第17話 凍てつきの夜
その夜、壺の音が止まった。夜の見回りで、いつものように蓋へ耳を寄せた。いつもなら、待っていれば鳴る。長くても、二十数えるうちには鳴る。
三十数えても、鳴らなかった。アニエスは灯りを近づけた。北の部屋の壁に、白いものが浮いている。霜だ。石の壁の内側に、霜が降りていた。
手の甲を壁に当てた。
——痛い。冷たいのではない。痛い。この温度は、初めてだった。
壺は、まだ死んでいない。
低い温度では、働きが止まるだけだ。止まったまま春まで越せば、また起きる。祖母はそう言っていたし、実家でも冬はそうしていた。
問題は、壺ではなかった。
アニエスは灯りを回した。台の奥に、樽がある。腹に〈アニエス〉と彫って、その下に「三」と炭で書いた樽だ。
近づいて、掌を当てた。木が、湿っていた。湿っているのではない。表に霜が浮いていて、それが灯りの熱で溶けている。
酒は凍る。
水より少し低い温度で凍るが、凍る。凍ると膨らむ。樽の中身が膨らめば、逃げ場がない。板と板のあいだが押されて、たがが締めたままなら、押されたぶんは板が受ける。
板は、割れる。
アニエスは家じゅうの毛布を持ってきた。二枚しかなかった。樽にかけて、上から藁を積んだ。囲炉裏から炭を移して、鍋に入れて、樽の脇へ置いた。
置いてから、それでは足りないことが分かった。
炭一鍋で温まる部屋ではない。石の壁で、窓はなくても、床から冷えが来る。地面のほうがあったかい、とシモーヌは言っていた。この家は石の床だ。掘れない。
——ほかの手を考えな。考えている時間が、あまりない。
戸が鳴った。風かと思って放っておいたら、二度目に人の声がした。
「おい」
開けると、ユーグが立っていた。頭も肩も真っ白で、片手に道具袋を提げている。
「ユーグさん」
「樽は」
「北の部屋です。——どうして」
「壁だ」
「壁?」
「うちの工房の壁に、霜が降りた」彼は雪を払わずに言った。「工房に霜が降りる冬は、十一年ぶりだ」
「十一年前は」
「谷で四軒、樽が割れた」
「北の部屋です」
彼は靴の雪も落とさずに入ってきた。北の部屋へ降りて、灯りを樽に近づけて、掌を当てて、それから、耳を近づけた。
「まだだ」
「まだ、とは」
「まだ割れてない。音がしてない」
ユーグは道具袋から槌と鏨を出した。
「たがを落とす」
「え」
「一段だけだ」
「……落とすと、緩みませんか」
「緩む」彼は樽の底に近い輪へ鏨を当てた。「緩ませる」
槌を当てる。硬い音がして、鉄の輪が指の幅ぶん下へずれた。
「膨らんだら、板が動く場所がいる。締めたままだと、板が受ける。受けたら割れる」
「……逃がすのですか」
「逃がす」
もう一つ、上の輪を落とした。今度は少しだけ。
「三つ以上は落とすな。落としすぎると、たがが外れる。外れたら樽が開く。開いたら全部だ」
「二つまで」
「二つまでだ」
説明が、いつもより短かった。短いのに、必要なことが全部入っていた。アニエスは、そのことに気づいてしまった。
——この人は、長い話をしているときも、ずっとこの中身を喋っていた。
北側の木は目が詰まる。詰まると香りが逃げにくい。逃げにくいから焼きを弱くしていい。弱く焼くと木の甘さが残る。
あの続きに、たぶん、樽が寒さにどうなるかがあった。自分は毎回、そこで遮った。
炭は、ユーグが村から運んできた。
橇に鍋を三つ積んで、村の家々から少しずつ分けてもらったのだという。冬の炭を分けろというのは、この谷ではかなり重い頼みごとだ。
「よく、いただけましたね」
「ヴェルヌのティボーが最初に出した」
「ティボーさんが」
「あいつのところの樽も、あんたが詰めることになってる。凍られたら困るんだと」
そういう理屈で炭が集まったらしい。二人で夜通し、炭を足した。
一鍋が灰になるころに、次を入れる。灰を掻き出して、藁を掛け直して、樽の腹に掌を当てて温度を見る。一刻ごとに、これを繰り返した。
真夜中を過ぎたころ、ユーグが藁の上に腰を下ろした。アニエスも座った。座るところが他になかったので、樽を挟んで反対側に座った。
◇
しばらく、火の音しかしなかった。
「ヴェルヌの樽は」
