↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/23

第10話 母(ラ・メール)

使者は、書かれていたとおり五日後に来た。


馬が一頭と、供が一人。四頭立ての馬車で乗りつけた商会主とは違って、こちらは目立たない身なりをしていた。目立たない身なりを選んでいる、という種類の身なりだった。


「ドルジュと申します。ドレニエ公爵家の使いでございます」


年は三十半ばか。腰が低い。低いが、頭を下げる角度が正確すぎた。


アニエスは切り株を勧め、器を出した。ミオの若い酒だ。ドルジュは受け取り、一口だけ飲んで、卓の代わりに使っている板の上へ置いた。それきり手を触れなかった。


「単刀直入に申し上げます。壺の件でございます」


「はい」


「金貨百枚でいかがでしょう」


三十枚が百枚になっていた。


たった十日ほどで三倍以上になる値は、値ではない。焦りだ。


「お断りいたします」


ドルジュは表情を変えなかった。


「お伺いしてもよろしいですか。金額の問題でございましょうか」


「いいえ」


「では、何が」


「申し上げられません」


「……理由をおっしゃっていただかないと、私も持ち帰れないのでございます」


「お困りでしょうね」


ドルジュの片眉が、わずかに動いた。


「奥様——失礼、ヴァルネ様は」彼は言い直した。「あの壺の値打ちを、ご存じでいらっしゃいますか」


「存じております」


「では、百枚が安いと」


「安くはございません」


「では」


「値の話ではないと申し上げました」


アニエスは自分の器に酒を注いだ。注いだが、飲まなかった。


「ドルジュさん。あなたは、どちらのお生まれですか」


「は?」


「言葉の運びが、商家の方のものです。貴族のお屋敷の使いの方は、もう少し無駄なことをおっしゃいます」


ドルジュの手が、膝の上で止まった。


「……マルソーの家の者でございます。奥様に付いて、公爵家へ入りました」


「ご主人の家からご一緒に」


「はい」


「では、あなたも数字がお分かりですね」


「数字は、分かります」


「では、これだけ申し上げます」アニエスは器を置いた。「あの壺の中身は、金貨百枚では作れません。千枚でも作れません。三年かけて育てるものです。買えるものでしたら、わたくしも買っております」


ドルジュは、そこで初めて長く黙った。


膝の上で指を組み替えて、それから、置いたままの器を見た。


「……三年」


「はい」


「三年後には、当家でも作れるということでしょうか」


「作り方はお教えできます。手順に秘密はございません」


「では」


「けれど、三年です」


風が出てきた。切り株の脇に置いた器の中で、酒の面が細かく波打った。


ドルジュは立ち上がり、外套の前を合わせた。


「本日はここまでにいたします。宿場に二晩おりますので、お考えが変わりましたらお報せください」


「変わりません」


「……左様でございますか」


彼は頭を下げた。角度は、来たときと同じだった。


去り際に、一度だけ振り返った。


「ヴァルネ様。私は使いでございますので、これは私見でございますが」


「はい」


「奥様は、いちど決めたことを、たいへん長くお持ちになる方です」



その夜、ユーグが来た。


日が落ちてから、荷も持たずに来て、家の外の柿の木の下に立った。


「どうなさいましたか」


「今夜はここにいる」


「……どちらに」


「そこの梁だ」


彼は納屋の梁を顎で示した。屋根が半分落ちている家の、その半分残っているほうの梁だ。


「寒うございますよ」


「寒い」


「中へお入りください」


「入らん」


理由を聞いても言わないだろうと思ったので、聞かなかった。アニエスは毛布を一枚持っていって、梁の下へ置いた。しばらくして見に行くと、毛布はなくなっていて、梁の上に人の形の影があった。



