第14話 三年かかります
その冬、初めての雪が降った日に、ロランが谷へ来た。
背中に荷を負っていた。布に包んだ荷が一つと、脇に抱えた小さな箱が一つ。それだけだった。六十八の老人が、宿場から半日を歩いてきた足の裏の色をしていた。
アニエスは戸を開けたまま、しばらく動けなかった。
「……お久しゅうございます」
「はい」
「奥様」
「その呼び方は、もう」
「では、アニエス様」ロランは笠を取った。「入れていただけますか」
◇
囲炉裏の前に座らせて、湯を出した。酒は出さなかった。この人に谷の酒を飲ませるのは、なぜか気が引けた。
ロランは湯を両手で持って、しばらく指を温めていた。指の関節が太くなっている。四十年、桶と樽を洗い続けた手だ。
「暇を、いただきました」
「……」
「先月末で」
アニエスは、湯の器を置いた。
「今年の酒のことで」
「それもございます」ロランは湯気を見ていた。「けれど、理由はそこではありません。私が、理由を申し上げなかったからです」
「なぜ、おっしゃらなかったのですか」
「言えば、旦那様が『がらくたを捨てた』と言ったことになります」
やはりそうだった。
「四十年、あの蔵におりました。蔵頭になってから二十六年です」ロランは湯を一口飲んだ。「四十年ぶんの最後に、主人に恥をかかせて出ていくのは、筋が通りません」
「筋を通されて、暇を出されたのですか」
「はい」
「……ばかな話でございますね」
ロランは、初めて少し笑った。
「奥様も、ずいぶん物言いが変わられました」
「それで、本日は」
「教えていただきに参りました」
老人は、脇に置いた箱を膝に載せた。中から出てきたのは、綴じた紙の束と、羽根と、墨壺だった。
「手順を、全部でございます」
「……お待ちください」
アニエスは言葉を探した。探しても、うまく出てこなかった。
「ロランさん。あなたは、もう蔵頭ではないのですよね」
「はい」
「では、教えても」
「私は使いません」
「……」
「次の者が使います」
紙の束を、板の上に置いた。表紙に、もう題が書いてあった。〈ドレニエ蔵 覚書〉。
「新しい蔵頭は、ピエールになりました」
「あの子が」
「二十二です。若すぎます」ロランは羽根を取った。「若すぎますが、あの子は泡の音を数えられます」
——三回、毎日ですか。そう聞いて、困った顔をした若い蔵人だった。
「あの子だけです。あの日、奥様に音を教わった者は」
アニエスは膝の上で手を重ねた。
「……分かりました」
「よろしいので」
「お教えします」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「順番どおりに申し上げます。飛ばしません。長うございます」
ロランは羽根に墨を含ませた。
「四十年待ちました。半日くらい、どうということはございません」
半日かかった。
桶を洗う順番から始めた。井戸の水を汲む時刻。桶を伏せて乾かす向き。畑の段ごとの摘み日の決め方。房を落とす鋏の入れ方。踏む前に取り除くもの、取り除いてはいけないもの。桶の温度の見方。手の甲を使う理由。泡の音の数え方と、間隔が変わる意味。止まりかけの見分け方。澱を引く日の決め方。樽の齢と、齢が過ぎた樽の使い道。
ロランは、一言も口を挟まずに書き取った。
羽根の音と、囲炉裏の火の音しかしない時間が続いた。ときどき墨を足す。ときどき紙をめくる。めくるたびに、老人は前の頁の端を折って印をつけた。
言葉にしてみると、たいした量ではなかった。二十三枚だ。一日で読める。
けれど、この二十三枚は、順番が命だった。桶を洗う順番を間違えれば、あとの二十二枚は全部無駄になる。手の甲で温度を見るのは、掌より皮が薄くて狂わないからで、それを知らずに掌で見れば、毎年ずれた酒ができる。
ずれた酒ができても、たぶん誰も気づかない。飲んで「今年は少し違うな」と言うだけだ。違う理由は、二十三枚のどこかにある。
——だから、蔵頭というのは、この二十三枚を持っている人間のことを言う。四十年持っていた人が、いま、それを書き写している。
途中で二度、手を止めた。止めたのは、蔵の引き渡しの日と同じ場所だった。桶の温度の見方と、澱を引く日の決め方。あの日も、この人はそこで手を止めた。
つまり、十二年間、そこだけは知らないまま隣にいたのだ。アニエスは、それに気づいたが、何も言わなかった。
