第四章 英雄たちの末路 その25 よく効く薬
1
その冬、隣国の流行り病が帝国を襲った。
最初ははるか東方の宿屋から、次に市場から。年が明ける頃には貴族街の屋敷からも咳の音が聞こえ始めた。
高熱、悪寒、間接の軋むような節々の痛み。大半は十日で床を払うが、十人に一人は肺を侵されて帰らぬ人となった。隣国の噂の通りの病だった。
教団は祈祷を捧げ、医師たちは回復する手段はないかと奔走し、帝国では病に掛かった者を一定の期間隔離するようおふれを出したが、病の伝播は止まらなかった。社交の宴は止み、芝居小屋は閉じ、人々は香草を焚いた布で口元を覆って歩いた。
魔王を倒した帝国に今度は目に見えない敵が攻め込んでいた。
2
キョウゴク侯爵キリツグが床に就いたのは、年明けの最も寒い時期だった。
「……バカな。この俺が床に伏せるなど」
布団の上で、キリツグは熱に喘ぎながら吐き捨てた。
魔将と斬り結んだ身体である。並の病など寄せ付けぬはずだ。だが病というものは戦の猛者にさえ躊躇しなかった。咳が出始めたと思ったその日のうちに急激に熱が出て、、節々はきしみ、咳が止まらない。ついには咳に血が混ざり始めた。
医師は匙を投げ気味だった。流行り病に、特効の処方はない。水を取り、温め、祈る。それだけだという。
キリツグは屋敷の二階にある寝室の露台から見える月を眺める。
月をぼんやりとした頭で眺めていたとき、キリツグはふと思い出したことがある。
”……そうだ。あれがあるではないか”
書斎の引き出し。薄紙にひとつずつ包まれた、白い小さな薬。
’’ いま隣国で猛威を振るっている流行り病に、よく効く薬よ ’’
悪化する前に一日あたり、「ふたつ」。
” マリエル…… ”
キリツグは家令を呼び鈴で呼び寄せ、彼に書斎にある袋と水差しを持ってこさせた。
そしてキリツグは殆ど力の入らない指で薄紙を開いた。中には白い薬がふたつ。
” ……ふ。世話にならずに済むよう祈りたいなどと言ったが ”
口の端で笑い、水と共に、飲み下した。
その夜から、キリツグは毎日、欠かさず丸薬を飲んだ。
一日、ふたつ。言われた通りに。
薬は効いた。
翌日には熱が下がり始め、二日目には粥が喉を通った。医師は驚き、侍従たちは胸を撫で下ろした。十人に一人の側ではなかったのだと、屋敷中が安堵した。
「……明日には起きられそうだ」
三日目の夜、キリツグは寝台の上でそう呟いた。
熱はまだ残っていたが峠は越えた。そう誰もが思っていた。
その夜更けのことである。
3
キリツグは夜中に突如衝動に駆られた。
この衝動を何と表現して良いのか分からない。
露台から見える月を手にしたい。
キリツグは布団から飛び跳ねるように起き、全力で寝室から走り出す。
そして露台から見える月に向かって一気に飛び出したのだ。
そしてグシャりという音が屋敷で響いた。
3
キョウゴク侯爵、病による錯乱の末居館の露台より転落して死去。
報せは、その日のうちに帝都を駆けた。
人々は驚き、そして嘆くより先に震え上がった。流行り病は高熱の極みで人を錯乱させることがある。医師たちのその言葉は病そのものへの恐怖をあおった。魔王を倒した英雄すら病は錯乱させ、死に至らしめるのだ。
折しも貴族街だけで七人が同じ病に倒れている冬である。英雄の死は流行り病の犠牲者の列に静かに加えられた。みなそれで納得していた。
ただ一人を除いて。
「キョウゴク侯の件、詳細を」
「は。発病より三日目の深夜。熱は峠を越えており、回復に向かっていたと、医師は証言しております。錯乱はその夜が初めてとのこと」
宰相の書斎でカーソンは淡々と報告した。
「……回復に向かっていた男が、突然錯乱して落ちるか」
「病の錯乱として、医師は処理しております。実際、市中でも錯乱の例はありました。ただ」
「ただ?」
「キョウゴク候は病中何やら白い薬を服用していたと、家令の一人が証言。隣国由来の薬とキョウゴク侯が言っていたとのことですが、出所は不明です」
宰相は、長いこと黙っていた。
「……三年前の勇者。そして、キョウゴク侯。どちらも、医師の検分は疑わしいものは無かった」
「いかがなさいますか」
「このまま内偵を進めよ」
宰相は、窓の外の雪の帝都を見た。
4
エリング侯爵邸にその報せが届いたとき。
マリエルは、臨月近い腹を抱えて居間の長椅子にいた。
「キョウゴク侯が、昨夜お亡くなりに。病の錯乱による転落死とのことでございます」
「……そう」
声は自分でも驚くほど静かに出た。
「……お弔いの花を。エリング家の名で、一番良いものを贈って」
「かしこまりました」
侍女が下がる。
居間に一人。
マリエルは、ゆっくりと息を吐いた。
" 終わった "
賭けに勝った。
確率は低かった。あの薬は本物の特効薬で、十中八九、あの男はただ回復するだけ。しかし、まれに錯乱することがある。それがまさかああもうまく行くとは。
これで彼女を縛る鎖は外れた。
脅しの声も、執着の目も、「共犯だ」と囁く口も消えた。三年前のあの夜のことを知る者は、もうコーエンしかいない。そしてコーエンは誰にも話すことはないだろう。彼はそんな事は興味がないのだから。
首輪は外れた。
マリエルは膨らんだ腹に両手を当てた。
" ……聞こえる? もう、大丈夫よ "
腹の子が応えるように小さく蹴った。
露見の恐怖も消えた。もし腹の子が黒髪だったとしても、神殿に篭ってから出産をすれば良い。出産に立ち会う者たちにはすでに手を回している。
夫がいて、子が生まれて、教団での地位があって、過去は全部、雪の下。
" 春ごろにはこの子が生まれる "
マリエルは、温室の硝子越しの白い庭を見た。
生涯でいちばん穏やかな冬だと思った。
その夜もマリエルは、枕元の小瓶から耳かきにひと匙の白い粉を取り、水に溶いて飲んだ。
死んだ者から渡された薬、少し気味悪く思ったが、この薬はよく効くのだ。
ぐっすりと夢も見ずに眠れるのだから。
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