第四章 英雄たちの末路 その37
3
春が来た。
ジョンの初めての春である。
雪が解け街道に旅人が戻り市場が賑わい始めるとパン屋はさらに忙しくなる。ジョンはすっかり店の戦力になっていた。
ある朝のこと。
「ジョン、ちょいと表に出て看板の取り込み手伝ってくれ」
ヨハンに呼ばれて表に出たジョンは店先でひとりの老人とすれ違った。
「おや、新顔さんかい」
腰の曲がった人の好さそうな老人だった。手に空の籠を提げている。
「わしはギュンターだ。よくヨハンところの丸パンを買いに来ておる」
「あ、ジョンといいます。住み込みで働かせてもらっています。よろしくお願いします」
ジョンが頭を下げるとギュンターは目を細めた。
「ほう、丁寧な兄ちゃんだ。どれ、今日のパンは、あんたが焼いたのもあるのかい」
「は、はい。その、丸パンのいくつかは僕が作りました」
「そんなら、それをもらおうかね」
ギュンターは、ジョンの焼いた丸パンを籠に入れた。
「……あの、お口に合うか分かりませんが」
「なあに。ヨハンが雇うって決めて、そいつが焼いたパンだ。間違いなんざあるもんかい」
老人は皺だらけの顔で、にっと笑い、丸パンが入った籠を提げて去っていった。
その背中を見送りながらジョンの胸にじわりと温かいものが広がった。
”……自分の焼いたパンを、誰かが、食べてくれる”
それがこんなにも嬉しいことだとは。
魔王を倒した時の高揚とも軍を勝利に導いた時の充実とも違う。もっとささやかで、もっと、地に足の着いた温かさだった。記憶無いけど
今日「ここにいていいんだ」と思えた。
このパンを通じて、この街に確かな居場所を得つつあった。
4
その日の夜。
ジョンは物置小屋から二階の部屋に移動した、住わせてもらっているのだから、物置で構わない、と言ったら、ヨハンに「おれが構うんだよ!!」と言われて了承した。
ジョンは自室の窓から春の星空を眺めていた。
あれから記憶は戻らない。たまに、閃光と激突する音。誰かの笑い声。焚き火を囲む三つの影、一瞬頭に浮かぶが、じきに霧の向こうに消えてしまう。
その後、説明のつかない寂しさだけが残る。
’’……僕には、大切な人たちがいたのかもしれない’’
そんな気がする。
’’その人たちは、今どうしているのだろう。自分が消えて悲しんでいるだろうか。それとも”
考えても答えは出ない。
ジョンは頭を振って窓を閉めた。
’’ 過去は、過去だ ’’
今の自分にはヨハンがいて、カトリナがいて、ギュンターのような客がいて、パンの香りに囲まれて。
それで十分だった。
それ以上を望むのは贅沢というものだ。
(……明日も、いいパンを焼こう)
ジョンは、ベッドに身をゆだねた。
明日も夜明け前に起きて生地を捏ねる。窯に火を入れる。パンを焼く。客が来る。笑顔がこぼれる。
その繰り返しの中に、ジョンはささやかな、けれど確かな幸せを感じていた。
5
帝都の裏通り、黄昏薬局。
水晶球の中に田舎街のパン屋の灯りの消えた窓が映っている。
セックは、の窓を頬杖をついて眺めていた。
「……健やかに、お過ごしのご様子」
その声にはいつもの嘲りも悪戯っぽさもなかった。
ただ静かに、何かを見届けるような響きだけがあった。
「剣を捨て、名を捨て、過去を捨てて。やっと、ただの『人』になられたのですね」
セックは、ぽつりと続けた。
「あの方がずっと欲しかったものはこれだったのかもしれませんねえ。英雄の座でも、皇女の隣でもなく。故郷の神父のように、誰かのためにパンを焼く、ただそれだけ」
水晶球の窓は暗い。
ジョンはもう眠っているのだろう。
「ふふ。ですが、お客さま」
セックの口元がふといつもの形に戻った。
三日月の笑み。
「人は英雄さまをそっとしておかないものなのですよ」
水晶球に布が掛けられた。
「もうしばらくは、その夢をご覧なさいな」
ランタンの灯りが、揺れる。
田舎街の、平和な夜は、更けていく。
その夜が、いつまでも続くわけではないことを──知っているのは、遥か東の裏通りで微笑む、女、ただ一人であった。
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