬局へ、お客さま」


カウンターの奥から、涼やかな声がした。


女がいた。


女の年のころは二十代半ば、黒髪は夜の水のように重く艶やかで、瞳は琥珀を溶かしたような色をしている。胸元の開いた濃色のドレスを着こなしている。


「わたしはここの店主のセック」


ガルドは店内を見回した。異国の薬。明るすぎる灯り。裏通りにあるべきでない清潔さ。しかし、胡散臭い。胡散臭いことこの上ない。


それでもガルドは口を開いた。


「……膝と、肩を診てもらいたい。歳のせいだと言われるのは承知の上で――」


「お客さま」


セックが、静かに遮った。


彼女は微笑んでいた。しかしその琥珀の目は、老人の顔ではなく、もっと奥の何かを覗き込んでいるようだった。


「何を失いましたか」


ガルドは、息を呑んだ。

4.

「何を失いましたか」


ガルドは、息を呑んだ。


薬師に、そんな問い方をされたことはなかった。三軒回った薬師は、みな「どこが痛みますか」と聞いた。それは当然の問いだ。痛むところを聞かねば、薬は出せない。


だがこの女は、痛みを聞かなかった。


「……ひざだ」


ガルドは、それでも症状の話を始めた。


「十五年ほど前に痛めた。冬になると腫れる。それと右の肩だ。素振りが三十回もできん。握力も落ちた。剣の柄を握っていると、指の外側から力が抜けていく。目も遠くなった。夜は――」


「お客さま」


セックが、静かに遮った。


「それは現象です」


老人の口が止まった。


「膝が痛むのも、腕が上がらぬのも、それはあなたの体に起きている出来事にすぎません。私がうかがっているのは、そのことではないのです」


彼女はカウンターの上で、細い指を組んだ。


「あなたが取り戻したいのは、何ですか」


店の中が、静かになった。


外は裏通りである。酔漢の怒鳴り声も、遠くの犬の吠える声も、確かに聞こえてくる。それなのにこの店の中だけは、音が一枚布を隔てたように遠かった。


ガルドは黙っていた。


長い沈黙だった。老人は自分の右手を見下ろしていた。皮の厚い、節くれだった、染みの浮いた手だ。三十年前、この手は魔族の顎を砕いた。今は鍬を落とす。


やがて、ガルドは言った。


「……剣が、振れるようになりたい」


声は低く、掠れていた。


「一度でいい。本気で振れれば、それでいい」


セックは初めて、老人を正面から見た。


そこにあるのは怒りではなかった。悲しみでもなかった。強いて言えば、飲み下し損ねたものが喉の奥に引っかかったまま、時間だけ経ってしまった人間の顔だった。


それを何と呼ぶか、セックは考えなかった。彼女が確かめたのは、ただひとつ。


この男が、嘘をついていないこと。


ここへ来る客の大半は自分に嘘をつく。民を救いたいと言った男も、家族のためだと言った男も、口を開いた瞬間から嘘をついていた。嘘をつく者は扱いやすい。嘘はそれ自体が処方の手がかりになる。


この老人は嘘をついていなかった。


「目的は何ですか」


セックは続けた。


「剣が振れるようになって、あなたは何をなさいますか」


ガルドは、北の国境の話をした。


魔族が動いていること。帝国軍の斥候が戻らないこと。村が避難を強いられていること。騎士団が鎮圧部隊を編成しているらしいこと。


「言っておくが」


老人は先回りするように言った。


「俺が行かねば国境が破られる、などという話ではない。今の騎士団は、俺がいた頃よりよほど整っている。残党の三十や五十、俺がいてもいなくても片づく」


「では、なぜ」


「……死ぬときに、剣を握っていたい」


ガルドは顔を上げた。


「弱い老人として死ぬのではなく、騎士として死にたい。それだけだ」


セックは、しばらく何も言わなかった。


やがて彼女は、ゆっくりと頷いた。


「わかりました」

5.

