↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/28

第17話 凍てつきの夜

その夜、壺の音が止まった。夜の見回りで、いつものように蓋へ耳を寄せた。いつもなら、待っていれば鳴る。長くても、二十数えるうちには鳴る。


三十数えても、鳴らなかった。アニエスは灯りを近づけた。北の部屋の壁に、白いものが浮いている。霜だ。石の壁の内側に、霜が降りていた。


手の甲を壁に当てた。


——痛い。冷たいのではない。痛い。この温度は、初めてだった。


壺は、まだ死んでいない。


低い温度では、働きが止まるだけだ。止まったまま春まで越せば、また起きる。祖母はそう言っていたし、実家でも冬はそうしていた。


問題は、壺ではなかった。


アニエスは灯りを回した。台の奥に、樽がある。腹に〈アニエス〉と彫って、その下に「三」と炭で書いた樽だ。


近づいて、掌を当てた。木が、湿っていた。湿っているのではない。表に霜が浮いていて、それが灯りの熱で溶けている。


酒は凍る。


水より少し低い温度で凍るが、凍る。凍ると膨らむ。樽の中身が膨らめば、逃げ場がない。板と板のあいだが押されて、たがが締めたままなら、押されたぶんは板が受ける。


板は、割れる。


アニエスは家じゅうの毛布を持ってきた。二枚しかなかった。樽にかけて、上から藁を積んだ。囲炉裏から炭を移して、鍋に入れて、樽の脇へ置いた。


置いてから、それでは足りないことが分かった。


炭一鍋で温まる部屋ではない。石の壁で、窓はなくても、床から冷えが来る。地面のほうがあったかい、とシモーヌは言っていた。この家は石の床だ。掘れない。


——ほかの手を考えな。考えている時間が、あまりない。


戸が鳴った。風かと思って放っておいたら、二度目に人の声がした。


「おい」


開けると、ユーグが立っていた。頭も肩も真っ白で、片手に道具袋を提げている。


「ユーグさん」


「樽は」


「北の部屋です。——どうして」


「壁だ」


「壁?」


「うちの工房の壁に、霜が降りた」彼は雪を払わずに言った。「工房に霜が降りる冬は、十一年ぶりだ」


「十一年前は」


「谷で四軒、樽が割れた」


「北の部屋です」


彼は靴の雪も落とさずに入ってきた。北の部屋へ降りて、灯りを樽に近づけて、掌を当てて、それから、耳を近づけた。


「まだだ」


「まだ、とは」


「まだ割れてない。音がしてない」


ユーグは道具袋から槌と鏨を出した。


「たがを落とす」


「え」


「一段だけだ」


「……落とすと、緩みませんか」


「緩む」彼は樽の底に近い輪へ鏨を当てた。「緩ませる」


槌を当てる。硬い音がして、鉄の輪が指の幅ぶん下へずれた。


「膨らんだら、板が動く場所がいる。締めたままだと、板が受ける。受けたら割れる」


「……逃がすのですか」


「逃がす」


もう一つ、上の輪を落とした。今度は少しだけ。


「三つ以上は落とすな。落としすぎると、たがが外れる。外れたら樽が開く。開いたら全部だ」


「二つまで」


「二つまでだ」


説明が、いつもより短かった。短いのに、必要なことが全部入っていた。アニエスは、そのことに気づいてしまった。


——この人は、長い話をしているときも、ずっとこの中身を喋っていた。


北側の木は目が詰まる。詰まると香りが逃げにくい。逃げにくいから焼きを弱くしていい。弱く焼くと木の甘さが残る。


あの続きに、たぶん、樽が寒さにどうなるかがあった。自分は毎回、そこで遮った。


炭は、ユーグが村から運んできた。


橇に鍋を三つ積んで、村の家々から少しずつ分けてもらったのだという。冬の炭を分けろというのは、この谷ではかなり重い頼みごとだ。


「よく、いただけましたね」


「ヴェルヌのティボーが最初に出した」


「ティボーさんが」


「あいつのところの樽も、あんたが詰めることになってる。凍られたら困るんだと」


そういう理屈で炭が集まったらしい。二人で夜通し、炭を足した。


一鍋が灰になるころに、次を入れる。灰を掻き出して、藁を掛け直して、樽の腹に掌を当てて温度を見る。一刻ごとに、これを繰り返した。


真夜中を過ぎたころ、ユーグが藁の上に腰を下ろした。アニエスも座った。座るところが他になかったので、樽を挟んで反対側に座った。



しばらく、火の音しかしなかった。


「ヴェルヌの樽は」


「ティボーが藁に埋めた。あそこは土間だ。埋められる」


