第1章 扇動家 ( agitator) その3
5.
だが、その夜更け。
熱狂が去ったあとに訪れたものは、勝利の余韻などではなかった。
ひどい疲労だった。
全身の筋肉が空っぽになったようで、皮膚の裏に砂が詰まったように重い。喉は焼けるように乾き、目の奥がずきずき痛む。それ以上に耐えがたいのは、昼間あれほど膨らんでいた万能感が、急激にしぼんでいくことだった。
部屋の中が急に狭く思えた。沈黙が耳を圧迫する、球に自分が空っぽになった気がする。
……このままでは駄目だ。
ゴルドは震える手で瓶を取り出した。
瓶を開けようとして、はたと手が止まった。
’’これを口にするのは1日に1粒まで。’’
薬局の店主の警告が頭をよぎる。
だが、もう日は変わった。なら問題ないだろう。そう自分に言い訳し一粒を舐める。
すぐに胸の内に熱が戻る。
ああ、そうだ。これだ。これがあれば大丈夫だ。
その翌日、朝から面会が続き夕方には新しい演説依頼が入り、夜には別の有力者との食事会が決まった。ゴルドは眠る暇も惜しんで動き回った。いや、そもそも眠気が来なかった。飴を舐めている限り頭は冴え続ける。むしろ時間がもったいないとすら思えた。
二日後には、彼は1日に二粒を使っていた。
二週間後には、一日三粒に増えた。
喉の乾きは増し、歯を食いしばる癖が出た。鏡を見ると目が血走っている。だが、そんなことは些細な代償だ。自分は今勝ち上がっている。上へ、上へ、誰より速く這い上がっているのだ。
ただし、別のものも受け取り始めていた。
最初は気のせいかと思った。
廊下の向こうで、誰かが自分の悪口を言っていたように聞こえた。 会食の席で隣の男が袖口に何かを隠した気がした。 窓の外に立つ影が自分を見張っているように見えた。
「まさか……暗殺者」
ゴルドは誰もいない部屋でそう呟いた。
笑い飛ばそうとしたが喉が渇いてうまく笑えなかった。
その夜、寝台に横になっても一睡もできなかった。まぶたを閉じると演説会で見た群衆の顔が無数に並び、その一つ一つが悪意のある笑みに変わる。起き上がると今度は壁の裏から足音がする気がする。いや、気のせいではない。誰かいる。きっといる。自分が上へ行くのを妬んでいる者が、必ずいる。
ゴルドは寝台から飛び出して、瓶を開ける。そして飴を口に入れる。
徐々にあれだけ自分にまとわり付いた不安が消え去った。しかし、頭の中にほの暗い確信が形作られていく。
俺を狙っている奴らがいる。だが俺は賢い。誰より先に気づける。 この飴がある限り、あいつらより速く考え、先に潰せる。
彼は机に向かい、明け方まで紙に名前を書き連ねた。敵になりそうな者。自分を追い落としそうな者。裏切りそうな者。
その一覧は、日ごとに増えていった。
6.
黄昏薬局のカウンターの奥でセックは水晶球を覗いていた。
球の中には、寝間着のまま部屋を歩き回るゴルドの姿が映っている。目は見開き、唇は乾き、指先は落ち着きなく震えていた。机の上には瓶が転がり、紙が散乱し、壁には意味不明な線と名前が書きつけられている。
セックは頬杖をついた。
「ですから、1日1錠と言いましたのに」
誰に向けるでもなく、少し残念そうにつぶやく。
彼女は水晶球の表面を指でなぞった。球の中でゴルドが突然振り向き、誰もいない壁を睨みつける。
「借りものの自信は、中身がからっぽなのですよ」
7.
