第四章 英雄たちの末路 その22
3
数日後の夕暮れ。
帝都には朝から霧雨が降っていた。
裏通りに、フードを被った人影がひとつ歩いていく。
女の独り歩き、それも仕立ての良い外套。本来なら、この裏通りの獣たちが放っておかない獲物である。だが、軒下の目たちは、誰ひとり動かなかった。
誰一人女を視認出来ないのだ。外套にはそういう加護が施されていた。
「ここかしら」
マリエルは、一軒の店の前で足を止めた。
古い石造りの建物なのに、薬局の大きな窓は一面ガラスで覆われており、店内の様子がよく見えている。薬局店内はやけに明るく、棚は整然と紙の小箱やガラス製の小瓶が並んでいる。
メインストリートの薬局でもこんな金のかかった店はマリエルは見たことがなかった。
それに対して看板は古びており、そこに記された文字は帝国の言語でも隣国の言語でもない。
三年前、キリツグから聞いた通りの店だった。
あの男は得意げに語ったものだ。裏通りの異国の店。読めない看板。絶世の美女の店主。そして帝国の誰も知らない、茶色い粉。
でも同じ手は使えない
それが、この数日の結論だった。
傷も毒も残さず眠るように死ぬ。あの死に方はもう一度起きてはならないのだ。英雄がもう一人同じ死に方をすれば、さすがに気付く。三年前の死と並べて考える者が出る。特に宰相のエメリヒ公爵、あの底の見えない男が動くとやっかいである。
ならば別の死を。病死か、事故死か。勇者の死とは違うありふれた死亡でなくてはならない。
マリエルは、薬局の扉を押した。
「こんにちは、いえ、こんばんはかしら。黄昏薬局へようこそお客さま」
店内には女が立っていた。
夜の水のような黒髪。琥珀を溶かした瞳。白い首筋に、濃色のドレス。立っているだけで、薄暗い店の空気が、その女を避けて流れていくようだった。
「……っ!!」
マリエルの胸の奥で灼けるものがあった。
社交界の華と謳われ、帝国一の美形を夫に持つマリエルが、生まれて初めて覚えるほどの完敗感。
だが、さらに目を凝らしてマリエルは見つけた。店主の口元、唇の端から端へ走るかすかな縫合の痕。
(……あら)
溜飲が下がった。我ながら浅ましいと思うほどすっと下がった。
「わたくしはここの店主のセックと申します。本日はどのような薬をお求めでしょう」
マリエルはフードを取らぬまま口を開いた。
「この店では、特殊な毒も取り扱っていると聞くのだけれど」
セックの口元が、やや上がった。
「お客さま。それをどこでお聞きになったのですか」
「それを言う必要はないわ。質問を質問で返すのは、礼儀を失しているわ」
「これは失礼いたしました」
セックは優雅に頭を下げた。
「ええ、当店にはそういうものも扱っております。たとえば」
琥珀の瞳がふ、と細められた。
「バレない毒薬、とか」
心臓が跳ねた。
……この女。
知っている。三年前ここで買われた毒薬が誰に使われたか。
だが買った男とわたくしの繋がりまで、まさか。
フードの下で、マリエルの目つきが鋭くなる。
セックはただ微笑んでいるだけ。読めない。何もかも見透かしているようにも、何も考えていないようにも見える、底のない微笑み。
「……違う毒薬が良いわね」
マリエルは、ようやくそれだけを言った。
「あら」
セックは、心底面白そうな顔をした。
「違うと、仰いますとどのような毒をお望みで?」
「言葉のままよ。病か、事故にしか見えない死に方をするものが欲しいの」
「なるほど、なるほど」
セックはしばし考える素振りを見せ、それから「少々お待ちくださいませ」と店の奥に消えた。
4
残されたマリエルは、店内を見渡した。
薬草のない薬局。棚を埋める、彩色も鮮やかな紙の小箱と、ガラスの小瓶。そのどれにも、見たことのない文字。教団の書庫で古今の聖典写本を閲覧してきたマリエルですら、見たことのない言語。
