↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/24

第16話 一杯だけ

その夜、峠が塞がった。


日が落ちてから風向きが変わり、山のほうから雪が来た。谷の雪は、降るというより横から来る。半刻もしないうちに、村の道が消えた。


馬車の御者が戻ってきて、帽子の雪を払いながら言った。


「今日は無理でございます。明日の朝、風がやめば」


リゼット・マルソーは、外套を着たまま戸口に立っていた。行き場のない立ち方だった。宿場までは戻れない。ラヴォーには宿がない。村長の家には子どもが四人いる。


アニエスは湯を沸かし直した。


「毛布は一枚しかございません」


「……けっこうよ」


「囲炉裏の側でしたら、朝まで保ちます」


御者は村長の家へ泊まることになり、女が一人残った。


絹の靴を脱いで、囲炉裏の縁に並べて乾かしていた。底が濡れて、色が変わっている。もう履けないだろう。


「その靴は、王都のものですか」


「そう。婚礼のときに作らせたの」


「雪に降りられました」


「馬車から降りるとき、雪だと思っていなかったのよ」


「谷でございますので」


「知らなかったの。地図では、こんなに上だと分からない」


アニエスは、麦を煮た粥に塩を入れて出した。谷では冬のあいだ、これしか食べない家もある。リゼットは器を受け取って、匙を持ったまま少し見て、それから、黙って食べた。


全部食べた。



戸を叩く音がして、マノンが入ってきた。


雪の中を歩いてきたらしく、頭から白くなっている。手に鍋を持っていた。


「母さんが、これ持ってけって」


「ありがとうございます」


「……で、その人が、王都の」


「マノンさん」


「なに」


「口を閉じてください」


マノンは口を閉じた。閉じたまま、囲炉裏の縁の靴を凝視していた。


「触ってもいいわよ」


リゼットが言った。


「え」


「もう履けないから」


娘はしゃがみ込んで、絹の靴を指の先で押した。押して、「うわ、やわらか」と言った。


女は、その様子をしばらく見ていた。


「毛織なら、もっといいのがあるのだけれど」


「もーおり?」


「布よ。うちの店の」


「店、あるの」


「あるわ。品は入らないけど」


「なにそれ」


「そういうお店なの」


マノンは分かったような分からないような顔で、また靴を押した。



夜が更けて、娘が帰ったあと、二人は囲炉裏を挟んで座っていた。


火の音しかしない。外の風は、まだ止んでいなかった。


「アニエス様」


「はい」


「一つ、伺ってもよろしいかしら」


「どうぞ」


「あなた、あの家の帳面を、一度でもご覧になった?」


アニエスは、薪を一本足した。


「一度もございません」


「なぜ」


「見せていただけませんでした。……いいえ」少し言い直した。「見せてくださいと申し上げたことが、ございませんでした」


「どうして」


「蔵の帳面が三冊ございましたので、それで足りていると思っておりました」


リゼットは、しばらく火を見ていた。


「わたしは見ます」


「はい」


「明日、王都へ戻ったら、家の帳面を全部出させます。三年前からのぶんを」


「……よろしいのですか」


「よくないでしょうね。でも出させます」女は膝を抱えた。「あの人は嫌がるでしょう。嫌がっても出させます。うちの父が同じことをしなかったから、店が傾いたので」


それは、この人なりの後始末なのだろうと思った。


十二年、アニエスは蔵にいた。蔵にいれば足りると思っていた。足りていなかったのは、たぶん、蔵の外を見なかったからだ。


家の実入りの七割が自分の手から出ていることを、自分だけが知らなかった。知っていたら、何かが変わっただろうか。


——変わらなかった、と思う。


知っていても、あの応接間で「わたくしの仕事です」とは言えなかった。言えるだけの言葉を、あのころは持っていなかった。持っていないことにも、気づいていなかった。


囲炉裏の火が落ちた。


アニエスは薪をもう一本足した。今度は太いのを寝かせて置いた。下三段は太いのを寝かせる——誰かが、そう言っていた。



朝、風はやんでいた。


村の男たちが道を掻いて、峠までの筋をつけた。御者が馬をつなぎ、リゼットは乾いた靴を履いた。歩くたびに、底が固まった音を立てていた。


「お世話になりました」


「いいえ」


「粥、おいしかったわ」


「塩だけでございます」


「塩だけよね」


女は馬車の踏み段に足をかけて、そこで止まった。


「アニエス様」


「はい」


「あの人に、何と伝えましょう」


