第15話 リゼット・マルソー
馬車は、二頭立てだった。
四頭立ての商会の馬車を見たあとだと、ずいぶん小さく見える。車体に紋は入っているが、塗りが剥げていた。借りた馬車だ、とアニエスは思った。ドレニエ家の馬車は、こんな塗りではない。
降りてきたのは、若い女だった。絹の靴を履いていた。雪の上に、そのまま降りた。
「クレール谷のラヴォー村、ヴァルネのアニエス様のお宅は、こちらでよろしくて」
「わたくしがアニエスでございます」
女は、しばらくこちらを見ていた。
「……思っていたより、お若いのね」
「三十二でございます」
「わたしは二十六」
そういう挨拶の仕方があるのかと思った。
◇
リゼット・マルソーは、家に入るなり土間を見渡した。
商会主のように値踏みをする目ではなかった。もっと単純に、驚いている目だった。半分落ちた屋根と、土の床と、囲炉裏と、隅に積んだ薪。
「ここに、お住まいなの」
「はい」
「お一人で」
「はい」
「……冬は」
「寒うございます」
女は、外套を脱ごうとして、やめた。アニエスは板を出して座らせ、湯を注いだ。
「湯でございます。酒はあとで」
「けっこうよ」
「では、湯だけで」
「先に申し上げます」
リゼットは、湯に口をつけずに言った。
「秋に、この家へ人を寄越しました」
「はい」
「あれは、わたしの差し金です」
アニエスは、湯の器を置いた。
「ドルジュには何も言っていません。あの人は、金貨で話をつけるつもりでいました。わたしが別に二人雇いました」
「……」
「謝りには来ておりません。謝っても、あなたにとって何にもならないでしょう」
「はい」
「それだけ、先に」
言い切ってから、女は初めて湯を飲んだ。正直な人だ、とアニエスは思った。あの手紙の字と同じだ。角がそろっていて、余計な飾りがない。
壺のことは、もういい、と女は言った。よくはないけれど無理でしょう、あなたは売らない、と。三年かかるという話も、蔵頭が書き置いていったのだと。
二十三枚の紙は、若い蔵人の手に渡ったらしい。
「あの子が毎朝それを読んでいます。朝と、昼と、夜に、桶に耳を当てているのを見ました」
ピエールが、と思った。アニエスは、湯を飲んだ。その一口は、思ったより温かかった。
「訊いてもよろしいですか」
「どうぞ」
「マルソーのお家は、何を商っておいででしたか」
リゼットの手が止まった。
「……よくご存じね」
「使いの方の言葉の運びが、商家のものでしたので」
「毛織です」
「王都で」
「王都で、三代。祖父の代までは大きかったの」女は器を両手で包んだ。「父の代で、南の商会に商路を全部取られました。いまは店だけ残っています。品は入りません」
「それで」
「それで、名前が要りました」
十二年前、ヴァルネ家も同じことをした。
父は娘に持たせる金がなかったので、娘の腕を差し出した。当時のドレニエの酒は薄く、王都では中の下と言われていた。ヴァルネは傾いていたが、代々の醸造家で、母を持っていた。
家と家の取り引きだった。片方は名を出し、片方は中身を出す。
そういうものだと思っていたし、いまでもそう思っている。腹も立たない。腹が立つとすれば、中身を出したほうが十二年たっても中身のままだったことのほうで、それはもう終わった話だ。
だから、この人のしたことは分かる。分かるが、片方だけ違うところがある。
——この人は、自分で計算した。
十二年前、アニエスは何も計算していない。決めたのは父で、聞かされたのは決まったあとだった。目の前の女は、嫁ぐ前に相手の家の実入りの内訳まで調べている。二十六で。
それは、たぶん、うらやましいということなのだと思う。
◇
リゼットは、はっきりした声で続けた。
「貴族の名がひとつあれば、商いは戻ります。ドレニエ公爵夫人の名で仕入れの掛けが立てば、店は保ちます。だから、そういう話をつけました」
「そういう話」
「あの人が、わたしを気に入ったのは本当です。けれど、それだけでは離縁までしません。うちが立て替えたぶんがあります」
「……ドレニエ家は、お金にお困りでしたか」
「困っていました。三年前から」
知らなかった。十二年、あの家の帳面を見たことは一度もない。蔵の帳面は三冊持っていたが、家の帳面は応接間の側にあった。
「あの黒い酒が、家の実入りの七割です」リゼットは言った。「ご存じでした?」
「存じませんでした」
「わたしは、嫁ぐ前に調べました」