それに上質な紙に、貴重なガラスで出来た小瓶。一体どこから仕入れてきたのか。
考えても、答えの出るはずもなかった。
「お客さま。これなどいかがでしょう」
戻ってきたセックの手元を見て、マリエルは眉を寄せた。
それは銀色に輝く薄い板だった。板には小さな膨らみが行儀よく並び、ひとつひとつの膨らみがある。
金属のように輝く板。そんな素材は見たことがなかった。
「……これは、何かしら」
「これは、いま隣国で流行しております病に効く薬剤でございます」
「は?」
マリエルの声が、思わず間抜けな声を発した。
疑われない毒薬を所望したのに、流行り病の薬を差し出してきたのだ。マリエルはこのセックという女は頭が悪いのかと思った。
「わ、わたしは毒薬を所望したのだけれど」
「まあまあ、お客さま」
セックは、口元に指を当てた。
「隣国の流行り病は、じきにこの帝都でも猛威を振るうことになりましょう。……そう、冬になる前には」
「だから何だと言うの」
「その時にお相手に渡すのです。流行り病によく効く薬です、と」
マリエルは、黙った。
「これは正真正銘流行り病の特効薬。嘘はどこにもございません。ただ……」
セックはその銀の板を手に取る。
「この薬には、ひとつ癖がございます。多めに摂りますと、まれに意識が混濁して、何かやらかすのです」
「……やらかす?」
「ええ。何やら衝動に駆られて思わぬ行動に出る、とか」
マリエルは、少し考えた。
そして、ひとつの絵が、頭の中で組み上がった。
帝都に流行り病が襲う。哀れキョウゴク侯爵はその病に冒され、錯乱の末の不慮の死。流行り病で亡くなればそれで良し、特効薬を大目に飲んでやらかして運悪く何か起きても、マリエルに疑いの目は向かない。
「……そう。何かをやらかしたら、それは流行り病のせい」
マリエルの口元が、ゆっくりと、上がっていった。
「それを理由に、どうとでもできるわね」
「左様でございます」
向かい合う二人の女は、今よく似た角度で微笑んでいた。
マリエルは懐から皮袋を取り出しカウンターに置いた。セックが口を開くと中から黄金の輝きが覗いた。
「では、この薬をお売りいたしましょう。……ああ、そうそう」
セックは、銀の板を指先で、とん、と叩いた。
「このままではいけませんね。このような入れ物、帝都の誰も見たことがない。隣国から取り寄せたと言っても、疑われます」
そう言うと、セックは銀の板の膨らみをひとつずつ押し出すと小さな丸薬が出た。それを薄い包装紙で、ひとつずつ、丁寧に包んでいった。
「はい。これで隣国の薬種商から手に入れた薬だ言っても誰も疑いません」
紙包みの収まった小袋を、マリエルは受け取った。
「またのお越しを、お待ちしております。お客さま」
5
雨はまだ、降り続いていた。
裏通りを抜けたマリエルはメインストリートの外れに待たせていた馬車に乗り込んだ。馬車はゆっくりと貴族達が住まう場所へ向けて走り出した。
濡れたフードを下ろし、マリエルは座席の背にもたれた。
懐には、薄紙に包まれた白い丸薬。
腹の中には父親の分からぬ子。
「……ごめんなさいね」
マリエルはまだ膨らみもしない腹に、そっと手を当てた。
あなたが生まれてくる世界を、少しだけ掃除しておくわ
雨の帝都を馬車の灯りが流れていった。
’’ 黄昏薬局店内 ’’
その様子を裏通りの店の水晶球が静かに映している。
「ふふ」
セックは頬杖をついて遠ざかる馬車を眺めていた。
「お買い上げありがとうございました。さあて」
布を掛ける手をふと止めて。
「もうおひと方はいつお見えになるかしらね」
そうつぶやいた。
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