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第2章 強欲(Greed)その3

5.


六週間後のある夜、ダントンは金属を打ちながら、ふと自分の手を見た。


手が、震えていた。


金槌を持っているのに、指先が微かに震えている。これは以前にはなかった。疲労ではない。何か別の震えだ。


「……気のせいだ」


ダントンは首を振り、金槌を振り上げた。


翌朝、目を覚ますと枕が血で汚れていた。


鼻血だった。眠っている間に出たらしく気づかなかった。ダントンは濡れた布で拭い、気にしないことにした。


しかし、その日の昼過ぎにもう一度鼻血が出た。


今度は量が多かった。


「くそ、乾燥しているせいだ」


ダントンは鼻を押さえながら、片手で金槌を動かし続けた。


その夜遅く、顆粒を飲もうと小瓶を手に取ったとき、中身がかなり減っていることに気づいた。毎日少しずつ量を増やしてきた結果、当初の想定より消費が速かった。このまま続けると、近いうちに補充が必要になる。


「黄昏薬局に行かなければ」


ダントンはそう思ったが、足が向かなかった。


あの店に行けば、また女店主に会う。あの目で見られる。何か言われる気がした。量を増やしていることを見透かされる気がした。


「行かなくていい。まだ残っている」


理由をつけて、ダントンは今日も工房に籠もった。


二ヶ月過ぎた頃。


ダントンの工房の取引先の者たちが奇妙な噂を立て始めた。


「あの工房、一日中動いているらしい」


「いや、それだけじゃない。あの工房に入ると妙に暑いんだ、真冬なのに」


「そりゃ、工房には炉があるからな」


「そうじゃない。何というか、工房主工房からなんだ。工房主は顔が真っ赤で、目が座っていた。まるで高熱が出た病人みたいだった」


「声も最近変だったぞ。話しかけたら、呂律が回っていなかった」


しかしダントンはそういった噂を知らなかった。工房から出ることが、めっきり減っていたから。


出る必要がなかった。食料は溜め込んでいる。材料は一度に大量に仕入れてある。取引先は工房まで金を受け取りに来る。


ダントンの世界は、工房と金庫室と、あの黄色い粉だけになっていた。



6.


八週間が過ぎた頃の夜明け前、ダントンは異変を感じた。


皮膚が、痛い。


焼けるように痛い。いや、焼けているのかもしれない。腕の皮膚に触れると、指先で感じ取れるほどの熱を帯びていた。顔も、首も、胸も、全身が赤熱しているような感覚。


水桶に手を突っ込んだ。


ジュッという音がした気がした。気のせいかもしれないが、手を入れた瞬間に水が温かくなったのは確かだ。


「また飲めば治る」


ダントンは顆粒に手を伸ばした。


もはや量を気にしていなかった。耳かき一杯どころか、小さなスプーン一杯分を口に流し込んだ。


最初の数分、感覚が戻った。体が軽くなり、思考がクリアになった。金槌を手に取り、作業を再開した。


しかし今度は、十分も経たないうちに別の症状が出始めた。


頭の中が白くなった。


視界が歪み、工房の壁が波打って見えた。金属の棚が、溶けて流れているように見えた。「これは幻覚だ」と分かっていても、体が止まらない。金槌を振り続けながら、意味不明なことを呟き始めた。


「もっと速く。もっと速く。時間が足りない。一日が短すぎる。なぜ太陽は同じ速さで動く。俺に合わせろ」


声が工房の壁に反響した。



その日の朝、仕入れ業者が材料を届けにきた。


「ダントンさーん、注文されていた材料を持って来ましたよ」


業者の男は扉を叩いた。


しかし、返事がない。再度扉を叩いた。


「ダントンさーん!、注文された材料持って、来ましたよぉ〜っ!!」


それでも反応がない。


不審に思って扉を開ける。


「ダントンさーん…って熱い!?、何だこの熱気は」


中は異常な熱気に包まれていた。冬の朝とは思えない、工房全体を包む熱。そして奥を見ると、赤く上気した顔でひたすら金槌を振るっている男の姿があった。


その姿は悪鬼のようだった。


「ひっ!!」


業者は小さい悲鳴をあげて、材料を置いて逃げ帰った。


ダントンは気づかなかった。


そしてその夜、とうとう来た。


作業の途中で、急に膝から力が抜けた。


体が前に倒れ、金槌が床に落ちた。しかしダントンは立ち上がれなかった。四つんばいになったまま、床に手をついて荒い息をついた。


「熱い」


声が掠れていた。


「熱い。体が……燃えるようだ」


体温が、限界を超えていた。


身体の内側で、代謝が制御不能の段階に達していた。身体の力を生成する源が、異常な速度でエネルギーを燃焼し、その熱が体内に蓄積されていた。汗腺はとうの昔に機能の限界に達し、体温を下げる機能が働かなくなっていた。