調べて、七割だと分かって、それで嫁いだのだという。王室御用達の黒がある家。その名前なら、うちの店は保つ。——そう計算しました、と女は言った。
「計算は、合っていたと思います。去年までなら」
囲炉裏の火が、薪の隙間へ落ちた。
今年の酒があの味だったこと。バルテル・クロヴィスが王室の棚から下ろすと言ってきたこと。下ろされれば御用達ではなくなること。御用達でなくなった公爵家の名では、掛けが立たないこと。
リゼットは、それを順番に、事務的に並べた。並べ方が帳面のようだった。リゼットは、そこで初めてこちらを正面から見た。
「わたしが買ったのは、名前です。名前の値打ちは、あなたが持って出ました」
名前の値打ちを、わたしが持って出た。その言い方は、正しくない。
持って出たのは壺一つで、あれは母から受け取ったものだ。名前の値打ちのほうは、置いてきた。ドレニエの黒という名は、あの家に残っている。残っているが、中身が出ない。
——名前だけが残るというのは、こういうことなのか。樽に名を彫らなかった樽師の父親は、名がないせいで買い叩かれた。ドレニエ家は、名しかないせいで掛けが立たない。
どちらも、名前と中身が離れたときに起きている。離したのは、誰でもない。十二年かけて、少しずつそうなっただけだ。誰かが一度でも蔵の石段を降りてきていれば、たぶん離れなかった。
「悔しくないの」
そう聞かれた。
「はい?」
「あなたよ。十二年やって、趣味と呼ばれて、追い出されて、いまここに住んでいる」リゼットは土間を見回した。「悔しくないの」
アニエスは、少し考えた。考えてから、立ち上がって、北の部屋へ降りた。戻ってきたとき、器を二つと、若い酒の入った小さな瓶を持っていた。
「一杯だけ、いかがですか」
「話をそらさないで」
「そらしておりません」
注いだ。色は薄い。琥珀に近い。
「悔しいと思う暇に、澱を引かねばなりません」
リゼットが顔を上げた。
「澱は、待ってくれません。日を一日間違えると、その樽は一年戻りません。悔しいと思っている日も、桶の中では働いております」
「……それは、答えになっていない」
「なっております」アニエスは器を差し出した。「悔しいかどうかを考える時間が、わたくしにはございませんでした。十二年、ずっとです」
◇
リゼットは、器を受け取った。
しばらく持ったまま、何もしなかった。それから、鼻を近づけた。近づけ方が、少し慣れていた。毛織の商家の娘は、たぶん品定めの仕草を身につけている。反物を見るときも、この距離で見るのだろう。
一口飲んだ。飲んで、口の中に置いて、飲み込んだ。それきり、しばらく喋らなかった。
この人は、ドレニエの黒を飲んだことがあるはずだ。婚礼の席で出たに決まっている。あれと、これを比べているのだろうか。比べているなら、それは気の毒な比べ方だった。
——けれど、たぶん比べていない。女の目は、器の中を見ていなかった。土間の隅の、積んだ薪のあたりを見ていた。七段で止めてある薪だ。
自分の店の棚を思い出しているのかもしれない、と思った。品の入らない棚を。
「……薄いのね」
「はい」
「酸っぱい」
「はい」
「なのに、飲める」
「はい」
女は、器の底を見た。
「これ、雹に遭った実だと聞きました」
「よくご存じで」
「宿場で。市に出したそうね」
「一樽半だけ」
「一樽半」リゼットは繰り返した。「一樽半を、街道の荷運びに売った」
「はい」
「……うちの店は、去年、絹を三十反捌けませんでした」
◇
日が傾いて、女は立ち上がった。外套の前を合わせ、絹の靴で土間を歩き、戸口で一度止まった。
「アニエス様」
「はい」
「あの人は、来ないと思う?」
「蔵頭は、そう申しておりました」
「わたしもそう思います」リゼットは前を向いたまま言った。「あの人は、頭を下げるくらいなら家ごと沈むほうを選びます。そういう人と、わたしは結婚しました」
「……」
「後悔はしていません。計算違いをしただけです」
戸を開けると、雪の匂いが入ってきた。女は襟を立てて、それから、こちらを見ずに言った。
「わたし、あの人を愛してなんかいないの」
マルソー家は王都で三代続いた毛織の商家です。祖父の代までは大きく、父の代で商路を失いました。名前がひとつあれば掛けが立つ、というのは、この時代の商いではそれなりに正しい計算です。
計算違いだったのは、その名前の値打ちが、家ではなく蔵にあったことでした。
次は、彼女が谷を出るまでの話です。一杯だけ飲んで帰ります。それから、この谷にいちばん寒い夜が来ます。




