第16話 一杯だけ
その夜、峠が塞がった。
日が落ちてから風向きが変わり、山のほうから雪が来た。谷の雪は、降るというより横から来る。半刻もしないうちに、村の道が消えた。
馬車の御者が戻ってきて、帽子の雪を払いながら言った。
「今日は無理でございます。明日の朝、風がやめば」
リゼット・マルソーは、外套を着たまま戸口に立っていた。行き場のない立ち方だった。宿場までは戻れない。ラヴォーには宿がない。村長の家には子どもが四人いる。
アニエスは湯を沸かし直した。
「毛布は一枚しかございません」
「……けっこうよ」
「囲炉裏の側でしたら、朝まで保ちます」
御者は村長の家へ泊まることになり、女が一人残った。
絹の靴を脱いで、囲炉裏の縁に並べて乾かしていた。底が濡れて、色が変わっている。もう履けないだろう。
「その靴は、王都のものですか」
「そう。婚礼のときに作らせたの」
「雪に降りられました」
「馬車から降りるとき、雪だと思っていなかったのよ」
「谷でございますので」
「知らなかったの。地図では、こんなに上だと分からない」
アニエスは、麦を煮た粥に塩を入れて出した。谷では冬のあいだ、これしか食べない家もある。リゼットは器を受け取って、匙を持ったまま少し見て、それから、黙って食べた。
全部食べた。
◇
戸を叩く音がして、マノンが入ってきた。
雪の中を歩いてきたらしく、頭から白くなっている。手に鍋を持っていた。
「母さんが、これ持ってけって」
「ありがとうございます」
「……で、その人が、王都の」
「マノンさん」
「なに」
「口を閉じてください」
マノンは口を閉じた。閉じたまま、囲炉裏の縁の靴を凝視していた。
「触ってもいいわよ」
リゼットが言った。
「え」
「もう履けないから」
娘はしゃがみ込んで、絹の靴を指の先で押した。押して、「うわ、やわらか」と言った。
女は、その様子をしばらく見ていた。
「毛織なら、もっといいのがあるのだけれど」
「もーおり?」
「布よ。うちの店の」
「店、あるの」
「あるわ。品は入らないけど」
「なにそれ」
「そういうお店なの」
マノンは分かったような分からないような顔で、また靴を押した。
◇
夜が更けて、娘が帰ったあと、二人は囲炉裏を挟んで座っていた。
火の音しかしない。外の風は、まだ止んでいなかった。
「アニエス様」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいかしら」
「どうぞ」
「あなた、あの家の帳面を、一度でもご覧になった?」
アニエスは、薪を一本足した。
「一度もございません」
「なぜ」
「見せていただけませんでした。……いいえ」少し言い直した。「見せてくださいと申し上げたことが、ございませんでした」
「どうして」
「蔵の帳面が三冊ございましたので、それで足りていると思っておりました」
リゼットは、しばらく火を見ていた。
「わたしは見ます」
「はい」
「明日、王都へ戻ったら、家の帳面を全部出させます。三年前からのぶんを」
「……よろしいのですか」
「よくないでしょうね。でも出させます」女は膝を抱えた。「あの人は嫌がるでしょう。嫌がっても出させます。うちの父が同じことをしなかったから、店が傾いたので」
それは、この人なりの後始末なのだろうと思った。
十二年、アニエスは蔵にいた。蔵にいれば足りると思っていた。足りていなかったのは、たぶん、蔵の外を見なかったからだ。
家の実入りの七割が自分の手から出ていることを、自分だけが知らなかった。知っていたら、何かが変わっただろうか。
——変わらなかった、と思う。
知っていても、あの応接間で「わたくしの仕事です」とは言えなかった。言えるだけの言葉を、あのころは持っていなかった。持っていないことにも、気づいていなかった。
囲炉裏の火が落ちた。
アニエスは薪をもう一本足した。今度は太いのを寝かせて置いた。下三段は太いのを寝かせる——誰かが、そう言っていた。
◇
朝、風はやんでいた。
村の男たちが道を掻いて、峠までの筋をつけた。御者が馬をつなぎ、リゼットは乾いた靴を履いた。歩くたびに、底が固まった音を立てていた。
「お世話になりました」
「いいえ」
「粥、おいしかったわ」
「塩だけでございます」
「塩だけよね」
女は馬車の踏み段に足をかけて、そこで止まった。
「アニエス様」
「はい」
「あの人に、何と伝えましょう」
