第10話 母(ラ・メール)
使者は、書かれていたとおり五日後に来た。
馬が一頭と、供が一人。四頭立ての馬車で乗りつけた商会主とは違って、こちらは目立たない身なりをしていた。目立たない身なりを選んでいる、という種類の身なりだった。
「ドルジュと申します。ドレニエ公爵家の使いでございます」
年は三十半ばか。腰が低い。低いが、頭を下げる角度が正確すぎた。
アニエスは切り株を勧め、器を出した。ミオの若い酒だ。ドルジュは受け取り、一口だけ飲んで、卓の代わりに使っている板の上へ置いた。それきり手を触れなかった。
「単刀直入に申し上げます。壺の件でございます」
「はい」
「金貨百枚でいかがでしょう」
三十枚が百枚になっていた。
たった十日ほどで三倍以上になる値は、値ではない。焦りだ。
「お断りいたします」
ドルジュは表情を変えなかった。
「お伺いしてもよろしいですか。金額の問題でございましょうか」
「いいえ」
「では、何が」
「申し上げられません」
「……理由をおっしゃっていただかないと、私も持ち帰れないのでございます」
「お困りでしょうね」
ドルジュの片眉が、わずかに動いた。
「奥様——失礼、ヴァルネ様は」彼は言い直した。「あの壺の値打ちを、ご存じでいらっしゃいますか」
「存じております」
「では、百枚が安いと」
「安くはございません」
「では」
「値の話ではないと申し上げました」
アニエスは自分の器に酒を注いだ。注いだが、飲まなかった。
「ドルジュさん。あなたは、どちらのお生まれですか」
「は?」
「言葉の運びが、商家の方のものです。貴族のお屋敷の使いの方は、もう少し無駄なことをおっしゃいます」
ドルジュの手が、膝の上で止まった。
「……マルソーの家の者でございます。奥様に付いて、公爵家へ入りました」
「ご主人の家からご一緒に」
「はい」
「では、あなたも数字がお分かりですね」
「数字は、分かります」
「では、これだけ申し上げます」アニエスは器を置いた。「あの壺の中身は、金貨百枚では作れません。千枚でも作れません。三年かけて育てるものです。買えるものでしたら、わたくしも買っております」
ドルジュは、そこで初めて長く黙った。
膝の上で指を組み替えて、それから、置いたままの器を見た。
「……三年」
「はい」
「三年後には、当家でも作れるということでしょうか」
「作り方はお教えできます。手順に秘密はございません」
「では」
「けれど、三年です」
風が出てきた。切り株の脇に置いた器の中で、酒の面が細かく波打った。
ドルジュは立ち上がり、外套の前を合わせた。
「本日はここまでにいたします。宿場に二晩おりますので、お考えが変わりましたらお報せください」
「変わりません」
「……左様でございますか」
彼は頭を下げた。角度は、来たときと同じだった。
去り際に、一度だけ振り返った。
「ヴァルネ様。私は使いでございますので、これは私見でございますが」
「はい」
「奥様は、いちど決めたことを、たいへん長くお持ちになる方です」
◇
その夜、ユーグが来た。
日が落ちてから、荷も持たずに来て、家の外の柿の木の下に立った。
「どうなさいましたか」
「今夜はここにいる」
「……どちらに」
「そこの梁だ」
彼は納屋の梁を顎で示した。屋根が半分落ちている家の、その半分残っているほうの梁だ。
「寒うございますよ」
「寒い」
「中へお入りください」
「入らん」
理由を聞いても言わないだろうと思ったので、聞かなかった。アニエスは毛布を一枚持っていって、梁の下へ置いた。しばらくして見に行くと、毛布はなくなっていて、梁の上に人の形の影があった。
◇
その夜は、月がなかった。
アニエスは寝つけずに、天井の梁を見ていた。半分落ちた屋根の下に寝ているので、天井というほどのものはない。板の隙間から夜の色が見える。
眠れないのは、金貨百枚のせいではなかった。断ったことに迷いはない。迷いがないのに眠れないのは、断ったあとに何が来るかを、自分がもう知っているからだった。
ドレニエ家では、断られた話は二度出さない。二度目は、話ではない形で来る。それを十二年、応接間の隣の部屋で聞いていた。
物音がしたのは、真夜中過ぎだった。