「ティボーが藁に埋めた。あそこは土間だ。埋められる」
「ミオは」
「ベルナールのとこは、まだ空だ。空なら凍らん」
「サンスは」
「エマンが酢の甕を抱えて寝てる」
「……甕は凍りますか」
「凍る。酢のほうが先に凍る」
そういうものらしかった。
「よく、全部ご存じですね」
「昼のうちに回った」
アニエスは顔を上げた。
「回られたのですか。この雪の中を」
「五つだ」
「五つの村を」
「橇がある」
橇があっても、峠道は峠道だ。ヴェルヌまでは登りが半刻ある。それを一日で回って、それから炭を集めて、それからここへ来た。
「ユーグさん」
「なんだ」
「うちは、五つ目でしたか」
「……四つ目だ」
「順番に、意味はございますか」
彼は火から目を離さなかった。
「トゥールは、樽がない」
答えになっていないような気もしたし、なっているような気もした。
「ユーグさん」
「なんだ」
「あなたの話は、いつも長いと思っておりました」
「長い」
「長うございます」
「そうだな」
彼は膝に肘を置いて、鍋の火を見ていた。
「……もっと、聞いておけばよかったと思っております」
ユーグは、返事をしなかった。しばらくして、鍋に炭を足した。足してから、こう言った。
「まだ、ある」
「はい?」
「話は、まだ残ってる」
「……はい」
「夏に、樽が乾くとどうなるか」
「うかがいます」
「長いぞ」
「はい」
「本当に長い」
「朝まで、ございますので」
「夏に乾くとな」ユーグは炭を掻いた。「板が痩せる。痩せると隙間ができる。隙間ができた樽に酒を入れると、最初の三日で漏れる」
「三日で」
「三日だ。だが四日目には止まる」
「なぜ止まるのですか」
「木が吸うからだ。吸って膨らんで、隙間が塞がる」
「では、漏れるに任せてよろしいのですか」
「よくない。三日ぶん漏れる」
「……もったいのうございますね」
「もったいない。だから、先に水を入れる」
彼は指で樽の腹に線を引いた。
「空の樽に水を張って、二日置く。板が吸って膨らむ。それから水を抜いて、酒を入れる。そうすれば一滴も漏れん」
「二日、待つのですね」
「待つ」
アニエスは炭の鍋を見ていた。
「……あなたも、待つのですね」
「樽は待つものだ」
「はい」
「あんたの三年も、同じだろう」
火が、一度だけ大きくなった。
◇
朝までかかった。夏の乾きの話は一刻で終わり、そのあと、木を伐る月の話になり、たがの鉄の話になり、川で木を沈める話になった。アニエスは一度も遮らなかった。
途中で二度、炭を足した。三度目を足したところで、外が白くなりはじめた。
「もういい」
ユーグが立ち上がった。
「風が落ちた。これ以上は下がらん」
アニエスも立った。膝が固まっていて、うまく伸びなかった。樽の藁をどけて、毛布をめくった。
腹に手を当てる。冷たいが、痛くはない。
「割れておりません」
「割れてない」
「……ありがとうございます」
「たがは、春に締め直す」
「はい」
「忘れるな。緩んだままだと、夏に漏れる」
「忘れません」
◇
ユーグが帰ってから、アニエスは樽の栓を抜いた。抜いて、灯りを口に近づけた。
——ああ。中が、澄んでいた。昨日まで、濁っていたはずだ。皮の厚い実の酒は、若いうちは濁りが長く残る。春まで待って、それから引くつもりでいた。
その濁りが、底へ落ちている。
冷やされたのだ。凍る手前まで冷えると、浮いていたものが沈む。実家の蔵でも、冬の終わりの一番寒い日を狙って、そういうことをしていた。狙ってやるものであって、ふつうは一晩で決まらない。
アニエスは灯りを持ったまま、しばらく樽の口を見ていた。割られるところだった。割られるところだったものが、代わりに、澄んだ。
樽が凍りそうなときにたがを一段落とすのは、膨らんだぶんの逃げ場を作るためです。三つ以上落とすと、たがそのものが外れます。
酒を凍る手前まで冷やすと、濁りのもとが底へ沈みます。ふつうは何日もかけて狙ってやることで、一晩で決まるのは運のいい年だけです。
——そして、澄んだということは、引ける、ということです。次は澱引きの話になります。ただし、引くのはアニエスではありません。




