第13話 あんたが作っていたのか
四頭立ての馬車が、また谷に入ってきた。
前と違ったのは、バルテルが今度は家の中に入ったことだった。
戸口で足を止めもせず、土間を横切って、囲炉裏の脇の板に腰を下ろした。外套は着たままだったが、汚れることを気にする素振りはなかった。
「あんた、宿場の市に出たな」
「はい」
「一樽半だと聞いた」
「そのとおりです」
「二階から見ていた」
供の者が、木箱を運び入れて置いた。箱から出てきたのは、瓶が三本だった。
一本は口を切ってある。二本は蝋で封がしてある。バルテルは三本を板の上に並べ、器を三つ出させた。
「付き合ってもらうぞ」
「何のお話でしょう」
「まあ、飲め」
一本目を注いだ。濃い色だった。器の縁が黒く見える。アニエスは器を持ち上げ、鼻を近づけた。
——去年の黒だ。
間違えようがない。去年の秋、南の段から摘んで、九日目に澱を引いた。あの年は夏が短く、皮が薄かったので、樽の齢を一年若くした。
「どうだ」
「よい酒でございます」
「これはドレニエの黒だ。去年ぶん」
「そうですか」
二本目を注いだ。同じように濃い。だが、器の中で立ち上がってくるものが違った。
香りが上まで来ない。途中で止まっている。渋の輪郭がぼやけていて、後ろに残る甘さもない。
「今年ぶんだ」
「……はい」
「どう思う」
「畑は同じですね」
「同じだ」
「木も、樽も、同じでございましょう」
「同じだ」
「摘む順番が違います」
バルテルの手が止まった。
「それと」アニエスは器を置いた。「桶に入れたものが、違います」
三本目を注いだ。これは色が薄い。ほとんど琥珀に近い。匂いは、酸が先に来る。
宿場の市で売った、谷の若い酒だった。
「これが、あんたのだ」
「はい」
「一昨日、市で買った」
バルテルは三つの器を、板の上に並べ直した。左から、去年の黒、今年の黒、谷の若い酒。
それから、一本目と三本目を、自分の前へ引き寄せた。
「訊く」
「はい」
「この二つには、同じ匂いがある。この真ん中には、ない」
火が爆ぜた。アニエスは、囲炉裏の縁を見ていた。
言われるまで、自分でも気づいていなかった。
いや、気づいていなかったというのは正しくない。谷の若い酒を仕込んだ夜、桶に指を沈めたのは同じ壺からだ。同じものを入れたのだから、同じ匂いが出るのは当たり前だった。当たり前すぎて、それが署名になるとは考えていなかっただけだ。
十二年、この匂いを毎日かいでいた。毎日かいでいるものの匂いは、分からなくなる。
分かるのは、外から二十年かいできた人間のほうだった。
「色が違う。濃さも違う。値も十倍違う。だが奥に、同じものが座っている」バルテルは指で、左と右の器を交互に示した。「二十年、ドレニエの黒を引いてきた。この匂いを二十年かいだ。真ん中のこれには、それがない」
「……」
「あんた、宿場では『クレール谷のものだ』としか言わなかったそうだな」
「はい」
「名も名乗らなかった」
「訊かれませんでしたので」
商会主は器を持ち上げ、三本目を一口飲んだ。飲んで、器の底を見た。
「ヴァルネのアニエス」
「はい」
「ドレニエの黒を、あんたが作っていたのか」
アニエスは答えなかった。
嘘をつく理由もなかったが、認める理由もなかった。認めれば、それは公爵家の内側の話になる。あの家の名を、ここで自分が持ち出すのは筋が違う。
だから、こう言った。
「バルテルさん」
「なんだ」
「その真ん中の一本は、来年、味が戻ると先方はおっしゃっているのでしょうか」
「言っている」
「戻りません」
「……ほう」
「三年かかります」
バルテルは、しばらく動かなかった。
それから、外套の襟を掴んで、初めて自分でくつろげた。
「そうか」
「よし、商売の話をする」
「はい」
「来年の秋、この谷で仕込んだぶんを、うちが全部引く」
土間の隅で、マノンが息を呑んだ音がした。今日は帳面をつけに来ていて、そのまま隅で聞いていたのだ。
「全部、と申しますと」
「五つの村ぶんだ。二十樽と聞いた。二十樽全部だ」
「値は」
「安酒として引く。一樽、銀貨八枚」
「十枚です」
