第四章 英雄たちの末路 その38『居場所』
1
ジョンが店に来て、二度目の夏が来た。
その頃には、ジョンはもう一人前のパン職人になっていた。
生地の仕込みはほとんどジョンに任されるようになった。窯の火加減も覚え、客あしらいも板についた。ヨハンの拳は、すっかり落ちなくなり代わりに「まあ、悪くねえ」という、不器用な褒め言葉が、たまに飛んでくるようになった。
「ジョン表の客を頼む。おれは奥で仕込みをしてくる」
「はい!!」
ジョンが店番をすると店先は少し賑やかになった。
「あら、今日もジョンさんがいるのね」
「ジョンの兄ちゃん、いつものをふたつ」
「坊や、おまけしてくれよ」
ジョンは客一人ひとりの顔と好みを覚えていた。
腰を悪くした婆さんには柔らかいパンを。育ち盛りの子だくさんの母親には、こっそり形の崩れた売り物にならないパンをひとつ多く籠に入れる。日銭暮らしの職人には買いやすいよう小さく焼いたものを取り置いておく。
それは計算ではなかった。
ただ彼は人が喜ぶ顔を見るのが好きだったのだ。
「あんた、商売うまいねえ」
ある日、客が引けた後カトリナが感心したように言った。
「うちの常連はみんなあんた目当てに来るようになっちまった。ヨハンの仏頂面よりあんたの笑顔の方がよっぽど売り上げに貢献してるよ」
「そ、そんな」
「褒めてるんだよ。ほら、これあんたの分」
カトリナは焼きたての菓子パンをジョンに放った。ねじり型の生地にシロップ漬けをした果物を入れた、店で一番手間のかかるパンだった。
「え、いいんですか。これ高いのに」
「いいんだよ。たまには。あんた痩せの大食いなんだからしっかりお食べ」
ジョンは菓子パンを両手で大事に受け取った。
その甘い香りを嗅いだ瞬間、脳裏にのどかな風景と教会が思い浮かぶ。
(……なんだか懐かしいな)
誰かにこうして食べ物を分けてもらった記憶がある気がする「ほら、お食べ」と
けれどその顔はぼんやりとしていて誰なのか思い出せない。
「……どうしたジョン。食べないのかい」
「あ、いえ。いただきます」
ジョンは菓子パンをひと口かじった。
甘くてほんのり温かく、そして少ししょっぱい味がした。
2
カトリナは口は悪いが面倒見のいい女だった。
ジョンの擦り切れた野良着を見かねていつの間にか新しい仕事着を縫ってくれていた。
「いつまでもボロを着てるんじゃないよ。うちは客商売だ、お客の前くらいちゃんとしたものを着な」
そう言いながら寸法はぴったりだった。いつの間に測ったのかジョンには分からなかった。
ジョンが熱を出して寝込んだ時には夜通し看病してくれた。
「ばかだね。冬場の窯の前で汗かいて、そのまま夜風に当たるからだよ」
文句を言いながら起き上がれないジョンに飯を持って来て、汗まで拭いてくれた。
ジョンには家族の記憶がない。
母の顔も父の顔も霧の向こうなのか、それとも向こうにもいないのか分からない。
けれどカトリナのこのぶっきらぼうな優しさはたぶん母というものに近いのだろう。そう、ジョンは思った。
そしてヨハンは口を開けば叱責ばかりの頑固親父。けれどその不器用さの奥に熱いものがあることをジョンは知っていた。
ある雨の夜のこと。
仕込みを終えた後ヨハンが珍しく安酒の瓶を二つ持ってジョンの部屋に上がってきた。
「飲むか」
「え、いいんですか」
「たまには、な」
二人は小さな窓辺でちびちびと酒を舐めた。
雨音が屋根を叩いていた。
「……ジョン。お前、記憶は戻りそうか」
ヨハンが、ぽつりと聞いた。
「……いえ。まだ何も」
「そうか」
ヨハンは酒をひと口含んだ。
「……気にすんな。思い出せねえ時は、何しても思い出せねえ。無理に掘り起こして、穴からおかしなものが出てくる事もある」
「……はい」
「俺はな、ジョン」
ヨハンは窓の外の雨に濡れる街を見た。
「お前が誰だろうと、どうでもいいんだ。お貴族様だろうがお尋ね者だろうが知ったこっちゃねえ。今ここでパンを焼くお前が気に入っている。それで十分だろ」
ジョンは酒の杯を握りしめた。
「……オヤジさん」
「なんだ、辛気くせえ顔して」
「……ありがとう…ございます」
「礼を言われるようなことは、してねえよ」
ヨハンはぶっきらぼうにそう言って酒をあおった。
その横顔をジョンは忘れることはないだろう。
たとえいつか記憶が戻ってこの街を出て行くことがあったとしても。
この人たちのことだけは忘れたくないと。
3
その年の秋街では収穫祭があった。
街の広場にやぐらが組まれ屋台が並び楽師が笛を吹く。一年で一番街が賑わう日である。
ヨハンの店も祭り向けの特別なパンを焼いて屋台を出した。
「ジョン、祭りのパンってのはな、見た目が華やかじゃなきゃ売れねえんだ。職人の腕の見せどころだぞ」
ジョンはいつもの素朴なパンに思い切ってシロップ漬けした果実や木の実をふんだんに編み込んでみた。蜂蜜を塗って艶を出したパンも出した。
中身だけではなく形状も星の形や花の形に成形してみた。
それがけっこう売れた。
「これ可愛い」
「うちの子にひとつちょうだいな」
「今年の祭りの屋台はヨハンの店が一番人気だね」
屋台の周囲は人だかりになった。ジョンはてきぱきとパンを売り客の笑顔を浴びた。
夕暮れ。
パンがすっかりはけたのち。
ジョンは屋台の片隅でひと息ついていた。
人々が広場の楽師が奏でる歌を聴きに集まっている。子供がはしゃぎ、老人が笑い、若い男女が頬を染めて見つめ合っている。
その光景をジョンはぼんやりと眺めていた。
’’ ……平和だなあ ’’
ふと、そう思った。
なぜ「平和」という言葉がこんなにも胸に染みるのか。
ジョンには分からなかった。けれど、この誰も死なず誰も傷つかずただ笑いただ踊るこの景色を自分はずっと見たかった風景ではなかったのか。
’’ 僕はこういう景色のために何かをしていたのかもしれない ’’
自分が何者だったのかはまだ分からない。
けれど、もし過去の自分に聞けるものなら聞いてみたかった。
’’ ねえ。君が見たかったものはこういう景色じゃなかったのかい? ’’
その問いに答える声はない。
ただ、祭りの灯りがジョンの頬を温かく照らしていた。
「ジョン!!こんなとこにいたのかい」
カトリナがジョンを見つけて手招きした。その隣には酒で顔を赤くしたヨハンもいる。
「ほら、あんたも踊りに行きな!!」
「後は俺たちでやっておく、ほら行ってこい」
ヨハンがジョンの腕をぐいと引いた。
ジョンは笑いながら人々の輪の中へ混ざりに行った。
慣れない踊りに足がもつれて転びそうになる。それを見知らぬ街の人々が笑いながら支えてくれる。
笛の音。手拍子。笑い声。
その輪の中でジョンは心の底から笑った。
名も過去もない。
けれど、ここに確かに自分の居場所があった。
それは、勇者ダルクが手に入れられなかったものだった。
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