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第四章 英雄たちの末路 その36『パンを焼く日々』

1


仕事は翌朝まだ夜も明けきらぬうちから始まった。


「起きろ、ジョン。パン屋が朝起きで鶏に負けてんじゃねえ!!」


階下からのヨハンの怒鳴り声に叩き起こされ、ジョンは寝ぼけ眼で一階の作業場へ降りた。


そこにはすでに窯に火を入れ、粉の付いたエプロンを掛けて仕事に取りかかるヨハンの姿があった。


「まず生地を捏ねるところから教える、見てろ」


ヨハンは寝かせておいたパン生地を木板の上でこね始めた。


その手つきは見事だった。丸太のような腕がしなやかに動く。生地を押し、折り、返し、また押す。荒々しさとは無縁の優しく無駄ない動きだった。


「やってみろ」


「は、はい」


ジョンは見よう見まねで生地に手をつけた。


結果は惨憺たるものだった。


ジョンは生地を力任せに殴りつけたのである。


どすん、どすん、と。


「何やっとるかぁ!!」


ヨハンのゲンコツがジョンの脳天に落ちた。ごつん、といい音がした。


「いでっ!?」


「バカ野郎!! パンを叩いてどうすんだ!! パンはこねるんだ、こねる!! お前のは何だ、生地と戦争でもしてんのか!?」


戦争、という言葉にジョンの頭で一瞬なにか映像が写ったが、それはヨハンのゲンコツで吹っ飛んだ。


それが何だったのか思い出そうとする暇もなく間髪入れず次の叱責が飛ぶ。


「生地に力づくで言うこと聞かせるんじゃねえ!! 対話しろ、『もういい』って言うまで、優しく、根気よくだ。やり直し!!」


「は、はいっ!!」


ジョンは頭をさすりながら生地に向き直った。


力ではなく、対話。優しく、根気よく。


”……難しいな”


けれど、不思議と、嫌ではなかった。



2


最初のひと月は毎日が叱責の連続。


ある日は生地の寝かせが足りず、焼き上がったパンがぱさぱさになった。


「こんなパサパサのモン客に出せると思っているのか!!」


ゴンッ。


ある日は窯にくべる薪が多すぎてパンが一部焦げた。


「火が強すぎるんだよ!! 焦げたパン客に食わせるつもりかぁ!!」


ガンッ。


発酵を見誤って生地が膨らみすぎ、焼くとふっくらとせず、味も酸味があった。


「これは何だ、おれはパンを作れって言ってんだろが!?」


ゴチン。


ジョンの脳天には毎日ヨハンの拳が落ちた。


だが、不思議なことに。


ジョンはぶっ飛ばされてもめげなかった。


叱られた後は必ず「すみません、次は気をつけます」と素直に頭を下げ、そしてけろりとしていた。落ち込んで引きずるということがなかった。


その様子をカトリナは奥から呆れたように眺めていた。


「あの子……あんたに、あんだけ毎日どやされてよく逃げないね」


「ああ」


ヨハンも、腕を組んで唸った。


「妙な奴だ。叱られ慣れてるってのとも違う。怒られたことを、いちいち引きずらねえんだ。済んだことは済んだことって顔ですぐ次に向かう。」


ヨハンは、言葉を探した。


「たぶん記憶無くす前はもっと厳しい目に遭って来たんだろう」


それが何なのかヨハンには分から無いし、詮索する気もない。


ジョン自身にも分からなかった。


魔王の爪を幾度もくぐってきた男にとってパン生地の失敗など命の取られる失敗ではない。だから引きずらない、そのことをジョンは知らなかった。それにパンは懐かしい何かなのだ、記憶無いけど。



3


季節が巡った。


ジョンが店に来たのは夏の終わり。


最初の秋が過ぎ冬が来た。


冬のパン作りは過酷だった。水は氷のように冷たく、指がかじかんで生地がうまく捏ねられない。発酵も遅く、暖を取る工夫が要る。ジョンは、かじかむ指に息を吹きかけながらそれでも窯の前に立ち続けた。


「ジョン。おめえ、最近こね方がちったぁ様になってきたじゃねえか」


冬のある朝、ヨハンがぽつりと言った。


ジョンの脳天に、もう拳は落ちなくなっていた。


「……オヤジさん、ほんとですか!?」


「調子に乗るな。まだまだだ」


そう言いながらもヨハンの口元は緩んでいた。


この頃になるとジョンはヨハンの事をオヤジさんと呼称するようになった。

ヨハンもまんざらではなさそうで、カトリナはその様子を苦笑して眺めていた。



ジョンはパン職人に向いていた。


筋がいいというだけではない。あの生地と対話する根気。失敗を引きずらない胆力。早朝から夜まで立ち続ける体力。そして何より焼き上がったパンを客が喜んで買っていくその時を心の底から嬉しがる性分。


それらは全てジョンがジョンになる前から持っていたものだった。


兵を率い、民を喜ばせ、誰よりも泥臭く前線に立ち続けたあの男の資質が名も過去も失った今もこの若者の中に確かに息づいていた。


いやそれ以前に、彼はパンに思い入れがあるのだ。故郷を思い出すのだ。記憶ないけど。


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