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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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12/24

第12話 宿場の市

出したのは、一樽と半分だった。


五つの村に配った若い酒の、飲み残しをかき集めた量だ。ミオが多く、ヴェルヌが少なく、トゥールは「もう空です」と言ってきた。飲みきってしまったのなら、それはそれで結構なことだった。


「一樽半で市に出るのか」


ユーグが荷車の縄を締めながら言った。


「出ます」


「売れんぞ」


「売るためではございません」


「じゃあ何のためだ」


「値を知るためです」



宿場までは、荷車で半日かかる。


夜明け前に出た。マノンが荷台の縁に座って、足を振っていた。ギヨームは村に残った。村長が二人とも留守になるのはよくないという理由だったが、たぶん、娘を一人で行かせたくないのを言い換えたのだと思う。


谷を出る峠にさしかかったところで、マノンが黙った。峠の向こうは、平らだった。


麦の刈り跡が、地平まで続いている。谷では、どこを向いても山が見えた。ここには何も遮るものがない。空が、まるまる全部見える。


「……広い」


「はい」


「ずっと、こうなの」


「宿場までは、こうです」


マノンは荷台の縁を掴んだまま、しばらく何も言わなかった。それから、ふいに前を向いた。


「べつに、たいしたことないね」


声が震えていた。アニエスは前を向いたまま、そうですね、と答えた。



宿場町は、思っていたより大きかった。


街道が二本交わるところに宿が七軒、店が十数軒。冬の市は、その広場に板を敷いて立つ。塩、鉄物、干し魚、毛織、樽、蝋燭。人の声で耳が塞がるほどだった。


「場所代は」


「一日、銅貨十枚でさ」


市の差配をしている男は、荷を一瞥して値をつけた。


「酒か。酒はあっちの端だ」


端は、風の通り道だった。誰も好んで来ない場所だ。それでも文句を言う立場ではないので、アニエスは荷車を停めて、樽を下ろし、板の上に器を並べた。


ユーグが樽を据える台を、その場で組んだ。


「持ってきていたのですか」


「作った。昨日」


「一晩で」


「四本足だ。一晩で足りる」



昼まで、三人しか来なかった。一人は器を見ただけで行き、一人は値を聞いて行き、一人は「試しに」と言って一口飲んで、黙って行った。


マノンが荷車の陰でしゃがみ込んだ。


「……売れないじゃん」


「はい」


「あんた、平気なの」


「平気ではございません」


「平気そうな顔してる」


「そういう顔なのです」


アニエスは器を並べ直した。並べ直したところで何も変わらない。変わらないが、手を動かしていないと落ち着かなかった。


——値を知るために来た。そう言ったのは本当だ。本当だが、それだけではなかった。昼過ぎ、風が向きを変えた。匂いが、市の中央へ流れた。


酒の匂いは、風下へは行かない。上がる。冷えた空気の中では、なおさら上がる。最初に来たのは、荷運びの男たちだった。


「これ、なんの酒だ」


「クレール谷のものです」


「クレール? あの、奥の?」


「はい」


「あそこ、酒なんか作ってたか」


「今年からです」


男は器を受け取って、一息に飲んだ。顔をしかめた。


「……酸っぱいな」


「はい」


「薄いし」


「はい」


「もう一杯」


アニエスは注いだ。


「あんた、酸っぱいと言われて平気なのか」


「酸っぱいので」


「ふつう、うまいと言えって言うだろ」


「うまいとおっしゃった方には、うまいと申し上げます」


男は笑って、二杯目も一息に飲んだ。それから、連れを呼んだ。


「おい、こっち来い。安いぞ」


「なんの酒だ」


「知らん。酸っぱい」


「まずいのか」


「まずくはない」


そういう紹介の仕方があるのかと思った。



そこからは、早かった。


荷運びは喉が渇いている。渇いていて、金は多く持っていない。強い酒を買う金はないが、薄くて安い酒なら買える。しかも冷えた日に、酸のあるものは体に入りやすい。


「一杯、銅貨二枚か。安いな」


「三杯目からは一枚にいたします」


