第18話 澱を引く
雪が消えるのに、ひと月かかった。道が出て、川の氷が割れて、山の畑の下草が緑に変わった。葡萄の木の枝先に、まだ小さいが、赤い芽がついている。
その芽を見て、アニエスは日を決めた。
「明後日にいたします」
「明後日?」
マノンが板から顔を上げた。この冬で、字はずいぶん書けるようになっている。
「澱引きです」
「あの樽?」
「あの樽です」
◇
支度に丸一日かかった。まず、受ける側の樽を洗う。ユーグが冬のあいだに打った新しい樽だ。水を張って二日置いてある。
板が吸って、隙間が塞がっている。
水を抜いて、内側を熱い湯で洗って、伏せて乾かす。乾かしすぎてもいけない。
次に、台を組む。引くほうの樽を高いところへ据えて、受けるほうを低いところへ置く。高低の差で流す。汲むと澱が巻き上がる。
「管は」
「これでございます」
葦を継いだ細い管だ。宿場で買った。太い管のほうが早いが、早いと澱が動く。
「細くない?」
「細うございます」
「これ、いつまでかかるの」
「一刻半ほどでしょうか」
マノンが目を丸くした。
「そのあいだ、ずっと?」
「ずっとです。止めてはいけません」
「止めたらどうなるの」
「線が切れます。切れると空気が入って、管が使えなくなります。もう一度吸い直すと、そのぶん澱が動きます」
「じゃあ、手が疲れたら」
「疲れます」
「疲れたら?」
「疲れたまま持ちます」
マノンは葦の管を指でつついた。
「……あんた、毎年これやってたの」
「はい」
「何本」
「四十本ほどでしょうか」
「四十!?」
「三日かけて引きます」
「三日」
「三日目には、腕が上がらなくなります」
「上がらなくなったら?」
「上がらないまま持ちます」
娘は、心底いやそうな顔をした。
◇
当日の朝、村の者が集まってきた。
呼んでいない。ギヨームが来て、ベルナールが来て、サンスからエマンが来て、ヴェルヌのティボーまで坂を下りてきた。北の部屋には入りきらないので、大半は土間と外にいた。
ユーグは台の脇に立って、樽の据わりを見ていた。
「傾いてるぞ」
「どちらへ」
「右へ、指一本」
板を一枚噛ませて直した。アニエスは管を洗い、両端を確かめ、それから、マノンを見た。
「では」
「え」
「引いてください」
北の部屋が、動かなくなった。
「……わたし?」
「はい」
「無理でしょ」
「無理ではございません」
「だってそれ、あんたの樽じゃん」
土間の入口で、ギヨームが娘の名を呼びかけて、やめた。アニエスは管を差し出した。
「冬のあいだ、朝と昼と夜に、この樽の腹に手を当てたのはどなたですか」
「……わたし」
「凍りかけた日に、炭を運んだのはどなたですか」
「それはユーグさんも」
「あなたもです」
マノンは管を見ていた。手が動かない。
「マノンさん。この樽の中身は、まだ飲めません。あと二年かかります。今日失敗しても、二年ぶんの時間は残っております」
「……失敗していいってこと?」
「いいえ」アニエスは首を振った。「失敗しても取り返せる、というだけです」
娘は、管を受け取った。引くのは、静かな作業だ。
管の一方を樽の口へ入れる。深く入れない。澱の層の上、指三本ぶんのところで止める。もう一方を口に含んで、一度だけ吸う。
酒が上がってきたら、口を離して、受ける樽の口へ差す。そこから先は、何もしない。見ているだけだ。
「マノンさん」
「……なに」
「息をしてください」
「してる」
「していらっしゃいません」
マノンが息を吐いた。長く吐いた。管の先から、細い線が落ちている。琥珀に近い、やや濁りの残った色。落ちる音が、受ける樽の中で少しずつ低くなっていく。
線は、切れなかった。
◇
一刻が過ぎた。外にいた村の者が、交代で覗きに来る。誰も声を出さない。エマンが一度、鼻をすすって、隣のティボーに肘で突かれた。
アニエスは、樽の脇に立って、線だけを見ていた。
十二年、この作業を自分の手でやってきた。ドレニエ家の蔵では、樽が四十以上あった。春になると、三日かけて全部引いた。三日目には腕が上がらなくなって、それでも線は切らさなかった。
蔵人は手を出さなかった。出させなかったのではない。任せられなかったのだ。
一度、若い蔵人に引かせたことがある。嫁いで四年目だった。その子は途中で腕を下ろし、澱が上がって、樽を一つ駄目にした。それきり、アニエスは誰にも触らせなくなった。