ダントンはふらつく足で立ち上がり、金庫室に向かった。


金属の扉を開けると、腰の高さまで積み上がった金貨の山が現れた。蠟燭の光を受けて輝く、黄金の山。


「俺の……俺の宝だ」


ダントンは金貨の山に向かって倒れ込んだ。


冷たかった。金貨の冷たさが、燃えるような肌に心地よかった。ダントンは金貨の上に倒れたまま、金貨を両腕でかき抱いた。


「冷たい……ああ、冷たい……」


しかし金貨の冷たさは、あっという間に失われた。


彼の体温が、金貨を温めてしまったから。


「熱い! 助けてくれ!」


ダントンは叫んだ。


誰もいない工房に、声が響いた。


全ての職人を解雇してしまったから、誰もいない。取引先も、業者も、誰も来ない。隣人もダントンに辟易して引っ越してしまった。


ダントンは金貨の山の上で、一人でもがいた。


体の内側で、何かが燃えていた。


身体が燃えていた。臓器が燃えていた。血管の中を、沸騰した血液が流れていた。


「熱い……熱い……俺は……」


言葉が、途切れた。


手が金貨を握ったまま動かなくなった。


目が見開いたまま、金貨の輝きを見上げていた。


金庫室の扉が開いたまま、しばらく沈黙が続いた。


外では冬の夜風が路地を吹き抜けていた。


工房の窓から、湯気のような白いものが細く立ち上っていた。



7.


黄昏薬局の店内。


カウンターの奥に、女がいた。


彼女はカウンターに置かれた水晶球を静かに覗き込んでいた。


球の内側に映像が浮かんでいた。


薄暗い金庫室。黄金の山。その上に倒れ、金貨を抱いたまま動かない男の姿。皮膚は赤黒く変色し、わずかに蒸気を上げていた。目は見開いたまま金貨を見上げていた。



女は水晶球から目を離し、ゆっくりと立ち上がった。


カウンターの奥の棚に向かって歩き、一段目の棚の端から少し奥に置いてあった小瓶を手に取った。「時の顆粒」の補充用の在庫だ。


ダントンは補充を取りに来なかった。


来る前に終わってしまった。


女は小瓶を棚に戻した。


そしてカウンターに戻り、椅子に腰を下ろして水晶球に手を添えた。球の内側の映像が、ゆっくりと消えていく。


口元の縫合痕が緩やかに歪んだ。


「あれほど摂取する量を守るようにお伝えしたというのに」


女は呟いた。


店内の光が外に漏れ、外の様子が見える。



8.


翌朝、ダントンの工房に業者がまた訪れた。


「ダントンさん、今日の納品に来ましたよ。ダントンさーん」


そういって扉を叩くが、前日と同じく返事がない。


業者はまたか、と扉を開けたが、工房の内部は昨夜と違っていた。異常な熱気は消えていた。代わりに冷え切った空気が立ちこめていた。


「お邪魔します、ダントンさーんいますかぁ」


業者が床を見ると、昨日置いていった納品物がそのままになっていた。おかしい、ダントンは怒りっぽい性格だが、整理整頓はきっちりしており、どれだけ忙しくても品物をそのまま置いていることは無かった。


業者は嫌な予感がしながら工房の奥まで進み、金庫室の扉が開いているのを見つけた。


「まさ、金庫の中にいるのか」


業者は金庫の中を覗く


「ひっ、ダントンが死んでいる!!」



業者の視線上には、金貨の山の上に倒れ、両腕で金貨を抱きしめたまま、人間がひとり死んでいた。顔は見開いた目で天井を向き、皮膚は赤黒く焼け焦げたような変色を見せていた。


業者は金貨の山よりもその異常な死に方に仰天して、その場から脱兎のごとく逃げ出した。


すぐさま工房は官憲によって封鎖された。そしてダントンの異常な死は世間から注目されたが「高体温による多臓器不全」による死亡という以上のことは不明のまま、そのうち世間から忘れ去られていった。


工房にあった金貨は解雇された職人たちの多くが「不当解雇」で訴えていたため、金貨の山は帝都の民事裁判所によって差し押さえられた。


ダントンが生涯をかけて積み上げた黄金は、最終的にかつて彼が使い捨てた職人たちの手に渡った。



黄昏薬局レポート:


今回セックがダントンに処方した薬剤は、ジニトロフェノールです。現在は染料、殺虫剤、木材保存剤などの工業原料として使用される化学物質ですが、1930年代にダイエット目的で使用された時期がありました。しかし、その極めて高い毒性と致死性から、医薬品としての使用は世界中で禁止されています。この科学物質が恐ろしいのは解毒方法がないことです。ゆえに致死性が高く、一命を取り留めても臓器に深刻な後遺症が残ります。


調べてて気になったのは、近年にドイツで通販の痩身サプリに含まれていた事例があり、まったく一般に出回っていないわけでもない、ということです。海外通販でダイエットサプリを買う人は十分気をつけてください。


ジニトロフェノールは、代謝率を劇的に跳ね上げさせます。これにより、ダントンは眠気を感じず、身体の限界を無視して強制的に動き続けることができたわけです。


このジニトロフェノールが身体の新陳代謝を異常活性化させたからといって、痩身効果はあっても、疲れ知らずとか睡眠を必要としないとか、ましてるろうに剣心の志々雄みたいに最後高温で自ら焼け死ぬとかは私の創作です。


しかし、異常な代謝率を起こすのは本当で、身体の組織を急激に消費し始め、制御不可能な熱として放出されます。この高熱によって体内のタンパク質が変性し、細胞や臓器が文字通り内側から煮えるような状態となり、多臓器不全を引き起こします。


ダントンの体温が異常になり、急激に痩せ衰え、最後は皮膚が赤黒く、焼け焦げたように死んだのは上記の理由によります。


ご来店(ご一読)いただきありがとうございます。

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