セックはカウンターを離れ、背後の棚に向かった。


彼女が手を伸ばしたのは、目につく場所ではなかった。棚の三段目、箱と箱の隙間の、さらに奥。そこから小さな紙箱をひとつ、引き出してくる。


箱には、やはり読めない異国の文字が刷られていた。


「こちらになります」


セックは箱の蓋を開け、中身を取り出してカウンターに置いた。


ガルドは思わず身を乗り出した。


銀色の、薄い板だった。板には小さな窪みが等間隔に並び、その窪みのひとつひとつに、白い錠剤が一粒ずつ封じ込められている。錠剤の上には透明な膜が張られていて、指で押すと膜が破れて中身が出る仕組みらしい。


こんな包み方は見たことがなかった。錠剤ひとつのために、これほど精緻な細工をする意味がわからない。金属細工を生業とする者が見れば、もっと驚いたかもしれない。


「これは……何だ」


「薬です。筋肉を無理やり回復させるものです」


ガルドの眉が動いた。


「無理やり回復させる?」


「ええ。どのような猛者も年齢とともに筋肉は衰えます、それを無理やり往年のころに戻すのです」


セックは板の縁を指でなぞった。


「一日に二錠。三月お飲みになれば、筋力は二割から三割戻ります。六十代の殿方であれば、四十代の後半の体に近づく。膝と肩の痛みも和らぎます。あなたが求めておられるのは、それでよろしいですか」


ガルドは箱を見つめた。


「……信じがたい話だ」


「信じなくてけっこうです。効きますので」


無理やり、ということは反動が起きるはずだ。


「無理やり、ということは良くない事もあるのか」


セックは、間を置かなかった。


「まず、手が震えます。剣の柄を握るとき、細かな手入れをするとき、指先が小刻みに揺れる。次に汗が止まらなくなり、冬でも体が熱を持つ。夜の眠りは極端に浅くなり、二刻と続けて眠れなくなります。夜半や鍛錬の最中に、足がひどく攣るようにもなるでしょう」


「その程度なら」


「まだ途中です」


女の声は、変わらず穏やかだった。


「肉は薬で急に育ちます。ですが、腱と関節はそうはまいりません。あれは成長するともう作り替えられぬものです。四十代の力を出す筋肉と、六十三歳の腱。この二つが同じ体の中で綱引きを始めます。肘と膝に、軋むような痛みが出ます。やがてその痛みは、消えなくなります」


「切れる、ということか」


「はい。無理をなされば、断ちます」


セックは板をカウンターの上に置き直した。


「そして、心の臓です」


ガルドは動かなかった。


「血が濃くなり、脈が速くなり、心の臓は常に全力で働き続けることになります。休むことを許されぬまま、厚く、大きくなっていく。あなたの年齢とこれからなさる事を考慮に入れると、三月の服用で心の臓は目に見えて肥ります。そのまま飲み続ければ――」


「続ければ」


「心の臓が暴れ出し、停止する確率が高くなります」


ガルドは、しばらく黙っていた。


「この薬を飲み続けるなら、それらの症状がわしの身体に起きる、というのだな」


「高い確率でそうなります」


セックは目を逸らさなかった。


「それと、もうひとつ。これは副作用とは少し違うのですが、申し上げておかねばなりません」


「なんだ」


「一度お飲みになれば、後戻りはできません」


女は板の窪みのひとつを、指の腹で軽く押さえた。


「人の身体には、その身体を作るための仕組みがございます。それを薬で無理やり変えさせると、その身体の仕組みが停止します。若い方なら、薬をやめれば数月で仕組みが再開します。ですがあなたのお年では、その仕組みはもう二度と戻らなくなります」


「……つまり」


「途中でおやめになれば、今のあなたよりずっと弱くなります。剣どころか、鍬も持てぬかもしれません。気力も萎えます。何をする気も起きぬまま、寝床の中で日を数えることになるでしょう」


セックは微笑んだ。


「そういうお薬です」


ガルドは、ゆっくりと息を吐いた。


「あんたは、ずいぶん正直に喋るんだな」


「薬局ですので」


女はこともなげに言った。


ガルドは、この胡散臭い店に入ってから初めて、女の顔をまともに見た。


化粧の下、唇の端から端へ、細い縫合の跡が走っているのが見えた。


「値段は」


老人はそう言った。


考えるとも、断るとも言わなかった。


ご来店(ご一読)いただきありがとうございます。

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