第4章 英雄たちの末路 その33
3
それから数日。
勇者の故郷から30kmほど離れた地方の町。
ひとりの若者が街道をとぼとぼと歩いていた。
裸足だった。死装束はいつの間にかどこかで拾ったらしい粗末な野良着に変わっている。けれど、その着方はどこかちぐはぐで髪は乱れ頬には泥がこびりついていた。
何より目が虚ろだった。
どこを見るでもなく、何を思うでもなく。ただ足が前に出るから歩いている。
道行く人々はその若者を遠巻きに見るだけだった。
「……気味が悪い」
「物乞いかい? いや、それにしちゃ」
「ああいうのは、関わらんのが一番だ」
若者は人々の囁きも聞こえぬ様子でただ歩き続ける。
腹が減っているのかも喉が渇いているのかも、自分でも分かっていない。なぜ歩いているのかも、どこへ行くのかも。
そもそも自分が誰なのかも。
頭の中は霧だった。
白く、深く、果てのない霧。その霧の向こうに、何か大切なものがあった気がするのに、手を伸ばしても指がすり抜けていく。名前も、顔も、声も、何ひとつ頭に浮かばない。
ただひとつだけ。
霧の底の方に温かい、いい匂いの記憶がぼんやりと漂っていた。
香ばしくて、ふっくらとして、嗅いでいると懐かしくなる。
それに引き寄せられる。それが何の匂いなのかも、今この若者には分からなかった。
4
その日の夕暮れ。
若者が迷い込んだのは街道筋の小さな宿場街だった。
仕事帰りの人々が行き交い、夕飯の支度の煙があちこちから立ち昇る、ありふれた田舎街。その往来のど真ん中を若者は相変わらずの幽鬼のような足取りで、ふらりふらりと歩いていた。
人々はやはり避けた。
子供が指をさし母親がその手を引いて遠ざける。荷を担いだ行商人が舌打ちして道を空ける。
そんな中。
「おい。兄ちゃん」
ひとりの男がその若者に声を掛けた。
がっしりとした体格の四十がらみの男だった。腕は丸太のように太く、前掛けには白い粉が染みついている。
男は怪訝そうに若者の顔を覗き込んだ。
「あんた大丈夫か? さっきからふらふらと」
若者は歩みを止めた。
いや、「止めた」というより「停止した」と言う方が近かった。糸の切れた人形のように、その場に立ち尽くした。
振り向きもしない。
「……おい? 聞いてんのか兄ちゃん」
男は若者の肩に手を掛けこちらを向かせた。
そしてその顔を見て、ぎょっとした。
若者の顔は表情がなく、生気もない。蝋人形のように白く目は開いているのに何も映していない。
「……兄ちゃん!? おい、しっかりしろや!!」
男は若者の両肩を揺さぶった。
「おーい!! 戻ってこい!! 兄ちゃん!!」
そこで若者の虚ろな目が光を取り戻した。
霧が晴れた。
焦点の合わなかった瞳に像が結ばれていく。若者は目の前の心配そうな、丸太のような腕の男の顔が見える。
若者はその男の顔を見た。
そして、おずおずと口を開いた。
ひさしぶりに発する声は掠れていた。
「……えっと、すみません。あなたはどなたでしょうか」
男はぽかんとした。
「誰でしょうか、って……そりゃ兄ちゃん、俺とあんたは、初めて会うんだからよ」
「……そう、ですね」
「なんで俺があんたに声を掛けたか、ってか?」
「……はい。なぜでしょうか」
男は、額に手を当てた。話がどうにも噛み合わない。
「はあ……そりゃ兄ちゃん、あんたが往来の真ん中で上の空でぼーっと突っ立ってたからだよ」
「え、僕がですか?」
「他に誰がいるよ」
若者は自分の置かれた状況を理解していない。自分が街中をふらつき人々に気味悪がられていたことにも把握していなかったらしい。
男は大きな溜め息をついた。
「……で、兄ちゃん。あんたここに何しに来たんだ」
そう問われて、若者は不思議そうに首を傾げた。
「……何が、でしょうか」
「いや、だからよ。あんたが誰で何しにこの街に来たのかって聞いてんだ」
若者は視線を右の斜め上にやった。
記憶をかき集めようとしている。
そして、やがて困った顔をしてこう答えた。
「……僕って誰でしょうか」
男は声を掛けるんじゃなかった、と後悔し始めた。
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