戸が、押されている。
閂は下ろしてある。二度、三度と押されて、それから、板が軋んだ。腰の高さの板が一枚、外側から外されようとしていた。
アニエスは寝床の上で身を起こした。北の部屋の入口を見た。
——立たなければ。そう思ったときには、外で音がしていた。
重いものが落ちる音と、短い声と、何かが走り去る音。それだけだった。ずいぶん呆気なかった。
戸を開けると、ユーグが立っていた。片手に男の外套を持っている。中身は入っていない。
「二人だ。逃げた」
「……お怪我は」
「ない。梁から落ちただけだ」
「落ちたのですか」
「飛び降りたと言え」
◇
アニエスは灯りを持って、北の部屋へ降りた。
壺は、台の上にあった。
布もかかったままだ。触られてもいない。それが分かった瞬間、膝から下の力が抜けて、アニエスはそのまま床に座り込んだ。
そこから先、胸のうちで何が起きたかは、書かないでおく。
ただ、しばらく立てなかった。ユーグは戸口に立って、こちらを見ないようにしていた。見ないようにしているのが分かる立ち方だった。
「……あんた」
「はい」
「なぜ渡さない」
「はい?」
「金貨百枚だ。あれがあれば、ヴェルヌの借財も、樽も、畑も、全部片がつく」
そのとおりだった。反論するところが一つもない。
アニエスは壺の腹に手を置いた。素焼きは冷たい。冷たいが、この中では、いま何かが働いている。
「祖母が、この谷から持って出たものです」
「聞いた」
「祖母の名はマルグリットと申します。祖母がそのまた祖母から受け取って、母に渡して、母がわたくしに渡しました」
「家宝か」
「いいえ」アニエスは首を振った。「家宝でしたら、売れます」
ユーグが黙った。
「家宝は、置いておけば家宝です。これは、置いておくと死にます。毎朝、誰かが声をかけて、餌をやって、温度を見なければ、三日で終わります」
「……三日」
「三日です。祖母は五十年やりました。母は二十二年やりました。わたくしは十二年やりました」
風の音がした。柿の葉が擦れている。
八十四年ぶんだ、と数えてから、アニエスはその数え方が正しくないことに気づいた。祖母が受け取ったとき、この壺はもう古かった。そのまた祖母が何年やったかは誰も知らない。数えられるところから数えて八十四年で、数えられないところがその前に、たぶん同じくらいある。
八十四年ぶんの朝を、金貨百枚で売れと言われたわけだ。
腹は立たなかった。あの使者にも、手紙を書いた人にも、手の甲を振った人にも、腹は立たない。
あの人たちは、値のつくものしか見えない。値のつくものしか見えない目に、これは映らない。映らないものを「がらくた」と呼んだのは、悪意ではなく、見えたままを言っただけなのだろう。
——だから、返さなくていい。
説明しても見えないものを説明する義理は、こちらにない。
「わたくしは、家を出たのではありません」
アニエスは布をかけ直した。
「母を、連れて帰っただけです」
◇
翌朝、ドルジュが村を通って帰っていった。
わざわざ家の前まで来て、馬から降りた。
「昨夜、村で騒ぎがあったと聞きました」
「戸板が一枚、外れました」
「それは、いけませんな」
「風が強うございましたので」
ドルジュは、しばらくこちらを見ていた。
それから、深く頭を下げた。今度は角度が、少し違った。
「私は、何も存じません」
「はい」
「昨夜は宿場におりました。供の者も一緒でございます」
「そうでしょうね」
「……ヴァルネ様。もう一度だけ伺います。お考えは」
「変わりません」
ドルジュは馬に乗った。手綱を持ち直して、谷の下の道へ顔を向けた。
「では、公爵様に、そう伝えます」
「三日で終わります」というのは、脅しでも比喩でもありません。世話をやめれば実際にそうなります。だからこの壺は、資産としては最悪の部類です。持っていても増えず、放っておくと消え、売れば二度と手に入りません。
——ところで、あの使者は「奥様に付いてマルソーの家から公爵家へ入った」と言っていました。マルソー家というのが何をしている家なのかは、まだ出てきません。
明日は、ずいぶん静かな話です。弟子が毎朝やってきて、帳面をつけたいと言い出します。(弟子の朝)