——だから、あの蔵には、引ける人間が一人しかいなかった。一人しかいない蔵は、その一人が抜けたら終わる。終わるように作ったのは、自分だ。
ロランが手を止めた二か所のうち、一つは澱を引く日の決め方だった。教えていなかったのではない。教える場面を、自分で潰していた。
管の先で、線が細く落ち続けている。マノンの腕が震えはじめたのは、一刻を過ぎたころだった。
同じ高さで、同じ角度で、管を持ち続けるというのは、それだけで腕が固まる。
「代わろうか」
ユーグが言った。
「いい」
「震えてる」
「震えてるだけ」
線は、切れなかった。
◇
終わりが近づくと、樽の中の音が変わる。低かった音が、また少し高くなる。中身が減って、空の部分が増えるからだ。
「マノンさん」
「うん」
「音が変わりました」
「うん」
「あと少しです。ここからは、傾けません」
「傾けない」
「はい。傾けると、澱が来ます。——最後は、来る前に止めます」
「どこで止めるの」
「わたくしが申し上げます」
管の線が、細くなった。アニエスは樽の口を覗いた。澱の層が、縁のところで揺れはじめている。
「——止めてください」
マノンが管を上げた。
◇
引いた樽に栓をした。受けた樽の中は、澄んでいた。冬の夜が落としたぶんと、いま引いたぶんで、濁りがほとんど残っていない。
アニエスは器に少しだけ取って、口に含んだ。
——若い。固い。渋が角のまま立っている。まだ二年ある。
けれど、その奥に、細い甘さがあった。山の畑で最初に一粒舐めた、あの甘さだ。
「どう」
マノンが器を覗き込んだ。
「まだ飲めません」
「じゃあ、失敗?」
「いいえ」アニエスは器を娘へ渡した。「素性が見えます。これは、上等です」
マノンは器を受け取って、恐る恐る舐めて、盛大に顔をしかめた。
「にがい」
「はい」
「すっぱい」
「はい」
「……これが上等なの?」
「二年後には、そうなります」
◇
外へ出ると、村の者がまだ待っていた。
「引けましたか」
「引けました」
ギヨームが両手を打った。それで全部伝わったらしく、外で誰かが歓声を上げた。歓声を上げるほどのことでもないのだが、この谷では、待つことのほうが多いので、終わったことがあると人が集まる。
エマンが樽を叩いて言った。
「これ、名前はあるんですか」
「名前」
「うちの酒でしょう。名前がないと、宿場で何て言えばいいんです」
たしかに、そのとおりだった。
「谷の酒、じゃ分かんないよ」マノンが言った。「クレールの、なんとか」
「白でございましょうね」
「クレールの白?」
「色が薄うございますので」
村の者が、口の中で繰り返した。クレールの白。クレールの白。
「なんか、ちゃんとしてるね」マノンが言った。
「ちゃんとしております」
「うちの村の酒に、名前がついた」
「五つの村の酒でございます」
「そうだけど」
娘は樽の腹を撫でた。撫でてから、こちらを見上げた。
「ねえ、名前って、なんで要るの」
「区別がつかないと、いちばん安いものの値で買われますので」
「……なにそれ」
「樽師のお父様が、そうでした」
マノンは、少し離れたところに立っているユーグを見た。ユーグは台の板を外しながら、こちらを見ていなかった。見ていなかったが、聞こえてはいるはずだった。
◇
その夜、アニエスは納屋の裏へ薪を取りに行った。行って、途中で足を止めた。
マノンが、薪の陰にしゃがんでいた。顔を膝に埋めていて、肩が動いている。声は出していない。腕がまだ震えていた。
アニエスは、薪を取らずに戻った。囲炉裏に残っていた枝を足して、湯を沸かして、器を二つ出した。
しばらくして、娘が入ってきた。目のあたりが赤い。
「薪」
「まだございます」
「……そう」
マノンは湯を受け取って、両手で持った。持ったまま、しばらく黙っていた。
「ねえ」
「はい」
「わたし、二年後もいる?」
「いてくださると、助かります」
「……そういうことじゃなくて」
澱引きは、汲みません。高低差で流します。汲むと澱が巻き上がって、引いた意味がなくなるからです。管が細いのは、そのほうが澱を動かさないからで、そのぶん一刻半かかります。
一刻半、同じ高さで同じ角度に管を持ち続けます。腕は震えます。震えても、線は切ってはいけません。
この日から三日後に、宿場から早馬が来ます。差出人は毛皮の襟の商会主で、「春のうちに、もう一度伺いたい」とだけ書いてありました。




