第四章 英雄たちの末路 その21 身篭もるもの
1
終戦から、三年が過ぎた。
帝都はかつての繁栄を取り戻しつつある。奪還した領土で兵の多くが開拓民となり、開墾に精を出したことで、徐々に穀物と鉱石が帝国中に流れ込み、市場は西方の品で溢れ、新興の商家が軒を連ね始めた。当初懸念していた野盗も予想以上に少ない。十年も経てば西は経済的に発展するだろう。
だが、その繁栄の隙間に、ひとつの暗い噂が東から忍び込み始めていた。
東の隣国で流行り病が出たらしい。
高熱と咳から始まり、十人に一人が肺を冒されて死ぬという。早ければ次の冬には帝都でも流行るのではないかと、利に聡い商人たちは囁き合っていた。
そんな帝都の状況で三英雄たちはどうしているのか。
まずマリエルの不貞は終わっていなかった。
あの夜の決意も、その後の幾度かの決意も、すべて「アランは知っているのか」の一言の前に潰えた。共犯。その言葉が鎖となり、マリエルは三年間繋がれ続けている。
そんな初夏のある日。
マリエルは、キョウゴク侯爵家の別邸にいた。
2
キョウゴク家別邸は帝都の貴族屋敷の中である意味目立つ。
庭には池があり、選び抜かれた石が配され、枝振りを整えた松が植わっている。屋敷は木の無垢材を多用した平屋で、壁は白い塗り壁、戸は木枠に紙を貼った仕切り戸。
東方の剣豪を祖とするヒョウエ一族、その血を引く者たちが建てる独特の屋敷である。キリツグが侯爵となって最初に建てたのが、本邸ではなくこの別邸だった。
その奥の間で。
「……不味いことになったわ」
マリエルは、前置きもなく言った。
「どうした、マリエル」
「私……妊娠したの」
仕切り戸の向こうで、庭の鹿威しが、こん、と鳴った。
キリツグの顔に、ゆっくりと広がったのは、喜色だった。
「……そうか」
「ちょっと」
「喜ばしいことではないか!!」
「あ、あなたねえ!!」
マリエルは畳を叩いて立ち上がった。
「何を聞いていたの!? めでたい話をしているんじゃないのよ!! もしこの子がアランではなく、あなたの子であった場合。生まれた子の容姿で、この関係が露見するのよ!!」
子は親の特徴を引き継ぐ。
ヒョウエの血筋には、分かりやすい特徴があった。漆黒の髪と、切れ上がった目尻。アランは栗色の髪の、垂れ目がちの優男である。生まれた子が黒髪に切れ長の目をしていたら、マリエルは終わる。
「離縁では済まないと言ったでしょう!! 不貞の子を侯爵家の嫡子と偽れば、それはウォーレン教への大逆よ!! 私は死刑、子もあなたも終わりなのよ!!」
声を荒げるマリエルの形相は、もはや聖女のそれではなかった。
キリツグが小さい頃祖父から教えてもらった女の鬼「般若」はこういうものなのだろう。
「落ち着くんだ、マリエル」
キリツグに動揺した様子はない。
「まだ俺の子と決まったわけではない。回数から考えれば、アランの子である可能性の方が高かろう」
「回数から考えれば!!」
殺してやろうかしら、と、マリエルは本気で思った。
「分かった、分かった。ではこうしよう」
キリツグは扇子を開き、軍議で作戦を語るときの顔になった。
「臨月に入ったらウォーレン教団の寺院に籠もれ。出産は俺の息の掛かった産婆で行う。生まれた子が俺の子と分かる特徴があれば、その子は死産だったことにするのだ」
「……何ですって」
「子は密かに孤児院に預けろ。そして俺が頃合いを見て、その子を養子に迎える。新興のキョウゴク家には人数が足りん、孤児院から見どころのある子を引き取った誰も疑わぬ筋書きだ。これなら子も死なずに済む。完璧だろう」
完璧、と男は言った。
マリエルは、しばらく言葉が出なかった。
「……完璧? どこが」
「どこが、とは?」
「死産を偽るのも、子を孤児院へ運ぶのも、産婆の口を塞ぐのも、十月十日、腹を抱えて怯え続けるのも──全部、私よ!! なぜ危険はすべて私持ちで、あなたは指一本汚さないのよ!!」
「侯爵たる俺が動けば目立つ」
「もういいわ」
マリエルは、吐き捨てた。
「堕ろすわ。それで全部終わり」
瞬間、キリツグの目の色が変わった。
「冗談ではない」
立ち上がったキリツグが、マリエルの両肩を掴んだ。
「俺の子かもしれんのだぞ。俺とお前の子だぞ。それを、堕ろすだと? そんなことさせるかものか」
キリツグは戦場での顔つきになった。
両肩にキリツグの指が食い込む
「痛いっ……離して!!」
「医者にも薬師にもこちらから手を回す。お前が妙な真似をすれば……。いいなマリエル、子を産むんだ、どちらの子だったとしても。それがお前のためだ」
間近に迫った男の目を、マリエルは見た。
愛と男が呼んでいるもの。その正体を、マリエルはこの時、初めてはっきりと見た気がした。
これは執着だ、所有だ。戦場で拾った戦利品を、誰にも渡さず、朽ちても手放さない。ただそれだけのもの。この男の言う「お前のため」に、お前は一度も入っていたことがない。
愛しているならば、何故わたしの婚礼の時に奪いに来なかった。それが全て証明している。
この男は日頃は威風堂々としているくせにその実、小狡い。それが戦場であの男に及びもしなかった理由であり、マリエルを娶らず、愛人扱いしている理由だ。
本当にこの身勝手な男
マリエルの心は、奇妙なほど静かに冷えていった。
(これ以上、関係を持つことなど、できない)
説得は三年無駄だった。鎖は外してくれない。
ならば、鎖を持つ手のほうをどうにかするしかない。
「……分かったわ」
マリエルは、目を伏せた。
「あなたの言う通りにする。だから離して」
「分かってくれたか!!」
キリツグの手から力が抜けた。安堵して緩んだその顔を見上げて、マリエルは完璧な微笑んだ。
それは三年前のあの夜、あの男に三人が向けた英顔だった。
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