それから半年、ゴルドは一気に出世した。
中央広場の大演説は評判となり、彼の名は帝国民の間に広がった。改革派は彼を利用価値のあると見なし、上流の何人かは“民衆受けする新顔”として品定めを始める。ゴルド自身も、自分こそが時代の寵児だと信じきっていた。
だが、薬を切らすことだけは恐ろしくてたまらなかった。
瓶の中身が減るたび胸がざわつく。 飴がない自分はただの凡庸な煽動屋に戻ってしまうのではないか。 あの喝采も、あの視線も、薬あってのもの。
そんな考えが頭をよぎるたび、彼は頭で否定すると同時に、意識することもなく飴を口に入れていた。
やがて彼は、少しでも不安がわいてくると飴を舐めるようになった。
この半年でゴルドの容姿は変わっていった。頬はこけ、歯の根はカチカチと鳴り、舌は早口になりすぎて時折自分でも何を言っているのか分からなくなる。それでも表向きは“情熱の人”として映っていた。疲れを知らぬ行動力、寝不足にも見えぬ高揚、異様なまでの弁舌。事情を知らぬ者には、それらは全てカリスマの証拠に見えた。
だからこそ、破滅は派手にやって来ることになる。
帝都の政治において、最も重要な場のひとつ。 皇帝臨席の帝都区長の就任演説会。
この場で認められれば、ゴルドは帝都区長という肩書きを得る。貴族でも官僚でもない者にとっては、人生がひっくり返るほどの機会だ。
前夜、ゴルドは一睡もしなかった。
眠れなかった、というより眠る必要を感じなかった。いや、正確には、眠ろうとするたび不安がわいてくるのだ。眠っている間に誰かが入り込み、ナイフを突き刺すのかもしれない、毒を盛るかもしれない。
あの飴を盗むのかもしれない。
彼は部屋の四隅を何度も確かめ、窓を開けては閉め、床板を剥がしかけ、壁の中に暗殺者が潜んでいるとなかば本気で思い始めていた。
そして演説会の少し前に、瓶の中の飴を何粒もまとめて口に放り込んだ。
これまで不安になる度に一日何粒も摂取してきたが、一度につき一粒だった。それを一気に何粒も。
噛み砕いた飴が舌を刺し、喉の奥で苦い熱になって落ちていく。瞬間、視界が鮮明になり、脳の奥で何かが弾けた。
自分は無敵だ。誰も敵わない。いや、敵がいるなら全員叩き潰せばいい。
その確信と同時に、聞こえてはならない声まで聞こえ始めた。
「殺せ」
「先にやられるぞ」
「衛兵が合図を待っている」
「皇帝の側近も、皆お前の敵だ」
部屋には誰もいないのに、周囲から声が増殖する。
ゴルドは笑いながら、けれど汗だくで演説会場へ向かった。
8.
皇帝の御前での広場は、中央広場以上の威圧感に満ちていた。
高い壇。整列する衛兵たち、上位貴族席、官僚席、そしてその奥に黄金の天蓋の下で座る皇帝の姿。その他の貴族たちはその外側を埋めるように集められている。
一つの失言でさえ政治の潮目を変えうる場となっていた。
ゴルドは登壇した。
拍手が起こる。だが彼の耳には、それが拍手には聞こえなかった。剣が打ち合う音、靴音、ひそひそ声、処刑台を組み立てる音のように思えた。
壇上の端に立つ衛兵が自分の喉を狙っている。
貴族席の一人が袖に毒針を隠している。
皇帝のそばに立つ宰相が、わずかに笑った気がする。
あれは、知っている笑いだ。
獲物を屠る直前の笑いだ。
ゴルドは喉を鳴らした。痛いほど乾いていた。
話さなければ。
だが何を?
