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第4章 英雄たちの末路 その15

4


その夜、キリツグは一人、こっそり宿舎を抜け出した。


仕立ての良い外套は置いていき、従者用の粗末なフード付きの外套を羽織る。祭りの喧騒に紛れてメインストリートを外れ、二本、三本と路地を折れるごとに、光と音が遠ざかっていった。


裏通りは、別世界だった。


すえた水の臭い。軒先からこちらの様子をうかがう視線。祭りの夜だというのにここには祭りの欠片も届いていない。


(……噂だけを頼りに来てしまったが)


店の名は黄昏薬局。場所は裏通りの、どこか。それしか知らない。


だが、不思議なことに、迷わなかった。


角を曲がるたび足が勝手に道を選んだ。まるで誰かに袖を引かれているように、そう感じた自分をキリツグは鼻で笑った。馬鹿げている。歴戦の勘が働いているだけだ。


そして、その店はあった。


建物こそ古めかしいが、店には大きなガラスがはめれれており、ガラス越しに見える店内は、明るく別世界のように洗練されたものだった。


その店の前に錆びついた鉄の支柱に古びた木の看板が掛かり、そこに記された文字はキリツグの知らない文字だった。


(──ここだ)


根拠はなかった。だが、確信があった。


キリツグは扉を押した。


店内に誰かが入ってきたのに気付いた店主は声を掛けた。


「こんにちは、いえこんばんは、かしら。黄昏薬局へようこそ、お客さま」


スッと通る声だった。


やけに明るい店内にカウンターに女が立っていた。


夜の水のような黒髪。琥珀を溶かした瞳。白い首筋。──戦場で二年を過ごし、宮廷の美姫たちを見慣れたキリツグですら、一瞬、呼吸を忘れた。


(……噂の店主か。これほどの女が、なぜこんな場所に)


訝しみながら女の顔を検分し、キリツグは彼女の口元にかすかな縫合の痕を見つけた。裂けた口を縫い合わせたような。


(なるほど傷物か。それで表を歩けず裏でこんな商売を)


そう結論づけてキリツグは納得した。人間得体の知れないものには理由をつけたがる。つけてしまえば警戒は緩むものだ。


それがどれほど致命的な過ちか知らぬまま。



「毒殺だとバレない毒薬はあるかものだ」


我ながら、単刀直入に過ぎる物言いだった。だが構わない。相手が騒げば、それまでの店。脅して黙らせればいい。この身に纏った戦場の威圧は、並の人間なら口も利けなくなる代物だ。


女は──微笑んだまま、小首を傾げた。


「お客さま、変わったものをご所望ですね。誰を害されるので?」


「それをお前が知る必要はない」


威圧を、込めた。魔将と斬り結んだ男の、本物の殺気を。


女は、瞬き一つしなかった。


(……何だ、この女)


背筋を、冷たいものが伝った。戦場で培った勘が、初めて警鐘を鳴らした。これは、おかしい。この圧を受けて動じない人間など──いや、人間、なのか?


「バレない毒薬、ですか。あるには、ございますよ」


警鐘は、その一言で掻き消えた。


ある。あるのだ。届く得物が、この店に。


キリツグは懐から小さい皮袋を出し、カウンターに置いた。口から金貨が覗く。



「それをもらおう」


「では、少々お待ちくださいませ」


女は皮袋を一瞥もせず、店の奥へ消えた。


待つ間、キリツグは店内を見回した。薬草のない薬局。異国の文字の小箱と小瓶。大商会の情婦か、大貴族の囲い者か──また理由をつけて納得した。


「お待たせいたしました、お客さま」


戻ってきた女の手には、小瓶があった。中身は茶色い粉だった。


「これが、お求めの薬でございます」


「……使い方は」


「お食事の中に匙に半分で十分ですわ。味も、匂いも、ございません。お休み前のものに混ぜれば翌朝には、眠るように」


眠るように。


「医師が調べてもバレないのか」


「大丈夫、この国の医師さまはこの薬をご存じありませんもの。傷もなく毒の症状もなく、ただ心の臓が静かに止まるだけ。お疲れが祟ったのだ、そう仰るでしょうね」


完璧だ。


完璧すぎて最後にもう一度だけキリツグは確かめた。


「……本当にこの薬なら、毒殺だとバレないんだな」


「ええ、バレませんよ」


女は、にこりと笑った。


「よく効きますとも。──お客さまのお望みのままに」


キリツグは小瓶を受け取り、懐の奥深くに収めた。


「商談は終わりだ。言うまでもないが」


「ええ、ええ。当店は、お客さまのことも、お買い上げの品のことも、何ひとつ覚えておりませんわ」


女は胸に手を当て、優雅に礼をした。


「またのお越しを、お待ちしております」



5


店を出て、裏通りを抜け、祭りの光が見え始めた頃。


キリツグはようやく息を吐いた。


懐の小瓶を外套の上から確かめる。透明な小瓶の中に茶色い粉が入っている。


剣でも、魔法でもないもの。


あの男が決して警戒しない、警戒の仕方すら知らないもの。


これなら、届く。


メインストリートに出ると、祭りはまだ続いていた。誰かが歌う勇者賛美。笑い声。花の香り。その全ての中心にいる男の顔を思い浮かべて、キリツグは、フードの下で口元を緩めた。


これで積年の恨みを晴らすことができる。


人混みに紛れて宿舎へ歩き出したその背中を


裏通りの店の、布の外された水晶球が、静かに映し続けていたことを、キリツグは知らない。


そして、その水晶球を覗き込む女の口元が、縫合の痕も裂けよとばかりに、三日月の形に開かれていたことも。


黄昏薬局にご来店いただきありがとうございます。

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