第3章 老騎士(aged knight)その1
0.
黄昏時、映画を誇る帝都の大通りから外れた裏通り。
そこは出所の怪しい商品をこっそり売る店、胸元を開け派手な衣装で流し目を送る女、訳ありの人たちが住んでいる。
その一角に、大きなガラス窓のある石造りの店があった。窓から見える店内は妙に明るくて、棚には見たこともない異国の文字で書かれた箱や小瓶がきれいに並んでいる。
ここの店主のセックは二十代半ば。黒髪は夜の水のように重く艷やかで、瞳は琥珀を溶かしたような色をしている。胸元の開いた紺色のドレスを着こなしている。顔立ちは身を見張るほど整っており、絶世の美女といって差し支えはない。
店主はこちらに気づくと水晶球から視線を外し、こちらを向いてにこやかな顔となる。
「あら、こんにちは。いえ、もうこんばんはかしら。黄昏薬局へようこそ。私はここの店主のセック。ここに訪れるお客様は、みんな悩みを抱えた方ばかり。私はその方に合った薬の処方をしております。
さて、今回のお客様は、若い時分に活躍した方、しかし老いてしまい今は帝都の外れでくすぶっておられる。さて、そのようなお客さまにはどのような処方がよろしいかしら」
セックは再び水晶球を覗き込んだ。
球の中には、夜明け前の薄闇の中で、ひとり剣を振る老人の姿が映っている。
女はその姿に目を細め笑みを浮かべていた。
1.
夜明け前、ガルド・ヴェインは目を覚ました。
膝の痛みでではない。夢を見たのだ。
三十七年前の夢だった。初めて魔族の剣を受け止めた瞬間の。刃が交差したとき、腕を駆け上がった震え。そしてその震えを、内側から押さえ込んだ筋肉の確かさ。刃越しに見えた赤い目。喉が焼けるほどの熱と、それでも折れなかった膝。
目が覚めると、右腕は寝床の上にただ横たわっているだけだった。
ガルドは天井を見上げたまま、右手を握り込んだ。指の関節が乾いた音を立てる。握った拳の中に力はある。ただし、それは三十七年前に自分が持っていたものとは、まるで別のものだった。
老人はゆっくりと身を起こし、寝床を出た。
土間で顔を洗い、外套を羽織り庭へ出る。帝都の外れの畑と雑木林しかない場所である。夜明け前の空気は冷たく鼻の奥が痛んだ。
剣を抜いた。
素振り。一、二、三――
三十回近くで、右の肩が悲鳴を上げた。
ガルドは剣先を下ろし荒い息を吐いた。白い息が薄闇に散っていく。
以前は三百回振っても疲れなかった。三百回振ってから、部下の訓練を見てそれから鎧を着て一日中立っていられた。
今は三十回だ。
彼は縁側に腰を下ろし膝の上に剣を置いた。刃には一点の錆もない。柄の革は擦り切れてはいるが、丁寧に巻き直してある。毎晩磨いているのだから当然だった。
剣は磨いてある。錆びたのは自分だけだ。
ガルド・ヴェイン、六十三歳。
かつては「鉄壁のガルド」と呼ばれた、帝国騎士団の元副団長まで勤めた猛者だった。三十年前の魔族との大戦では、部下百二十名を率いて防衛線を死守した。あの防衛線が三日保ったから、後続の本隊が間に合った。歴史書にはそう書かれているらしい。ガルド自身はその本を読んだことがない。
五十を過ぎたあたりから膝の古傷が悪化し、五年前に引退した。妻は八年前に病で亡くなり、子はない。今は帝都の外れで、慰労金と畑仕事で生きている。
身長は現役の頃より三センチ縮んだ。右手の握力は往時の半分以下になった。
死ぬことは、怖くなかった。
棺に入れてもらう剣はもう決めてある。墓地の区画も買ってある。世話になった者たちへの分配を書いた遺言状は、寝室の櫃の底に封をして納めてある。あとは順番が来るのを待つだけだ。それが、戦場で五十年近く生きた男の、当たり前の身仕舞いというものだった。
怖いのは、死ぬことではない。
その日の朝、井戸で釣瓶を引き上げようとして、ガルドは二度手を滑らせた。
三度目でようやく桶が縁に乗ったとき、通りかかった近所の子供が駆け寄ってきて当たり前のように取っ手をつかんだ。
「爺さん、無理すんなよ」
悪気などまったくない声だった。むしろ善意しかなかった。
ガルドは礼を言い、水を運んでもらい、家に入り扉を閉めた。
それから長いこと、暗い土間に立っていた。
’’弱いまま死ぬのは、嫌だ’’
その一点だけが、どうしても飲み下せなかった。
2.
ロウェンが訪ねてきたのは、それから四日後のことだった。
月に一度の訪問である。三十八歳。ガルドの元部下で、今は現役の騎士団中隊長を務めている。無骨で不器用な男だが、ガルドへの敬愛は本物だった。二十年前の防衛線で、十八の少年兵だったこの男の襟首を掴んで後ろへ放り投げたのは、ほかならぬガルドである。
「師匠。酒と塩漬け肉を持ってきました」
「毎度すまんな。上がれ」
ロウェンは上がるより先に、勝手に裏へ回って薪を割り始めた。ガルドが斧を取ろうとすると、決まって「自分がやります」と言う。この五年一度の例外もなかった。
ガルドは縁側から、その背中を眺めていた。
薪が割れる音は、規則正しく無駄がない。二十年前に自分が教えた通りの体の使い方だった。教えた通りに、この男は今も動いている。
悪い気分ではなかった。
同時に、ひどく居心地の悪い気分でもあった。
薪を割り終えたロウェンは、汗を拭いながら縁側に腰を下ろした。二人で酒を分けた。話題はいつも通り、団の若手が使えないだの、上官が事務仕事ばかり増やすだの、他愛のないものだった。
その流れの中でロウェンが口を滑らせた。
「ああ、そういえば北の国境がきな臭くて。魔族の残党が動いているようです。小規模ですが、先月の斥候が三名……」
そこで、言葉が途切れた。
ガルドの目が変わったからだ。
濁っていたものが澄んだのではない。この五年間ずっと閉じていた扉が、音もなく細く開いた。ロウェンにはそう見えた。
「……いや、大した話ではありません。それより師匠、畑の南側、あれは何を植えたんです」
「豆だ」
「豆ですか」
「豆だ」
ロウェンは笑い、ガルドも笑った。話題はそのまま豆に移り日暮れまで続いた。
帰り際、門のところでロウェンは一度振り返った。何か言いかけて、やめた。
やめてしまってから、やめるべきではなかったと思った。しかし、では何と言えばよかったのか、この不器用な男にはわからなかった。
その夜ガルドは机に向かった。
北方の砦にいる元部下に宛てて、手紙を書き始めた。
「久しく音信を絶っておったが」
そこまで書いて、筆が止まった。
その次に何を書くつもりだったのか、自分でわかっていたからだ。国境の状況を知りたい。誰が出るのか知りたい。もし人手が足りぬのなら――
ガルドは筆を置いた。
自分に何ができる。素振りは三十回で肩が上がらなくなる。鎧を着れば膝が保たない。今の体で剣を振ったところで、かつての部下たちの足を引っ張るだけだ。老兵が戦場に立つ話を、彼は現役時代にいくつも見てきた。どれも見ていられない終わり方をした。
わかっている。よくわかっている。
わかっているのに、何もしないでいることもできなかった。
書きかけの手紙は、燃やさなかった。かといって出しもしなかった。
翌朝、ガルドはそれを机の引き出しにしまい、外套を着て家を出た。
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