アニエスは、少し考えた。


考えて、こう言った。


「南の段から摘んでください、と」


「……それだけ?」


「それだけでございます」


リゼットは、しばらくこちらを見ていた。


それから、初めて笑った。笑うと、二十六に見えた。


「伝えます。たぶん、意味が分からないでしょうけれど」


「分からなくて結構です」


「そうね。分かる人だったら、こんなことになっていないもの」



馬車は、峠を越えていった。


見送りには村の子どもが全員出た。二頭立てでも、この谷では見世物になる。


マノンが最後まで手を振っていた。振り返してもらえたので、そのあと三日ばかり機嫌がよかった。



囲炉裏の前に、器が一つ残っていた。昨日、一杯だけ注いだ器だ。底に少し残ったまま、乾いていた。


アニエスはそれを洗いながら、あの人が言ったことを順に思い返した。


嫁ぐ前に相手の家の実入りを調べたこと。


名前を買ったこと。


人を雇って壺を盗ませたこと。それを自分から先に言ったこと。粥を全部食べたこと。帳面を出させると言ったこと。


一つも、好きになれる話ではなかった。


好きになれないが、嫌いにもなれなかった。


嫌いになるには、こちらが何かを取られていなければならない。取られたのは、たぶん、もう十二年前に終わっていた話だ。この人は、そのあとに来て、残っていた名前のほうを買っただけだった。


——買ったものが、思ったより安かった。それだけの話でもある。


器を伏せて、アニエスは北の部屋へ降りた。壺に耳を寄せる。ぱち、と鳴った。間隔が、少し長い。寒くなってきている。



谷は、そこから本格的な冬支度に入った。


薪を積み直す。屋根に石を載せる。山羊を家の土間へ入れる。井戸に藁の蓋をかける。ヴェルヌでは、道が塞がる前に宿場から塩と鉄物を運び込む。


冬支度というのは、ようするに「動かなくなる前に全部済ませる」ことだった。ここでは、春まで何も届かない。忘れたものは、忘れたまま三か月過ごすことになる。


ドレニエ家に冬支度はなかった。王都は道が塞がらない。塩が切れれば使いを出せばよかったし、薪が足りなければ買えばよかった。切れることを前提に暮らす、という感覚がそもそもなかった。


そのぶん、あの家では誰も、何が足りているかを知らなかったのだと思う。


数えなくても済む場所では、人は数えない。


アニエスの家も、ユーグが来て、落ちた側の屋根に板を渡した。全部は塞がらなかったが、北の部屋の上は二重になった。


「これで、冬は保つ」


「ありがとうございます」


「保つが、寒い」


「はい」


「寒いと、樽が」


ユーグは、そこで言葉を切った。


「樽が、どうなさいましたか」


「……いや」


「ユーグさん」


「なんでもない」



その日の夕方、井戸のところで、村のいちばんの年寄りに会った。


八十をいくつか越えているという老婆で、名をシモーヌといった。腰が二つに折れているのに、毎日自分で水を汲みに来る。


「あんたが、酒の人かね」


「はい」


「山の畑を起こしたそうだね」


「少しだけ」


老婆は、桶に水を張りながら、空を見上げた。


雲が低い。低くて、平らだった。


「なぜ、お分かりになりますか」


「雲だよ。平らで低いのが続くとね」老婆は桶を持ち上げた。「わたしが子どものころ、こういう雲が三日続いた冬があった」


「その冬は」


「川が凍った」


「川が」


「上から下まで、まるごとね。山羊が渡って向こうへ行っちまった」


アニエスは、老婆の桶を代わりに持った。老婆は素直に渡した。


「シモーヌさん」


「なんだい」


「そのとき、酒はどうなりましたか」


「酒?」


「樽です。凍りましたか」


老婆は、しばらく考えていた。歯が少ないので、考えるときに口が動く。


「凍った家は、あったろうね」


「……」


「うちは凍らなかった。父さんが土に埋めたから」


「土に」


「地面のほうが、あったかいんだと」老婆は笑った。「けどね、あんたのとこは掘れないよ。あの家、石の床だろう」


「はい」


「なら、ほかの手を考えな」


「この冬はね」


老婆は、それだけ言って歩き出した。


「寒くなるよ」

谷の冬は、降るというより横から来ます。半刻で道が消えるので、峠にかかった人はその日のうちには帰れません。


粥は麦と塩だけです。王都から来た人が全部食べた、というのは、この話ではそれなりに大きな出来事でした。


樽師が、言いかけてやめたことがあります。寒いと、樽がどうなるのか。次の話で、それが起きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。