第12話 宿場の市
出したのは、一樽と半分だった。
五つの村に配った若い酒の、飲み残しをかき集めた量だ。ミオが多く、ヴェルヌが少なく、トゥールは「もう空です」と言ってきた。飲みきってしまったのなら、それはそれで結構なことだった。
「一樽半で市に出るのか」
ユーグが荷車の縄を締めながら言った。
「出ます」
「売れんぞ」
「売るためではございません」
「じゃあ何のためだ」
「値を知るためです」
◇
宿場までは、荷車で半日かかる。
夜明け前に出た。マノンが荷台の縁に座って、足を振っていた。ギヨームは村に残った。村長が二人とも留守になるのはよくないという理由だったが、たぶん、娘を一人で行かせたくないのを言い換えたのだと思う。
谷を出る峠にさしかかったところで、マノンが黙った。峠の向こうは、平らだった。
麦の刈り跡が、地平まで続いている。谷では、どこを向いても山が見えた。ここには何も遮るものがない。空が、まるまる全部見える。
「……広い」
「はい」
「ずっと、こうなの」
「宿場までは、こうです」
マノンは荷台の縁を掴んだまま、しばらく何も言わなかった。それから、ふいに前を向いた。
「べつに、たいしたことないね」
声が震えていた。アニエスは前を向いたまま、そうですね、と答えた。
◇
宿場町は、思っていたより大きかった。
街道が二本交わるところに宿が七軒、店が十数軒。冬の市は、その広場に板を敷いて立つ。塩、鉄物、干し魚、毛織、樽、蝋燭。人の声で耳が塞がるほどだった。
「場所代は」
「一日、銅貨十枚でさ」
市の差配をしている男は、荷を一瞥して値をつけた。
「酒か。酒はあっちの端だ」
端は、風の通り道だった。誰も好んで来ない場所だ。それでも文句を言う立場ではないので、アニエスは荷車を停めて、樽を下ろし、板の上に器を並べた。
ユーグが樽を据える台を、その場で組んだ。
「持ってきていたのですか」
「作った。昨日」
「一晩で」
「四本足だ。一晩で足りる」
◇
昼まで、三人しか来なかった。一人は器を見ただけで行き、一人は値を聞いて行き、一人は「試しに」と言って一口飲んで、黙って行った。
マノンが荷車の陰でしゃがみ込んだ。
「……売れないじゃん」
「はい」
「あんた、平気なの」
「平気ではございません」
「平気そうな顔してる」
「そういう顔なのです」
アニエスは器を並べ直した。並べ直したところで何も変わらない。変わらないが、手を動かしていないと落ち着かなかった。
——値を知るために来た。そう言ったのは本当だ。本当だが、それだけではなかった。昼過ぎ、風が向きを変えた。匂いが、市の中央へ流れた。
酒の匂いは、風下へは行かない。上がる。冷えた空気の中では、なおさら上がる。最初に来たのは、荷運びの男たちだった。
「これ、なんの酒だ」
「クレール谷のものです」
「クレール? あの、奥の?」
「はい」
「あそこ、酒なんか作ってたか」
「今年からです」
男は器を受け取って、一息に飲んだ。顔をしかめた。
「……酸っぱいな」
「はい」
「薄いし」
「はい」
「もう一杯」
アニエスは注いだ。
「あんた、酸っぱいと言われて平気なのか」
「酸っぱいので」
「ふつう、うまいと言えって言うだろ」
「うまいとおっしゃった方には、うまいと申し上げます」
男は笑って、二杯目も一息に飲んだ。それから、連れを呼んだ。
「おい、こっち来い。安いぞ」
「なんの酒だ」
「知らん。酸っぱい」
「まずいのか」
「まずくはない」
そういう紹介の仕方があるのかと思った。
◇
そこからは、早かった。
荷運びは喉が渇いている。渇いていて、金は多く持っていない。強い酒を買う金はないが、薄くて安い酒なら買える。しかも冷えた日に、酸のあるものは体に入りやすい。
「一杯、銅貨二枚か。安いな」
「三杯目からは一枚にいたします」
「そりゃありがたい」
マノンが器を洗う係になった。洗っては渡し、洗っては渡す。途中から手が追いつかなくなって、宿の下働きの娘が見かねて手伝いに入った。