その夜は、月がなかった。


アニエスは寝つけずに、天井の梁を見ていた。半分落ちた屋根の下に寝ているので、天井というほどのものはない。板の隙間から夜の色が見える。


眠れないのは、金貨百枚のせいではなかった。断ったことに迷いはない。迷いがないのに眠れないのは、断ったあとに何が来るかを、自分がもう知っているからだった。


ドレニエ家では、断られた話は二度出さない。二度目は、話ではない形で来る。それを十二年、応接間の隣の部屋で聞いていた。


物音がしたのは、真夜中過ぎだった。


戸が、押されている。


閂は下ろしてある。二度、三度と押されて、それから、板が軋んだ。腰の高さの板が一枚、外側から外されようとしていた。


アニエスは寝床の上で身を起こした。北の部屋の入口を見た。


——立たなければ。そう思ったときには、外で音がしていた。


重いものが落ちる音と、短い声と、何かが走り去る音。それだけだった。ずいぶん呆気なかった。


戸を開けると、ユーグが立っていた。片手に男の外套を持っている。中身は入っていない。


「二人だ。逃げた」


「……お怪我は」


「ない。梁から落ちただけだ」


「落ちたのですか」


「飛び降りたと言え」



アニエスは灯りを持って、北の部屋へ降りた。


壺は、台の上にあった。


布もかかったままだ。触られてもいない。それが分かった瞬間、膝から下の力が抜けて、アニエスはそのまま床に座り込んだ。


そこから先、胸のうちで何が起きたかは、書かないでおく。


ただ、しばらく立てなかった。ユーグは戸口に立って、こちらを見ないようにしていた。見ないようにしているのが分かる立ち方だった。


「……あんた」


「はい」


「なぜ渡さない」


「はい?」


「金貨百枚だ。あれがあれば、ヴェルヌの借財も、樽も、畑も、全部片がつく」


そのとおりだった。反論するところが一つもない。


アニエスは壺の腹に手を置いた。素焼きは冷たい。冷たいが、この中では、いま何かが働いている。


「祖母が、この谷から持って出たものです」


「聞いた」


「祖母の名はマルグリットと申します。祖母がそのまた祖母から受け取って、母に渡して、母がわたくしに渡しました」


「家宝か」


「いいえ」アニエスは首を振った。「家宝でしたら、売れます」


ユーグが黙った。


「家宝は、置いておけば家宝です。これは、置いておくと死にます。毎朝、誰かが声をかけて、餌をやって、温度を見なければ、三日で終わります」


「……三日」


「三日です。祖母は五十年やりました。母は二十二年やりました。わたくしは十二年やりました」


風の音がした。柿の葉が擦れている。


八十四年ぶんだ、と数えてから、アニエスはその数え方が正しくないことに気づいた。祖母が受け取ったとき、この壺はもう古かった。そのまた祖母が何年やったかは誰も知らない。数えられるところから数えて八十四年で、数えられないところがその前に、たぶん同じくらいある。


八十四年ぶんの朝を、金貨百枚で売れと言われたわけだ。


腹は立たなかった。あの使者にも、手紙を書いた人にも、手の甲を振った人にも、腹は立たない。


あの人たちは、値のつくものしか見えない。値のつくものしか見えない目に、これは映らない。映らないものを「がらくた」と呼んだのは、悪意ではなく、見えたままを言っただけなのだろう。


——だから、返さなくていい。


説明しても見えないものを説明する義理は、こちらにない。


「わたくしは、家を出たのではありません」


アニエスは布をかけ直した。


「母を、連れて帰っただけです」



翌朝、ドルジュが村を通って帰っていった。


わざわざ家の前まで来て、馬から降りた。


「昨夜、村で騒ぎがあったと聞きました」


「戸板が一枚、外れました」


「それは、いけませんな」


「風が強うございましたので」


ドルジュは、しばらくこちらを見ていた。


それから、深く頭を下げた。今度は角度が、少し違った。


「私は、何も存じません」


「はい」


「昨夜は宿場におりました。供の者も一緒でございます」


「そうでしょうね」


「……ヴァルネ様。もう一度だけ伺います。お考えは」


「変わりません」


ドルジュは馬に乗った。手綱を持ち直して、谷の下の道へ顔を向けた。


「では、公爵様に、そう伝えます」

「三日で終わります」というのは、脅しでも比喩でもありません。世話をやめれば実際にそうなります。だからこの壺は、資産としては最悪の部類です。持っていても増えず、放っておくと消え、売れば二度と手に入りません。


——ところで、あの使者は「奥様に付いてマルソーの家から公爵家へ入った」と言っていました。マルソー家というのが何をしている家なのかは、まだ出てきません。


明日は、ずいぶん静かな話です。弟子が毎朝やってきて、帳面をつけたいと言い出します。(弟子の朝)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。