用意した文言は霧散していた。代わりに、頭の中には被害妄想とこれまで雇い主以外漏らさなかった秘密が奔流のように渦巻いている。
彼は口を開いた。
「き、貴様ら……」
ざわめきが起こる。
いつもの張りのある声ではない。掠れ、震え、妙に高い。
ゴルドの目には、広場を埋める全員が自分を殺そうとにじり寄ってきているように見えた。彼は一歩後ずさる。
「俺を……俺を殺す気だろう!」
一気に空気が凍る。
衛兵が顔を見合わせた。皇帝の側近が眉をひそめる。群衆がどよめく。
だが、ゴルドはもう止まれなかった、止まらなかった。
「あの衛兵も!お前も!みんな俺を殺すつもりだ!裏金のことだな!いや反対派を潰したことか!……全部お前らに頼まれてやっただけなのに!なぜ俺を狙う!」
言葉が滝のようにあふれた。
秘密にしていたはずの悪事が、幻覚に追い立てられるまま、早口で次々と口から零れる。買収。脅迫。偽証。失踪した証人。街角の刺客。全部。皇帝と民衆の前で叫び立ててしまう。
「近寄るな!俺を嵌める気だろう!分かってるんだ!!」
衛兵が制止に入ろうとした瞬間、ゴルドは腰の剣に手をかけた。だが抜ききる前に取り押さえられる。彼は狂ったように暴れ、衛兵の剣身を素手で握りしめた。掌が裂け、血が刃を伝って滴る。なのに痛みを感じていないのか、喉から血の泡を吹きつつ、なおも絶叫し続ける。
「壁の裏にいるんだ!あいつら全員、俺を……!」
その声はもはや演説ではなく、獣の断末魔だった。
皇帝は無言のまま席を立った。
群衆の熱狂は、恐怖と軽蔑へ一瞬で変わった。
ついさっきまで英雄だった男は、ほんの数分で狂人と反逆者に成り下がった。
ゴルドはそのまま縄を打たれ、引きずられていった。
9.
その頃、薄暗い黄昏薬局の店内では、セックがカウンターに肘をつき、水晶球を覗いていた。
球の中には、引き立てられていくゴルドの姿が小さく映っている。口元は泡と血で汚れ、目は見開き、なおも何かに怯えて喚き続けている。もはや民衆を惑わす雄弁家ではなく、薬と妄想に食い荒らされた哀れな男でしかなかった。
セックは苦笑する。
「……だから申し上げたでしょう」
彼女は水晶球に指を這わせる。
「用法・用量を守らなければ、身を滅ぼすと」
彼女は残念がった言葉を言いながらも、その頬がひび割れ、紅を引いた唇の端からあの縫合痕が裂けんばかりの、三日月のような笑みをしていた。
10.
地下牢の暗がりに放り込まれたゴルドが、なおも見えない敵に叫び続けている。爪で石壁を引っかき、枯れた喉で「俺は選ばれた男だ」と繰り返している。看守たちは面倒そうに顔をしかめ、やがて誰も相手をしなくなる。
あれほど帝国民を従わせる声を欲した男の末路が、誰にも聞かれない地下の独り言とは。
皮肉としてはよく出来ていた。
セックはゆっくりと立ち上がり、棚から新しい小瓶を一本取り出した。白い結晶が、かすかに灯りを反射する。彼女はそれを元の位置に戻し別の瓶を並べ直す。
店の外では裏通りの夜がますます濃くなっていた。酔漢の怒鳴り声、遠くの泣き声、どこかで割れるガラスの音。欲望がぶつかり合う音は、夜になるほどよく響く。
そして水晶球の奥では、もう次の影がゆらめき始めていた。
セックは微笑んだ。
「さて……次は、どんなお客さまが来られるのでしょうか」
黄昏薬局は、黄昏時に静かに客を待っている。
第一話 煽動家 ー了ー
黄昏薬局レポート:
今回セックが処方した薬剤は、メタフェタミンです。一般的には覚醒剤として知られていますね。物語で砕いた石英のようと書きましたが、メタフェタミンを精製した時の形状です。
メタフェタミンは中枢神経を興奮させて、万能感や眠気が吹き飛ぶ覚醒作用をもたらしますが、使用が進むにつれて被害妄想や幻聴が起きるようになります。
メタフェタミンは法律で禁止された危険な薬物です。ゴルドのような惨めな人生を送らないためにも摂取してはいけません。
今宵薬局の「 」が不可思議な薬を処方したのに対して、黄昏薬局のセックが処方するのは、現実世界の薬剤で、薬害や副作用の強い法律で禁止・規制されたものに多少創作を加えています。
黄昏薬局は今宵薬局とは趣が違いますのでその辺の違いを楽しんでもらえたらと思います。
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