「あんた、どこの子」
「クレールのラヴォー」
「谷の子か。よくこんなとこまで」
「酒売りに来た」
「あんたが作ったの?」
マノンは器を拭く手を止めた。止めて、しばらく考えて、それから言った。
「……手伝った」
「へえ」
「壺の世話、毎朝やってる。三回」
「三回?」
「三回」
娘は「大変ねえ」と言って、器を三つまとめて洗った。マノンは、そのあと一段と速く手を動かした。途中で一度、年寄りの女が来た。
杖をついていて、器を持つ手が震えていた。一口飲んで、口の中に長く置いた。
「これ、若い酒だね」
「はい。この秋のものです」
「雹に遭った実だろう」
アニエスは手を止めた。
「……お分かりになりますか」
「青いのが入ってる味がする」女は器を返した。「うちも昔、やられたことがあるからね。ミオかい」
「ミオです」
「そうかい。……あそこの畑、まだ生きてたのかい」
「生きております」
年寄りは、それだけ聞いて、銅貨を二枚置いていった。飲んだのは一口だけだった。夕方には、一樽半が空になっていた。
売り上げは、銅貨で二百三十枚あった。銀貨に直すと二枚と少し。場所代を引いて、五つの村で割ると、一村あたりの取り分は笑ってしまうほど小さい。
それでも、マノンは荷台の上で銅貨を数え直していた。三回数えた。三回とも同じ数だった。
「……ねえ」
「はい」
「これ、来年もっと作ったら」
「もっと売れます」
「どのくらい」
「今年は一樽半でした。来年は五つの村で、二十樽は仕込めます」
マノンが指を折りはじめた。折りきれなくなって、途中でやめた。
「無理。数えられない」
「では、書きましょう」
「……あ」
娘は炭を探しに走っていった。
◇
帰り道は、日が暮れていた。峠までは荷車を押して登る。空の樽しか積んでいないので軽い。それでも坂は坂だった。
マノンは荷台で眠っていた。銅貨の袋を抱えたまま眠っている。
「疲れたんだろう」
ユーグが縄を肩にかけ直した。
「初めて谷を出たそうです」
「知ってる」
「ご存じでしたか」
「この谷の子は、たいてい十五まで出ない。出るときは嫁に行くときだ」
アニエスは荷車の後ろを押していた。坂の途中で、一度、手を止めた。振り返ると、平地の灯りが遠くに散っていた。宿場の灯だ。谷からは見えない灯だった。
「ユーグさん」
「なんだ」
「今日、風が変わりました」
「変わったな」
「あれが変わらなければ、一樽半は残っておりました」
「そうだな」
「わたくしは、風は動かせません」
ユーグは何も言わなかった。荷車が少し進んで、また止まった。
「けれど、風が変わったときに、そこに樽があるようにはできます」
「……ああ」
「そのために、来たのです」
しばらく、坂を登る音だけが続いた。
「あんた」ユーグが言った。「今日、いちど笑ったな」
「わたくしがですか」
「三杯目からは一枚にいたします、と言ったときだ」
覚えがなかった。覚えがないので、そうでしょうか、と答えた。
「そうだ」
「……そうですか」
峠の上で、荷車を止めて、二人とも少しのあいだ息を整えた。
風は、もう変わっていた。
谷から吹き下ろす夜の風だ。冷たい。冷たいが、酒の匂いがしなくなった空気は、ずいぶん軽かった。
◇
その市に、もう一人いた。アニエスは気づかなかった。
宿の二階の窓から、外套の襟に毛皮を巻いた男が、端の板の前に人が集まるのを見ていた。見て、宿の下働きを呼んで、何か訊いた。訊いて、そのあと、しばらく窓を閉めなかった。
冷えた空気のなかでは、匂いは下へ行かずに上がります。市の端の風下は、いちばん悪い場所です。ただし風向きが変われば、いちばん良い場所になります。
売り上げは銀貨二枚と少しでした。五つの村で割ると、一人あたり銅貨で数枚です。それでも数え直した子がいます。
次で第2章が終わります。あの毛皮の男が、今度は名前ではなく、匂いのほうから正体に行き着きます。