アニエスは、少し考えた。
考えて、こう言った。
「南の段から摘んでください、と」
「……それだけ?」
「それだけでございます」
リゼットは、しばらくこちらを見ていた。
それから、初めて笑った。笑うと、二十六に見えた。
「伝えます。たぶん、意味が分からないでしょうけれど」
「分からなくて結構です」
「そうね。分かる人だったら、こんなことになっていないもの」
◇
馬車は、峠を越えていった。
見送りには村の子どもが全員出た。二頭立てでも、この谷では見世物になる。
マノンが最後まで手を振っていた。振り返してもらえたので、そのあと三日ばかり機嫌がよかった。
◇
囲炉裏の前に、器が一つ残っていた。昨日、一杯だけ注いだ器だ。底に少し残ったまま、乾いていた。
アニエスはそれを洗いながら、あの人が言ったことを順に思い返した。
嫁ぐ前に相手の家の実入りを調べたこと。
名前を買ったこと。
人を雇って壺を盗ませたこと。それを自分から先に言ったこと。粥を全部食べたこと。帳面を出させると言ったこと。
一つも、好きになれる話ではなかった。
好きになれないが、嫌いにもなれなかった。
嫌いになるには、こちらが何かを取られていなければならない。取られたのは、たぶん、もう十二年前に終わっていた話だ。この人は、そのあとに来て、残っていた名前のほうを買っただけだった。
——買ったものが、思ったより安かった。それだけの話でもある。
器を伏せて、アニエスは北の部屋へ降りた。壺に耳を寄せる。ぱち、と鳴った。間隔が、少し長い。寒くなってきている。
◇
谷は、そこから本格的な冬支度に入った。
薪を積み直す。屋根に石を載せる。山羊を家の土間へ入れる。井戸に藁の蓋をかける。ヴェルヌでは、道が塞がる前に宿場から塩と鉄物を運び込む。
冬支度というのは、ようするに「動かなくなる前に全部済ませる」ことだった。ここでは、春まで何も届かない。忘れたものは、忘れたまま三か月過ごすことになる。
ドレニエ家に冬支度はなかった。王都は道が塞がらない。塩が切れれば使いを出せばよかったし、薪が足りなければ買えばよかった。切れることを前提に暮らす、という感覚がそもそもなかった。
そのぶん、あの家では誰も、何が足りているかを知らなかったのだと思う。
数えなくても済む場所では、人は数えない。
アニエスの家も、ユーグが来て、落ちた側の屋根に板を渡した。全部は塞がらなかったが、北の部屋の上は二重になった。
「これで、冬は保つ」
「ありがとうございます」
「保つが、寒い」
「はい」
「寒いと、樽が」
ユーグは、そこで言葉を切った。
「樽が、どうなさいましたか」
「……いや」
「ユーグさん」
「なんでもない」
◇
その日の夕方、井戸のところで、村のいちばんの年寄りに会った。
八十をいくつか越えているという老婆で、名をシモーヌといった。腰が二つに折れているのに、毎日自分で水を汲みに来る。
「あんたが、酒の人かね」
「はい」
「山の畑を起こしたそうだね」
「少しだけ」
老婆は、桶に水を張りながら、空を見上げた。
雲が低い。低くて、平らだった。
「なぜ、お分かりになりますか」
「雲だよ。平らで低いのが続くとね」老婆は桶を持ち上げた。「わたしが子どものころ、こういう雲が三日続いた冬があった」
「その冬は」
「川が凍った」
「川が」
「上から下まで、まるごとね。山羊が渡って向こうへ行っちまった」
アニエスは、老婆の桶を代わりに持った。老婆は素直に渡した。
「シモーヌさん」
「なんだい」
「そのとき、酒はどうなりましたか」
「酒?」
「樽です。凍りましたか」
老婆は、しばらく考えていた。歯が少ないので、考えるときに口が動く。
「凍った家は、あったろうね」
「……」
「うちは凍らなかった。父さんが土に埋めたから」
「土に」
「地面のほうが、あったかいんだと」老婆は笑った。「けどね、あんたのとこは掘れないよ。あの家、石の床だろう」
「はい」
「なら、ほかの手を考えな」
「この冬はね」
老婆は、それだけ言って歩き出した。
「寒くなるよ」
谷の冬は、降るというより横から来ます。半刻で道が消えるので、峠にかかった人はその日のうちには帰れません。
粥は麦と塩だけです。王都から来た人が全部食べた、というのは、この話ではそれなりに大きな出来事でした。
樽師が、言いかけてやめたことがあります。寒いと、樽がどうなるのか。次の話で、それが起きます。