「ミオは」


「ベルナールのとこは、まだ空だ。空なら凍らん」


「サンスは」


「エマンが酢の甕を抱えて寝てる」


「……甕は凍りますか」


「凍る。酢のほうが先に凍る」


そういうものらしかった。


「よく、全部ご存じですね」


「昼のうちに回った」


アニエスは顔を上げた。


「回られたのですか。この雪の中を」


「五つだ」


「五つの村を」


「橇がある」


橇があっても、峠道は峠道だ。ヴェルヌまでは登りが半刻ある。それを一日で回って、それから炭を集めて、それからここへ来た。


「ユーグさん」


「なんだ」


「うちは、五つ目でしたか」


「……四つ目だ」


「順番に、意味はございますか」


彼は火から目を離さなかった。


「トゥールは、樽がない」


答えになっていないような気もしたし、なっているような気もした。


「ユーグさん」


「なんだ」


「あなたの話は、いつも長いと思っておりました」


「長い」


「長うございます」


「そうだな」


彼は膝に肘を置いて、鍋の火を見ていた。


「……もっと、聞いておけばよかったと思っております」


ユーグは、返事をしなかった。しばらくして、鍋に炭を足した。足してから、こう言った。


「まだ、ある」


「はい?」


「話は、まだ残ってる」


「……はい」


「夏に、樽が乾くとどうなるか」


「うかがいます」


「長いぞ」


「はい」


「本当に長い」


「朝まで、ございますので」


「夏に乾くとな」ユーグは炭を掻いた。「板が痩せる。痩せると隙間ができる。隙間ができた樽に酒を入れると、最初の三日で漏れる」


「三日で」


「三日だ。だが四日目には止まる」


「なぜ止まるのですか」


「木が吸うからだ。吸って膨らんで、隙間が塞がる」


「では、漏れるに任せてよろしいのですか」


「よくない。三日ぶん漏れる」


「……もったいのうございますね」


「もったいない。だから、先に水を入れる」


彼は指で樽の腹に線を引いた。


「空の樽に水を張って、二日置く。板が吸って膨らむ。それから水を抜いて、酒を入れる。そうすれば一滴も漏れん」


「二日、待つのですね」


「待つ」


アニエスは炭の鍋を見ていた。


「……あなたも、待つのですね」


「樽は待つものだ」


「はい」


「あんたの三年も、同じだろう」


火が、一度だけ大きくなった。



朝までかかった。夏の乾きの話は一刻で終わり、そのあと、木を伐る月の話になり、たがの鉄の話になり、川で木を沈める話になった。アニエスは一度も遮らなかった。


途中で二度、炭を足した。三度目を足したところで、外が白くなりはじめた。


「もういい」


ユーグが立ち上がった。


「風が落ちた。これ以上は下がらん」


アニエスも立った。膝が固まっていて、うまく伸びなかった。樽の藁をどけて、毛布をめくった。


腹に手を当てる。冷たいが、痛くはない。


「割れておりません」


「割れてない」


「……ありがとうございます」


「たがは、春に締め直す」


「はい」


「忘れるな。緩んだままだと、夏に漏れる」


「忘れません」



ユーグが帰ってから、アニエスは樽の栓を抜いた。抜いて、灯りを口に近づけた。


——ああ。中が、澄んでいた。昨日まで、濁っていたはずだ。皮の厚い実の酒は、若いうちは濁りが長く残る。春まで待って、それから引くつもりでいた。


その濁りが、底へ落ちている。


冷やされたのだ。凍る手前まで冷えると、浮いていたものが沈む。実家の蔵でも、冬の終わりの一番寒い日を狙って、そういうことをしていた。狙ってやるものであって、ふつうは一晩で決まらない。


アニエスは灯りを持ったまま、しばらく樽の口を見ていた。割られるところだった。割られるところだったものが、代わりに、澄んだ。

樽が凍りそうなときにたがを一段落とすのは、膨らんだぶんの逃げ場を作るためです。三つ以上落とすと、たがそのものが外れます。


酒を凍る手前まで冷やすと、濁りのもとが底へ沈みます。ふつうは何日もかけて狙ってやることで、一晩で決まるのは運のいい年だけです。


——そして、澄んだということは、引ける、ということです。次は澱引きの話になります。ただし、引くのはアニエスではありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。