途中でマノンが来た。朝の見回りの時刻を過ぎていたので、様子を見に来たのだろう。土間に知らない年寄りがいるのを見て、警戒した顔で立ち止まった。
「その子は」
「弟子でございます」
ロランが羽根を置いて、丁寧に頭を下げた。マノンは頭を下げ返す作法を知らないので、ぎこちなく会釈をした。
「弟子」
「はい」
「……そうですか」
老人は、それだけ言って、また書きはじめた。
マノンは隅に座って、自分の板を出して、黙って字の練習をしていた。ときどき、ロランの手元を見た。羽根の動きが速いのが、珍しかったらしい。
◇
日が傾いて、手順が最後まで行った。ロランは紙を数えた。二十三枚あった。
「これで、全部でございますか」
「もう一つございます」
「はい」
アニエスは立ち上がって、北の部屋へ降りた。灯りを持って戻ったとき、ロランはもう羽根を置いて、両手を膝に置いて待っていた。この人は、何を聞かされるか分かっている。
「母でございます」
「はい」
「作り方は、お教えできます。難しいことではございません。良い年の、良い実の、皮についているものを取って、糖を足して、温度を保って、毎日世話をします」
「はい」
「弱いものは死にます。強いものが残ります。残ったものに、また糖を足します。それを繰り返します」
「はい」
「一年目は、まだ酒になりません。二年目で、どうにか動きます」
ロランの手が、膝の上で少し動いた。
「三年目に、味が決まります」
「……三年」
「三年でございます」
老人は、しばらく何も言わなかった。囲炉裏の火が、一度だけ大きくなって、また落ち着いた。
「では、来年も、再来年も」
「戻りません」
「三年目の秋に」
「三年目の秋に、ようやく、今年より前の味に近づきます。同じにはなりません」
「同じには」
「母が違いますので」
ロランは、うなずいた。二度、三度、うなずいた。うなずきながら、紙の束の角をそろえた。もうそろっているのに、そろえ直した。
それから、顔を上げないまま言った。
「奥様は、それを毎朝なさっていたのですね」
「はい」
「朝と、昼と、夜に」
「はい」
「十二年」
「十二年でございます」
老人の手が止まった。
「私は、四十年あの蔵におりました」
紙の角を、指で押さえていた。
「毎朝、奥様が石段を降りてこられる音を、四十年のうち十二年ぶん、聞いておりました」
「……」
「聞いておりましたが」
声が、そこで途切れた。
「一度も、数えなかった」
◇
マノンが板を持ったまま、こちらを見ていた。アニエスは、老人の背中を見ていた。
慰める言葉は思いつかなかった。思いついたとしても、言わなかっただろう。この人が数えなかったことは事実で、事実を撤回する言い方はない。
だから、湯を注ぎ足した。ロランは湯を飲んで、袖で顔を拭いて、それから、いつもの声に戻して言った。
「たいへん、助かりました」
「いいえ」
「この覚書は、ピエールに渡します」
「そうしてください」
「……三年、あの子が保ちますかどうか」
「保ちます」アニエスは言った。「音を数えられる子は、保ちます」
◇
翌朝、ロランは発った。雪はやんでいた。谷の道は白く、踏むと下の石が鳴った。アニエスは村の外れまで送った。
「ロランさん」
「はい」
「実家は、どちらでしたか」
「東の、麦ばかりの村でございます。姪の家に厄介になります」
「お体を」
「はい」
老人は笠をかぶり、荷を背負い直した。それから、坂を下りかけて、途中で足を止めた。振り返らずに言った。
「公爵様は、こちらへは来られません」
アニエスは、その背中を見ていた。
「あの方は、頭を下げに行くという発想をお持ちではありません。四十年おりましたので、分かります」
「……はい」
「来られるとしたら」
ロランは、そこで一度だけ、こちらを見た。
「奥様のほうです」
母を一から育て直す手順は、この話に書いたとおりです。難しくはありません。ただ、途中を飛ばせません。飛ばすと弱いものが残り、弱いものが残ると、その次の年も弱いままになります。
だから「三年」は、待つ気があるかどうかの話ではなく、単に必要な年数です。教えても、頭を下げても、金貨を積んでも、そこは動きません。
——さて、蔵頭は「公爵は来ない」と言いました。代わりに来るほうについては、まだ誰も、何をしに来るのか知りません。(次話・リゼット・マルソー)