「そりゃありがたい」


マノンが器を洗う係になった。洗っては渡し、洗っては渡す。途中から手が追いつかなくなって、宿の下働きの娘が見かねて手伝いに入った。


「あんた、どこの子」


「クレールのラヴォー」


「谷の子か。よくこんなとこまで」


「酒売りに来た」


「あんたが作ったの?」


マノンは器を拭く手を止めた。止めて、しばらく考えて、それから言った。


「……手伝った」


「へえ」


「壺の世話、毎朝やってる。三回」


「三回?」


「三回」


娘は「大変ねえ」と言って、器を三つまとめて洗った。マノンは、そのあと一段と速く手を動かした。途中で一度、年寄りの女が来た。


杖をついていて、器を持つ手が震えていた。一口飲んで、口の中に長く置いた。


「これ、若い酒だね」


「はい。この秋のものです」


「雹に遭った実だろう」


アニエスは手を止めた。


「……お分かりになりますか」


「青いのが入ってる味がする」女は器を返した。「うちも昔、やられたことがあるからね。ミオかい」


「ミオです」


「そうかい。……あそこの畑、まだ生きてたのかい」


「生きております」


年寄りは、それだけ聞いて、銅貨を二枚置いていった。飲んだのは一口だけだった。夕方には、一樽半が空になっていた。


売り上げは、銅貨で二百三十枚あった。銀貨に直すと二枚と少し。場所代を引いて、五つの村で割ると、一村あたりの取り分は笑ってしまうほど小さい。


それでも、マノンは荷台の上で銅貨を数え直していた。三回数えた。三回とも同じ数だった。


「……ねえ」


「はい」


「これ、来年もっと作ったら」


「もっと売れます」


「どのくらい」


「今年は一樽半でした。来年は五つの村で、二十樽は仕込めます」


マノンが指を折りはじめた。折りきれなくなって、途中でやめた。


「無理。数えられない」


「では、書きましょう」


「……あ」


娘は炭を探しに走っていった。



帰り道は、日が暮れていた。峠までは荷車を押して登る。空の樽しか積んでいないので軽い。それでも坂は坂だった。


マノンは荷台で眠っていた。銅貨の袋を抱えたまま眠っている。


「疲れたんだろう」


ユーグが縄を肩にかけ直した。


「初めて谷を出たそうです」


「知ってる」


「ご存じでしたか」


「この谷の子は、たいてい十五まで出ない。出るときは嫁に行くときだ」


アニエスは荷車の後ろを押していた。坂の途中で、一度、手を止めた。振り返ると、平地の灯りが遠くに散っていた。宿場の灯だ。谷からは見えない灯だった。


「ユーグさん」


「なんだ」


「今日、風が変わりました」


「変わったな」


「あれが変わらなければ、一樽半は残っておりました」


「そうだな」


「わたくしは、風は動かせません」


ユーグは何も言わなかった。荷車が少し進んで、また止まった。


「けれど、風が変わったときに、そこに樽があるようにはできます」


「……ああ」


「そのために、来たのです」


しばらく、坂を登る音だけが続いた。


「あんた」ユーグが言った。「今日、いちど笑ったな」


「わたくしがですか」


「三杯目からは一枚にいたします、と言ったときだ」


覚えがなかった。覚えがないので、そうでしょうか、と答えた。


「そうだ」


「……そうですか」


峠の上で、荷車を止めて、二人とも少しのあいだ息を整えた。


風は、もう変わっていた。


谷から吹き下ろす夜の風だ。冷たい。冷たいが、酒の匂いがしなくなった空気は、ずいぶん軽かった。



その市に、もう一人いた。アニエスは気づかなかった。


宿の二階の窓から、外套の襟に毛皮を巻いた男が、端の板の前に人が集まるのを見ていた。見て、宿の下働きを呼んで、何か訊いた。訊いて、そのあと、しばらく窓を閉めなかった。

冷えた空気のなかでは、匂いは下へ行かずに上がります。市の端の風下は、いちばん悪い場所です。ただし風向きが変われば、いちばん良い場所になります。


売り上げは銀貨二枚と少しでした。五つの村で割ると、一人あたり銅貨で数枚です。それでも数え直した子がいます。


次で第2章が終わります。あの毛皮の男が、今度は名前ではなく、匂いのほうから正体に行き着きます。

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