第9話 樽の差し押さえ
ヴェルヌ村は、谷でいちばん奥にある。
川の源に近く、日が山に隠れるのが早い。
畑は狭く、家は八軒しかない。冬になると雪で道が塞がるので、秋のうちに一年ぶんを買い込んでおくのだという。
その村へ、宿場の金貸しの手代が来ていると聞いたのは、朝のことだった。
「ティボーさんとこだよ」
パンを届けに来たマノンが、戸口で言った。
「去年、麦が穫れなかったでしょ。あのとき借りたの、まだ返してないんだって」
「おいくらでしょう」
「銀貨三十二枚って言ってた」
アニエスは前掛けを外した。
◇
ヴェルヌまでは、坂を登って半刻かかった。
登りきると、風が変わった。ラヴォーの風は乾いているが、ここの風は湿っている。川の源が近いせいだろう。家々の屋根に石が載せてあるのは、雪の重みで飛ばないようにするためだと、途中でマノンが教えてくれた。
ティボーの家の前に、荷車が一台停まっていた。
痩せた男が帳面を開いて、家から運び出されたものを一つずつ書き込んでいる。鍋が二つ。麻の反物。山羊が二頭、庭の杭に繋がれている。山羊は事情を知らないので、のんびり草を食んでいた。
その脇に、樽が六つ並べてあった。新しい樽だ。木の色がまだ白い。腹に、彫った文字が入っている。
ティボーは四十くらいの男で、家の戸口に立ったまま動かなかった。妻が子どもを二人抱いて、その後ろにいる。
「ジャコブと申します。宿場のルーセル商会の者で」
手代は、こちらを見て一応名乗った。名乗るだけの分別はあるらしい。
「この家の借財は銀貨三十二枚。期限は先月末。取り立てに参りました」
「山羊まで持っていくのですか」
「持っていけるものは持っていきます。それが仕事ですので」
アニエスは樽の前に立った。六つとも、腹に彫りがある。〈H・レナール〉。
「この樽は、いくらと見積もられました」
「空の樽ですからね。一つ銀貨二枚。六つで十二枚です」
「では二十枚残ります」
「残ります。山羊と鍋と反物で、あと六枚。まだ十四枚足りません」
ジャコブは帳面を閉じた。
「足りないぶんは、来年また来ます。それだけです」
ティボーが、初めて口を開いた。
「来年も麦は穫れねえよ。うちの畑は上だ。日が短い」
「では再来年に参ります」
淡々としていた。悪意もない。ただ、この家がこれから何年かけて何を失っていくかを、すでに全部見積もり終えている口ぶりだった。
「ジャコブさん」
アニエスは樽に手を置いた。
「この樽を空のまま持ち帰って、いくらで売れますか」
「一つ二枚と申し上げました」
「買い手はどなたですか」
「宿場の桶屋です。樽を割って、たがを外して、板にして売ります」
「板に」
「新しい木ですから、それなりに値はつきます」
アニエスはうなずいた。それから、樽の腹の彫りを指でなぞった。
「この樽に、酒を詰めたらいくらになりますか」
ジャコブが眉を寄せた。
「……何のお話です」
「空の樽は二枚です。では、酒の入った樽は」
「そりゃあ、中身によります」
「安酒でしたら」
「一つ、七枚か八枚でしょう」
「六つで四十八枚ですね」
手代は黙った。
「来年の秋、この六つに酒を詰めます」
アニエスは続けた。
「詰めたものをお渡しします。四十八枚ぶんです。借財は三十二枚ですから、残りはティボーさんの手元に十六枚残ります。山羊も鍋も、置いていっていただけます」
「一年、待てと」
「はい」
「うちは金貸しであって、酒屋じゃない」
「酒屋にお売りになればよろしいかと。宿場に一軒ございましたね」
ジャコブは帳面を持ち直した。指で背表紙を叩いている。頭の中で勘定をしているのが分かった。
こういう相手には、情に訴えても意味がない。ドレニエ家の応接間で、アニエスは何度もそれを見た。子どもが二人いますと言えば「気の毒に」と返ってくるが、額は一枚も動かない。動くのは、こちらが相手の勘定に新しい行を足したときだけだ。
十二枚を今日取るか、四十八枚を一年後に取るか。差は三十六枚。この手代の取り分がそのうちいくらかは知らないが、割合で決まっているなら三倍になる。
三倍のために一年待てるかどうかは、この人が自分で決めることだった。
「……失礼ですが、あなたは」
「ヴァルネのアニエスと申します。ラヴォーで酒を仕込んでおります」
