第11話 弟子の朝
冬が来ると、クレール谷の朝は動かなくなる。
風が止み、川に薄く氷が張り、家々の煙が真上に上がる。麦は蒔き終わっていて、葡萄の木は葉を落としている。この時期にやることといえば、囲炉裏の前で縄を綯うか、雪が来る前に薪を割るかくらいのものだ。
そういう朝に、マノンは毎日来た。
「おはよ」
戸を開けるなり、まっすぐ北の部屋へ降りていく。挨拶はこちらにではない。
「おはよ。今日は寒いよ」
壺に向かって言っている。アニエスは灯りを持って後から降りた。
「壺は、寒いかどうか分かりません」
「分かるでしょ。生きてるんだから」
「生きてはおりますが、耳はございません」
「そういうことじゃなくて」
◇
朝の見回りは、三つある。
一つ、壺の蓋を開けずに、耳を寄せて音を聞く。
二つ、部屋の温度を見る。手の甲を壁に当てて、冷えすぎていないか確かめる。
三つ、帳面に書く。
マノンは一と二をすぐ覚えた。三で止まった。
「これ、何て書けばいいの」
「日付と、音の間隔と、寒いか寒くないかです」
「……書き方が分かんない」
「日付は今日の日を」
「だから、書き方が」
マノンは炭を持ったまま、帳面の上で手を止めていた。しばらく止めていた。アニエスは、その手を見た。それから、帳面を見た。それから、もう一度手を見た。
「マノンさん」
「なに」
「字は」
娘は炭を置いた。置いて、腕を組んで、そっぽを向いた。
「……書けない」
「読めるところはございますか」
「自分の名前だけ。父さんに教わった」
「では、お父様は書けるのですね」
「村長だから、名前だけ。あとは全部、宿場の書記に頼んでる」
なるほど、と思った。この谷には書物が一冊もない。教会の礼拝堂に一冊あるらしいが、鎖でつないであって、開けるのは司祭だけだそうだ。
「弟子には、なれない?」
マノンが、こちらを見ずに言った。
「なぜでしょう」
「だって、帳面つけられないじゃん」
「では、教えます」
「え」
「字を、教えます」
娘は勢いよく振り返った。振り返ってから、慌てて表情を戻した。戻しきれていなかった。
「……べつに、教えてほしいって言ってないから」
「はい」
「言ってないからね」
「はい」
◇
その日から、朝の見回りに四つ目が増えた。四つ、板の上に炭で字を書く。
紙は高い。谷では手に入らない。だから板を使った。焚き付け用の薄い板を一枚もらってきて、炭で書き、翌朝は布で拭いて、また書く。拭くたびに板が黒ずんでいって、五日で真っ黒になった。
最初の日は「一」と「二」と「三」だった。
数字の三までは、思っていたより早かった。マノンは麦の袋の数も、山羊の頭数も、市で払う銅貨も、全部頭の中で数えられる。数えられるのに、書けなかっただけだ。書く必要がなかったからだろう。この谷では、数えたものは覚えておけば済む。忘れるほどの量が、そもそも動かない。
三日目には日付が書けるようになった。五日目には「ぱち」と書けるようになって、マノンはずいぶん得意そうにしていた。
「これ、書いてどうすんの」
「来年、同じ日と比べます」
「来年?」
「はい。今年より暖かい年でしたら、音が早く出ます。早く出た年は、仕上がりも早うございます」
「……来年も、いるの」
炭が板の上で止まった。アニエスは帳面を閉じた。
「三年の樽がございます」
「うん」
「開けるまでは、おります」
マノンは「ふうん」と言って、そのあと三十回くらい「ぱち」と書いた。板が真っ黒になった。
◇
昼過ぎに、ユーグが薪を持ってきた。置いていけばいいものを、わざわざ土間に積み上げて、積み上げた形を眺めて、それから直しはじめた。
「ユーグさん」
「なんだ」
「薪の積み方に、良し悪しがございますか」
彼は手を止めた。止めてから、ゆっくりこちらを向いた。目の色が変わった。
「ある」
「……あ」