「八枚だ」
「十枚でございます」アニエスは器を寄せた。「先ほど、この三本目を『真ん中よりよい』とおっしゃいました」
「言っておらん」
「同じものが座っている、とおっしゃいました」
バルテルの口の端が動いた。
「……九枚」
「今年は九枚で結構です。来年、味を見てから決めましょう」
「今年? 今年はもう終わりだ」
「来年の秋の話をしております」アニエスは指を折った。「その次の秋を、いま決めてしまうのはもったいのうございます」
商会主は、しばらくこちらを睨んでいた。
睨んで、それから、大きく息を吐いた。
「あんた、商売を知らんと言ったのは撤回する」
◇
書付を交わす段になって、バルテルが樽を見た。
土間の隅に積んであった、ユーグの樽だ。
「これは誰の樽だ」
「レナールという樽師のものです」
「彫ってあるな」
「はい」
「よし。この彫りのある樽で納めろ」商会主は帳面に書き込んだ。「うちは無名の樽は扱わん。中身が良くても、どこの樽か分からんものは、道中で入れ替えられても分からんからだ」
「入れ替える方がいらっしゃるのですか」
「いる。だから名のある樽は高く買う」
外で音がした。戸口に、ユーグが立っていた。薪を抱えたまま、動かずにいた。
いつからいたのかは分からない。
商会は無名の樽を扱わない。中身が良くても、どこの樽か分からないものは信用しない。だから名のある樽は高く買う。
——それは、腕の話ではなかった。
ユーグの父親は、二十年、腕を磨き続けた。磨けば値が上がると思っていた。上がらなかったのは腕が足りないからだと思って、最後まで、腕のせいだと思ったまま店を畳んだ。
上がらなかったのは、誰が作ったか分からなかったからだ。それだけだ。
いま、それを言ったのは、値をつける側の人間だった。谷の樽師でも、その息子でもなく、二十年ものを買い続けてきた商会主の口から出た。
アニエスは、戸口のほうを見なかった。見ないほうがいいと思った。
バルテルは帳面から顔を上げずに、次の行を書いていた。
◇
書付は二枚作った。一枚をバルテルが持ち、一枚をアニエスが持つ。
そこには、来年の秋、クレール谷の五つの村で仕込んだ酒を、レナールの彫りのある樽で、一樽あたり銀貨九枚でクロヴィス商会が引き取る、と書いてあった。
二十樽で百八十枚。銀貨百八十枚は、金貨に直せば一枚と八十枚だ。
ヴェルヌのティボーの借財が三十二枚。ミオの村が麦を買うのに要るのが、年で四十枚ほどと聞いている。谷の五つの村が一年で見る現金は、たぶん全部合わせても百枚に届かない。
——届かない額を、紙に書いた。
書いただけだ。まだ一粒も摘んでいない。来年の夏が長雨なら、この紙は何にもならない。雹がもう一度来れば、去年と同じことになる。
それでも、紙に書いた。
書いてあるものは、村へ持って帰れる。
◇
バルテルは、その日のうちに谷を出た。
馬車が広場を回るあいだ、村の子どもがまた全員集まってきた。マノンは集まらなかった。荷車の陰に立って、帳面を胸に抱えていた。
「アニエスさん」
窓から、商会主が顔を出した。
「なんでしょう」
「これから王都へ戻る」
「お気をつけて」
「ドレニエの若い当主に会う」
アニエスは、馬車の車輪の泥を見ていた。
「そうですか」
「三年かかると、伝えてよいか」
「……お好きになさってください」
「あんたの名は出さん」
「出しても、かまいません」
バルテルは、それには答えなかった。
窓を閉めて、それから、閉めきる前にもう一度開けた。
「一つだけ言っておく。あの家の当主は、この冬、蔵頭を替えるつもりでいる」
商会が名のある樽を高く買うのは、味の話ではありません。道中で中身を入れ替えられたときに、それが分かるからです。名前が残っている、というのは、そういう実務の話でもあります。
樽師の父親は、それを知らないまま二十年やって、店を畳みました。
——さて、この冬、ドレニエ家では蔵頭が替わるそうです。六十八になる老人が、四十年勤めた蔵から出ていく前に、一度だけこの谷へ来ます。頭を下げに来るのではありません。教わりに来ます。