「その、酒を詰めるというのは、あなたが」
「わたくしが詰めます」
「保証は」
そこで、後ろから声がした。
「俺の樽だ」
いつのまにか、ユーグが来ていた。荷車の陰から出てきて、樽の一つを片手で持ち上げた。持ち上げて、腹の彫りを手代のほうへ向けた。
「レナールの樽だ。名が彫ってある」
「……存じております」
「板にしたら、名は消える」
「はあ」
「詰めて売れば、名は残る。残ってる樽は、次も俺のところへ戻ってくる。修理に出されるからだ」ユーグは樽を下ろした。「一年待って四十八枚と、今日十二枚と、どっちが商売だ」
ジャコブは、ずいぶん長いこと帳面を見ていた。それから、開き直して、何かを書いた。
「……一年です。来年の秋、収穫の後に参ります。もし詰まっていなければ、そのときは山羊もいただきます」
「結構です」
「書付をお願いします。お二人の名で」
◇
手代の荷車が村を出ていったあと、ティボーは長いこと座り込んでいた。
杭から外された山羊が、庭を横切って戻ってきた。運び出された鍋を、妻が一つずつ家へ運び入れている。子どもの一人が反物にしがみついて離さないので、母親が困った顔をしていた。
礼を言われたが、アニエスは受け取らなかった。受け取れる筋合いではない。
先送りにしただけだ。来年、あの六つが詰まらなければ、この家は今日より深く沈む。山羊も、鍋も、そのときは一緒に持っていかれる。今日ここで止めたのは取り立てであって、借財ではない。
それでも、一年は一年だった。一年あれば、畑は一度実る。
「詰められるのか」
帰り道、ユーグが言った。
「詰めます」
「量は」
「ミオの畑と、ヴェルヌの上の段と、山の畑で足ります。……足りなければ、買います」
「金があるのか」
「ございません」
「じゃあ足りん」
「はい」
ユーグは何も言わなかった。しばらく歩いてから、荷車の柄を持ち替えた。
「樽は俺が作る。代はいらん」
「それでは、あなたが困ります」
「困らん」
「困ります」
「……困る」
正直な人だった。
◇
道が村へ折れるところで、ユーグが足を止めた。
「うちの親父も、樽師だった」
「はい」
「谷にいたころは、名を彫らなかった。彫る習慣がなかったんだ。樽なんてのは入れ物だ、名を入れるものじゃない、と言ってた」
「はい」
「二十年やって、店を畳んだ」
風が出ていた。ユーグは荷車の柄に手を置いたまま、川のほうを見ていた。
「名のない樽は、いくらでも買い叩かれる。誰が作ったか分からんからだ。買い叩かれた値がその樽の値になって、次もその値で買われる。下がりはするが、上がらん」
「……」
「親父は最後まで、腕のせいだと思ってた」
アニエスは、返す言葉を持っていなかった。
腕が足りないから安いのだと思い込んだまま、腕を磨き続けて、それでも値が上がらずに終わった人がいる。値が上がらなかったのは腕のせいではなく、誰の腕か分からなかったせいだ。区別がつかないものは、いちばん安いものの値で買われる。
自分の名で仕込んだ酒を一本持ちたいと思ったのは、たぶん、同じ話だった。ドレニエの黒は十二年、ドレニエの名で売られていた。それは正しい。あれは公爵家の畑の、公爵家の蔵の酒だ。
正しいのだが、正しさとは別に、区別はつかなかった。
「腕は良かった」ユーグは荷車を押しはじめた。「今でも、あの人より良い樽は打てん」
◇
家に戻ると、戸の隙間に紙が挟んであった。宿場から誰かが届けたのだろう。封蝋に、葡萄の枝を三本組んだ紋。
『先の書状、ご返答をいただいておりません。
つきましては、当家より使いを一名、そちらへ差し向けます。
到着は五日後の予定でございます。
お話は、直接のほうが早うございましょう』
アニエスは紙を畳んで、机の上に置いた。前の一通の隣に、きれいに角をそろえて置いた。
樽に名を彫るのは、この谷ではユーグの代からの習慣です。父親の代までは彫っていませんでした。彫らなかった理由も、彫るようになった理由も、今日の話のとおりです。
ちなみに書付の件は、翌年の秋にちゃんと決着します。この物語のなかで、いちばん地味な約束です。
五日後に、王都から人が来ます。金貨三十枚では動かなかったので、今度は直接来るそうです。(次話・母)




