第4章 英雄たちの末路 その29
4
深夜の研究室。
机の上にさまざまな試薬が入った瓶のなかに、明日振る舞われる液体が入った瓶があった
ノエルは足音を消してその机に近づいた。
この瓶をどこかに破棄せねば。ここから持ち出し適当な場所に破棄すれば良い。なんならこの場で割ってもよい。明日の披露さえ潰せればそれでいい。結晶から液体を抽出するには十日以上かかることをノエルは知っている。十日あれば表の手が届く。
瓶に手を伸ばした。
「やはり貴様か」
闇の奥から声がした。
ノエルの背中が凍った。
部屋の隅の寝台から緑の薄明かりを背に痩せた影がゆらりと起き上がった。所長は今夜も研究室で眠っていたのだ。あの石を枕辺に置いて。
「視線の主は貴様だったか。……ノエル」
「……所長」
「賢者の石を盗みに来たか。いったい誰の差し金だ。ガルテン公か? 魔導士団の老害どもか? それとも……」
「違います」
ノエルは振り返った。
そして覚悟を決めた。どのみち取り繕っている状況ではない。ならば最後にひとつだけ、密偵ではなくこの研究所でこの人の学識に本気で舌を巻いた一人の研究員として。
「所長、お願いです。聞いてください」
ノエルは、机の瓶を指した。
「この水は毒です」
「……何?」
「あの石が毒なんです。所長、ご自分の身体をご覧ください。手の痣、抜ける髪、崩れる肌。全部、あの石を傍に置き始めてからだ。石に近い右半身から症状が出ている。あれは過労でも代償でも聖痕でもない石の放つ「何か」が、あなたを蝕んでいるんです!!」
「…………」
「お願いします所長。その石を手放してください。結晶を捨ててください。あなたは帝国一の頭脳だ。あの石の正体だって距離を置いて冷静になって調べれば、必ず」
「……ふ」
コーエンの肩が揺れた。
「ふふ。はは。ふははははは!!」
笑い声が、硝子瓶を震わせた。
「毒、毒ときたか!! なるほど、考えたな!! 私を偉業から遠ざける口実としては、上出来だ!! 誰の入れ知恵だ? その筋書きを書いたのは!!」
「所長、本当に 」
「黙れェッ!!」
コーエンの右手が上がった。
掌の先に見慣れた焔が灯る。
「貴様のような塵にも分かるように言ってやろう。痣も、髪も、脱皮だ!! 古い殻だ!! 私は今、人を超える途上にある!! その階の途中で、貴様ごとき間者の世迷い言に、足を止めると思うか!!」
問答は、無用だった。ノエルは身をひるがえし、机の上にあった多数の瓶をなぎ払った。
瓶たちが宙を舞った。その中にはあの液体も含まれていた。
「貴様ァァァァッ!!」
焔が放たれた。
砕けた瓶。飛び散る結晶。結晶はほかの試薬とともに床にばら蒔かれてしまった。
その全てに焔が、ばらまかれた試薬に触れた。
研究室が爆ぜた。
5
帝立錬金術研究所の火災は、夜明けまで燃えた。
本棟の西側、所長の研究室を含む区画が焼け落ち、鎮火したのは朝日が昇ってからだった。
死者は一名。若い研究員が一人焼け跡から見つかった。
所長コーエンは生きていた。
焔による誘爆の爆風に弾かれて廊下まで吹き飛ばされた偶然助かったのだ。駆けつけた研究員たちが見たのは、煤にまみれて廊下に倒れた所長が、よろよろと起き上がり消火もそっちのけで、燃え盛る研究室へ戻ろうとする姿だった。
「賢者の石が!! 中に、私の石があるんだ!! 放せ!! 放せぇぇッ!!」
三人がかりで取り押さえられながら、コーエンは絶叫し続けた。
鎮火の後もそれは続いた。コーエンは焼け跡に這いつくばり、素手で灰を掻き分け、石を探した。一日中。止める者の手に噛みつき焔を放とうとし、痴呆のように同じ言葉を繰り返しながら。
「ない……ない、ない!! どこだ!! 私の石!! 私の、賢者の石ぃぃ!!」
石は、どれだけ探しても見つからなかった。
三日後、レムナント伯爵家と魔導士団、そして皇宮の協議によりコーエンの処遇が決まった。
帝立錬金術研究所所長、魔導士団団長コーエンは「火災の衝撃による心神の喪失」につき、全ての職を解かれ、療養の名目でレムナント家の別邸に療養となった。
療養とは名ばかりの監禁である。
窓に鉄格子の嵌まった離れの一室で監禁されている。さらに魔術を封じるために魔封の腕輪が施されている。
男は毎日部屋の中で探し回っているという、賢者の石を。
6
「以上が、事の顛末でございます」
宰相の書斎でカーソンは報告を終えた。
声はいつも通り平坦だった。ただ、報告書を持つ指の関節だけが白くなっていた。
宰相は長いこと何も言わなかった。
「……ノエルの骸は」
「身元の知れぬ研究員として研究所の墓地に。後日、私の手の者で密かに移します。あれの故郷の母親の墓の隣へ」
「そうしてやれ。残された者への手当ては惜しむな」
「は」
沈黙が、落ちた。
「……あれは、私が拾い私が仕込んだ者です」
カーソンがぽつりと言った。執事が私情を口にするのはかなり珍しい。
「命に背いて動いたこと、お詫びのしようもございません。ですが結果として高位貴族の方々は、あの水を飲まずに済みました。」
「分かっている」
宰相は、短く遮った。
「ノエルを罰する者はこの世にもうおらん。罰されるべきは別にいる」
宰相は立ち上がり窓辺に立った。
「あのふたりの後を追わせてやりたかったよ」
「……なさいませんので」
「英雄、最後のひとりだ」
窓の外、北の空に研究所の焼け跡から立つ細い煙がまだ見えていた。
「勇者ダルクが死に、キョウゴクの転落、マリエルの初産での死。立て続けに英雄達が亡くなった。腹立たしいが、現在この帝国の支柱がすべていなくなるのはさすがに不味い。」
「御意」
「だがなカーソン」
宰相は、振り返らずに言った。
「これは貸しだ。あの男へのノエルの命の貸しだ。帳簿は私が預かっておく。取り立ての日は必ず来る」
カーソンは、深く頭を下げた。
「……これで部下も、いずれは報われましょう」
7
帝都の裏通り、黄昏薬局。
今もくすぶり続ける錬金術研究所の西棟の焼け跡をセックは水晶球から眺める。
「ふふっ、せっかく石を蒸留して結晶まで作れたのに、残念なことです」
「もっとも、あれの正体は若い方が気付かれた通り猛毒なんですが、人間はせっぱ詰まると全て自分の都合に合わせて解釈するのですから、業というものは恐ろしいですわ」
そう言う女の口元は三日月のように歪んでいた。
黄昏薬局ノート:
ラジウム:コーエンがセックから入手した鉱石はラジウム。緑色に光っていたのは放射性崩壊による発光現象によるものです。ラジウムは今でこそ放射線を発する猛毒と知られていますが、20世紀初頭は永遠に輝き続ける物質だと思われていました。
コーエンは常にラジウムの鉱石に触れていたため、後半は濃縮したため、右手の痣(放射線潰瘍)のみならず脱毛、やせ衰える、心身の崩壊、と典型的な放射性障害を引き起こしていました。
コーエンの行動は今の私たちには奇行のように思えますが、20世紀初頭、ラジウム水は健康飲料として販売され、これを飲み続けて内部被爆で亡くなった人がいます。
ラジウム被害を調べると企業がいかに悪どいか分かります。
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