第四章 英雄たちの末路 その41
3
翌朝。
ダルクは、いつも通り夜明け前に起き、生地をこね、かまどでパンを焼き店頭に並べた。
これが最後のひと仕事になるかもしれないと思いながら。
一通りの作業を終えるともう昼近くだった。
ダルクは意を決して、ヨハンに声を掛けた。
「……オヤジさん。少し、話があります」
ヨハンは、仕込みの手を止めなかった。
そして、背を向けたまま、ぽつりと言った。
「記憶が戻ったか」
ダルクは息を呑んだ。
「……なぜ、分かったんですか」
ヨハンはようやく手を止め振り返った。
その顔はいつもの仏頂面だったが、目だけはどこか寂しそうだった。
「そりゃ、お前。朝から仕事に身が入ってねえ」
「……」
「そんなもん、生地のこね方ですぐ分かる。今朝のお前のパンは丁寧だが心ここにあらず、だ。浮ついた気持ちで仕事してんなら、怒鳴ってやろうかと思ったが」
ヨハンはふっと息を吐いた。
「お前の顔を見たら、そうじゃねえって分かった。ちょっとやひょっとのことで落ち込まないお前が落ち込んでいる。もうそれだけで、何かでかいことがあったんだろって分かる。そして、昼まで様子を見てりゃ、想像もつくさ」
ダルクは、言葉を失った。
’’ この人は ’’
出所も知れぬ自分を三年間、そばで見続けてきたこの男は。
人の心の機微を、誰よりもよく見ていた。
それこそ得体の知れぬ若者を拾って、住み込みで働かせてしまうくらいに。
「……はい。記憶が戻りました」
ダルクは、正直に答えた。
「で、自分が何者であるかも、思い出したんだな」
「……はい」
ヨハンは、それ以上「お前は誰なのか」とは聞かなかった。
ただ、静かにこう問うた。
「で、どうするんだ」
「……お暇をいただいて、帝都に行こうと思います」
ダルクは頭を下げた。
「そこに、昔の知り合いがいます。その人たちに会ってから、今後のことを考えようかと」
「そうか」
ヨハンは、あっさりと頷いた。
「なら、そうしろ」
「……え」
ダルクは、顔を上げた。
「いいんですか。僕が抜けても」
「ばか言え」
ヨハンは鼻を鳴らした。
「お前が来る前は、俺と女房のふたりで切り盛りしてきたんだぞ。お前ひとりいなくなったくらいで潰れる店じゃねえよ」
そう言ってヨハンは少しだけ、寂しそうな顔をした。
「それにな、弟子ってのはいつか巣立っていくもんだ」
「……オヤジさん。それじゃあ僕は…」
「何言っていやがる。まだ一人前とは認めてねえ、」
ヨハンは、ぴしゃりと、遮った。
「だが、いつまでも居心地のいいとこに居続けるってのは修業じゃねえんだ」
ダルクの目尻にじわりと涙が滲んだ。
三年間。
この店で、自分はまっとうに生きることを学んだ。
名も、過去もない空っぽの自分に。
ヨハンとカトリナは、名を与え、仕事を与え、居場所を与え、そして今、巣立ちまで与えようとしている。
「……っ」
ダルクはこみ上げるものを堪えきれなかった。
「なんだ。男が泣いていいのは、ガキが生まれた時と女房に先立たれた時だけだ」
ヨハンは、ぶっきらぼうにそう言った。
ダルクは、慌てて服の袖で涙を拭った。
「……オヤジ。明日、ぼくはここを発ちます」
「ああ。分かった」
ヨハンは頷いた。
そして、ダルクの肩をぽんと叩いた。
その手は硬く、温かく、ごつごつとしていた。
「向こうでもがんばれ。もしダメだったら」
ヨハンは、少しだけ笑った。
「いつ戻ってきてかまわねえ。お前の部屋は空けて待っててやる」
黄昏薬局にご来店いただきありがとうございます。
もし当薬局のカルテに興味をお持ちいただけましたら、
ページ下部の星マークより評価をお願いいたします。
皆様の評価やブックマークが、次の薬の調合する原動力となります




