第四章 英雄たちの末路 その24
3
数日後、エリング侯爵邸。
「今日はどういったご用件かしら」
応接の間でマリエルは硬い声を出した。
ただでさえキリツグとの逢瀬は最新の気を使うというのに、この男は直接乗り込んでくるなど、まして今は安定期に入っていない大事な時期だ。
マリエルの腹の膨らみはまだドレスの上からは分からない。だが顔色は白く、目の下には酷い隈が浮いていた。
「ずいぶんと冷たい態度だな」
「誰のせいだと思っているのよ」
突き放す声にもキリツグは動じなかった。妊娠した女は情緒が乱れると聞く。大方それだろうと、いつものように「自分に都合よく解釈」した。
「そうカリカリするな。今日は良い物を持ってきたんだ」
「あなたから贈り物なんて珍しいわね。明日は雨でも降るのかしら」
「俺の先祖のいた国ではこういう時『明日は槍が降る』と言うらしいぞ」
「で? 何なのかしら、それ」
マリエルは、キリツグが懐から出した小瓶に目をやった。
「お前、このところろくに眠れていないそうじゃないか。アランが心配していたぞ」
「……珍しい。あなた、アランと会うことがあるの」
「俺とアランは、共に新しい侯爵を賜った身だぞ。共に、魔族から奪い返した荒れ地の経営に頭を抱えている仲だ。近頃はよく話す。
そこでアランが言っていた。マリエルが眠れず、辛そうにしている、と。夫として情けないと本気で沈んでいた」
マリエルの頬に、ふ、と血の色が差した。
あの人がそんなことを。
外でわたくしの心配を口にするほど、案じてくれて──
その上気した顔のまま、視線がキリツグに戻った途端、眉間に皺が寄った。
「……妊娠するとそうなるものだとお母様も言っていたわ。男性には分かり得ない事よ。放っておいて」
「それでだな。この小瓶の薬は寝つきを良くする薬だ」
キリツグは、小瓶を卓に置いた。砂状の白い粉。
「寝る前に耳かきにひと匙、水と共に飲め。ぐっすり眠れるそうだ」
マリエルは小瓶を見た。それから、キリツグを見た。
” 薬 ”
腹の底が冷えた。
まさか、といことはあるまい。
自分もこの男に渡す薬がある。まさかキリツグも何か良からぬ薬を持ってきたのではあるまいか。
「……あら、ありがとう。いただいておくわ」
声だけは柔らかく、マリエルは小瓶を受け取った。
”まあ、それは飲む前に調べればいいだけのこと”
教団には毒物の検分に長けた司祭が複数いる。聖魔法による検毒は帝国のどの薬師の検分よりも精度が高い。
それで毒と出ればこの男との「清算」を早めるだけ。
毒でなければ、使ってやってもいい。実際、このところろくに眠れていないのだ。夜ごと天井を見つめる時間は腹の子のためにもならない。
それから、しばらく皮肉の応酬めいた世間話が続き、やがてキリツグが腰を上げかけた頃。
「そうそう。待ちなさい」
マリエルは、思い出したように言った。
「良い薬をもらっておいて返礼もなしというのも礼を失するわ。……これをあげる」
棚を開け小さな布袋を取り出してキリツグに手渡す。
「これは?」
キリツグが袋の口を開くと、中には薄い包装紙にひとつずつ包まれた、白い小さな丸薬が入っていた。
「いま隣国で猛威を振るっている、流行り病によく効く薬よ」
マリエルは、事もなげに言った。
「じきにこの帝都でも流行るでしょうから伝手を使って先に隣国から取り寄せておいたの。教団はああいう伝手は豊富だから。……分けたげる」
「……ほう」
キリツグは、紙包みのひとつを摘まみ上げた。
「それはありがたいな。噂ではその病、十人に一人が死ぬというではないか。で、どうやって服用するんだ」
「病に掛かった時、悪化する前に丸薬を、’’ 一日ふたつ ’’」
マリエルは、微笑んだ。
「毎日欠かさず飲むと良いらしいわ」
「分かった。覚えておこう」
キリツグは布袋を懐に収め立ち上がった。
「もっとも、この丸薬の世話にならずに済むよう祈りたいものだがな」
「ええ、本当ね」
マリエルは聖女のような微笑で、言った。
「お体は、大切になさってね。キョウゴク侯」
4
馬車が、エリング邸の門を出ていく。
その窓辺で、キリツグは懐の布袋を外套の上から軽く叩いた。
” 殊勝なところもあるじゃないか ”
”返礼の品、か。あの女なりの歩み寄りかもしれん。子が生まれれば、また関係も落ち着くだろう”
同じ頃、邸の奥の私室で。
マリエルは、受け取った小瓶を眺めていた。
(検分して白なら使う。黒なら……)
数日後、教団の司祭による検分の結果は白だった。
「毒性はなしですな。これは寝つきを良くするの薬です。それも相当に上等なもの」
その夜マリエルは初めて、耳かきにひと匙の粉を水に溶いて飲んだ。
効いた。
泥のように夢も見ずに朝まで眠れた。何ヶ月ぶりかの深い、深い眠りだった。
幾日か経過してマリエルの顔から目元のクマがなくなっているを見てアランは涙ぐまんばかりに喜んだ。侍女たちも喜んだ。腹の子のためにも母体の休息こそが第一なのだと医師も太鼓判を押した。
その夜から、白い粉はマリエルの枕元に欠かせぬものになった。
毎晩耳かきにひと匙。
ぐっすりと。
それはもうぐっすりと。
5
帝都の裏通り。黄昏薬局。
カウンターの水晶球には、二つの邸が映っていた。
枕元の小瓶から粉を匙に取る、身重の女。
書斎の引き出しに白い丸薬の袋を仕舞う剣士の男。
「ふふ」
セックは頬杖をついて、二つの映像を交互に飽きもせず眺めていた。
「おふたりは実にお似合いですわ」
贈り物、というのは良いものだ。
物そのものではない。込められた心が相手に渡るのだから。
「片や、殺意を込めた心づくしの薬。片や、心づくしを込めたよく眠れる薬」
くすくすと笑いが漏れる。
「どちらもちゃあんと、お相手に届きますとも。ええ、込めた心のそのままに」
水晶球に布が掛けられた。
季節はゆっくりと秋へ向かい始めていた。
そして遥か東の国境では──検問を抜けた最初の病人が、誰にも知られぬまま、帝都への街道を歩き始めていた。
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