第4章 英雄たちの末路 その34『名もなき職人』
1
「──要するに、だ。兄ちゃん」
街道沿いの飯屋の片隅。
男は若者の前に温かいスープと黒パンを置いてやりながら、額に手を当てて唸っていた。
「あんた、記憶がなくなっている。そういうこったな?」
「まあ……どうも、そうみたいです」
若者はスープと黒パンを勢いよく食らっている。数日食事もままならなかったようだ。
そう、若者は今猛烈に空腹だった。
その様子を、男は腕を組んで眺めていた。
「……よっぽど食ってなかったんだな」
食事にがっつく若者を見て男は、ふうと息を吐いた。最初に感じた不気味さはもう薄れていた。幽鬼のようだった顔に生気が戻ってきていたからだ。
若者がパンを平らげるのを待って男は改めて問うた。
「で、どうするんだ」
「……どうする、と言いますと?」
「記憶がなくなった。──そこから先の話だよ。明日からの暮らしだ」
若者は匙を持つ手を止めた。
「えっと……分かんない、です。どうすればいいんでしょうか」
「聞いているのは俺なんだが」
男は苦笑した。
「まあ、確かに。記憶なくした兄ちゃんにこれからの暮らしを聞く方がおかしいわな」
男はしばらく天井を眺めて考え込んだ。
それから、じっと若者を見つめてこう言った。
「兄ちゃん。あんたうちで働け」
若者はぱちくりと瞬きをした。
「……雇ってもらえるんですか。でも、僕はいったい何をすれば」
「うちはパン屋だ。あんたはうちで住み込みで働いてもらう」
「……いいんですか。どこの誰とも分からない僕を」
「兄ちゃんが以前何をやってたかは知らねえ」
男は、若者の身体を、上から下まで、品定めするように眺めた。
「だがな、これだけは分かる。あんた背筋がいい。そんで、腕が太え」
若者は背筋と腕がパンと何の関係があるのか、さっぱり分からなかった。
きょとんとしている若者に、男は説明を加えた。
「パン職人ってのはな、力仕事だ。身体全部を使う。姿勢の悪い奴はまず腰をやられる。だが、あんたのその背筋と手首は素人のものじゃねえ。何かしら、身体を使う仕事で鍛えられたもんだ。なら、パン捏ねも出来るって寸法よ」
それを聞いて若者はようやく合点がいった顔をした。
そして、自分の腕をしげしげと見た。たくましいが、どこか繊細さも宿った腕だった。
さらに手に剣ダコが出来ていることに気付いたら、自分は戦士だったことに気付いただろうが、記憶のない若者には出来なかった。
「……僕としてはありがたいお話です。ぜひ雇ってください」
「よし、決まりだ。だったら兄ちゃん……」
男は、そこではたと止まった。
「……そういや、あんた。名前はなんて……、それも覚えてねえのか」
若者は、申し訳なさそうに、頭を掻いた。
「……あはは。すみません、覚えてないです」
「困ったな。名無しじゃ呼びようがねえ」
男は腕を組んで唸ったが、ふとにやりとした。
「よし。だったら、あんたは今日から「ジョン」だ」
「ジョン、ですか?」
「ジョンドゥ。隣国の言葉で『名無し』って意味さ。名無しよりは、まだましだろう」
若者は微妙な顔をした。名無しという意味の名前。
だが、すぐにまあいいか、という顔になった。どのみち、自分には何の名もないのだ。借り物の名でもあるだけ、ありがたい。
「……分かりました。もう、ジョンでいいです」
「よしジョン。俺はヨハンだ」
ヨハンは丸太のような腕を、若者、ジョンに差し出した。
握手を求めているのだと、ジョンは少し遅れて気付き、慌ててその手を握り返した。
ヨハンの手は、太くそれでいて柔らかかった。長年、生地を捏ね続けた者の手だ。
その手を握り返したジョンの手は太くたくましく、そして硬かった。
二人は、街道沿いの飯屋で奇妙な縁を結んだ。
2
ヨハンの店はその宿場街の一番奥まった通りにあった。
二人は街路を並んで歩き一軒の店の前で立ち止まった。
店先に掛かった木の看板には二本のバゲットを交差させた絵が彫られている。
「ここが俺の店だ」
ヨハンは誇らしげに看板を見上げ、それから店の戸を開けてジョンに中へ入るよう促した。
戸をくぐるとふわりと、よい香りがした。
香ばしい、ふっくらとした焼きたてのパン独特の匂い。
その瞬間。
ジョンの足が止まった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
"……懐かしい香り”
霧の底にずっと漂っていたあの匂いだった。嗅いでいると、何かを想起しそうになるが、出てこない。
なぜ懐かしいのか分からないが、目の奥がじんわりとした。
「どうしたジョン。突っ立って」
「な、なんでもないです」
ジョンは慌てて袖で目元を拭った。
店内には焼き上がったばかりのパンが、所狭しと並んでいた。細長いバゲット、丸パン、ねじったような形の菓子パンらしきもの。どれも田舎街の飾り気のないパンだった。
「あんた、お帰り」
奥から女の声がした。
ヨハンのがっしりした体格とは対照的な、細身の女だった。歳の頃はヨハンと同じくらいだろうか。気の強そうな目元、優しさの滲む口元。
「店番悪かったな。カトリナ」
「何を今さら」
カトリナと呼ばれた女は、ふとヨハンの隣に立つジョンに目を留めた。
「……ところでその子は誰だい?」
ヨハンはジョンをカトリナの前に立たせた。
「こいつはジョン。今日から、住み込みで働かせる」
「は?」
カトリナの眉が、跳ね上がった。
「あんたはいつもそうだ。またひとりで勝手に決めてきて」
「まあ、そう言うなや」
カトリナは腰に手を当てて、ジョンの体格から指先までじろじろと眺める。
ジョンは品定めの視線に居心地悪そうにしていた。
「……あんたジョン、だったね」
カトリナはずばりと言った。
「言っとくけどパン屋で働くってのはキツいよ。毎日、まだ暗いうちから起きて生地を捏ねて、竈に火を入れて、日が暮れるまで立ちっぱなし。休みなんてあって無いようなもんだ。それでもやれるのかい?」
「……構いません」
ジョンは即答した。
「そういうの慣れていると思うんです。記憶ないけど」
カトリナは首を傾げた。
「記憶がない?」
ヨハンが横から事情を説明した。
「カトリナ。こいつ記憶がなくてな。往来の真ん中でトボトボとふらついてたんだ。ほっとけなくてな。こうなった」
カトリナは大きな溜め息をひとつ吐いた。
「……ったく。仕方のないだんな様だね」
その溜め息には呆れと、そして隠しきれない優しさが混じっていた。
「ジョン。明日からしっかり働きな。うちは厳しいよ」
「……はい。よろしく、お願いします!!」
ジョンは、深々と頭を下げた。
その日から、ジョンは、田舎街のパン屋「ヨハンの店」で、住み込みの職人見習いとして、暮らすことになった。
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