「まず、風の抜け方だ。この谷の風は南から来る。だから積む向きは東西にする。東西に積むと、木口が風を受ける。木口から乾くからだ。次に段だ。下三段は太いのを寝かせる。寝かせないと霜で腐る。腐ると火がつかん。四段目から上は細いのを立ててもいい。立てると数が入る。ただし高く積むと崩れる。崩れると足を折る。去年ヴェルヌで一人折った。あれは八段積んだからだ。七段までにしろ。それから樹種だ。楢は火持ちがいいが乾きが遅い。二年寝かせる。栗は爆ぜる。囲炉裏では使うな。樽にも使えん。使えんというのは、香りが——」
「ユーグさん」
「なんだ」
「長うございます」
「……そうか」
彼は薪に向き直った。戸口でマノンが吹き出していた。手で口を押さえて、肩を震わせている。ユーグはそちらを見なかった。見なかったが、耳が赤かった。
◇
笑われたユーグは、そのあと一言も喋らずに薪を積み直した。七段で止めていた。
◇
その日の夕方、村長のギヨームが人を連れてきた。ミオのベルナールと、ヴェルヌのティボーと、あと二人。谷の五つの村から、それぞれ一人ずつ来ていた。
五人が土間に入ると、それだけで足の踏み場がなくなった。囲炉裏の火を大きくして、板を渡して椅子にして、それでも一人は立ったままだった。
こういう集まりに呼ばれるのは、初めてだった。
ドレニエ家では、話は応接間で決まった。応接間には、アニエスは呼ばれない。決まったことだけが、翌朝、蔵へ下りてきた。今年は客が多いから量を増やせ、とか、南の畑を貸すことにしたから収穫は減る、とか。決まったあとで聞かされる。理由は聞かされない。
いま、五人はまだ何も決めずに、こちらを見ていた。
「アニエスさん。相談がありまして」
「はい」
「その、来年のことなんですが」
ギヨームは帽子を手の中で回した。
「うちの村にも、仕込んでもらえんでしょうか」
「うちもです」トゥールの男が続けた。「うちは葡萄が少ないですが、その、少しでも」
「サンスもです。エマンがぜひにと」
アニエスは、五人の顔を順に見た。
「みなさま、ご存じですか」
「なにをです」
「わたくし、桶が一つしかございません」
「桶なら作る」
土間から声がした。ユーグが薪の前でしゃがんだまま言っていた。
「五つでも六つでもいい」
「ユーグさん、代は」
「いらん」
「いります」
「……いる」
ギヨームが咳払いをした。
「代は村で持ちます。それは当たり前です。それより、その」
老人は、そこで言いにくそうに続けた。
「作ったものを、どうしましょうか」
「どう、と申しますと」
「ミオの若い酒は、配って終いでした。あれはあれでよかった。けど、来年五つの村ぶん作ったら、飲みきれません」
そのとおりだった。谷の人口では、飲みきれない。
「アニエスさん」
「はい」
「谷の酒を、外に出してみませんか」
外に出す、という言葉が、しばらく部屋に残っていた。外というのは、宿場のことだ。谷を出て半日、街道沿いに宿と店が十数軒ある町がある。冬のあいだ、月に二度、市が立つ。
「売れますかね」
「さあ」ベルナールが腕を組んだ。「うちらの酒だぞ」
「田舎の酸っぱい水です」アニエスが言った。
五人が一斉にこちらを見た。
「あの商会の方が、そうおっしゃいました。——そのあとで、五杯お飲みになりました」
しばらく誰も何も言わなかった。それから、ティボーが最初に笑い出した。
この谷には書物が一冊もありません。字が書ける人は、村長でも自分の名前までです。仕込み帳をつけたいと言い出したマノンが本当に欲しかったものは、たぶん帳面ではありませんでした。
さて、ここまでで十一話です。もしこの先も読んでやってもいいという方は、ブックマークだけ置いていってくださると、書いている側の心臓に非常によく効きます。
次は宿場の市へ出ます。谷の酒が初めて谷の外へ出る話で、ついでに、あの商会主がまた出てきます。




