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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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18/25

第18話 澱を引く

雪が消えるのに、ひと月かかった。道が出て、川の氷が割れて、山の畑の下草が緑に変わった。葡萄の木の枝先に、まだ小さいが、赤い芽がついている。


その芽を見て、アニエスは日を決めた。


「明後日にいたします」


「明後日?」


マノンが板から顔を上げた。この冬で、字はずいぶん書けるようになっている。


「澱引きです」


「あの樽?」


「あの樽です」



支度に丸一日かかった。まず、受ける側の樽を洗う。ユーグが冬のあいだに打った新しい樽だ。水を張って二日置いてある。


板が吸って、隙間が塞がっている。


水を抜いて、内側を熱い湯で洗って、伏せて乾かす。乾かしすぎてもいけない。


次に、台を組む。引くほうの樽を高いところへ据えて、受けるほうを低いところへ置く。高低の差で流す。汲むと澱が巻き上がる。


「管は」


「これでございます」


葦を継いだ細い管だ。宿場で買った。太い管のほうが早いが、早いと澱が動く。


「細くない?」


「細うございます」


「これ、いつまでかかるの」


「一刻半ほどでしょうか」


マノンが目を丸くした。


「そのあいだ、ずっと?」


「ずっとです。止めてはいけません」


「止めたらどうなるの」


「線が切れます。切れると空気が入って、管が使えなくなります。もう一度吸い直すと、そのぶん澱が動きます」


「じゃあ、手が疲れたら」


「疲れます」


「疲れたら?」


「疲れたまま持ちます」


マノンは葦の管を指でつついた。


「……あんた、毎年これやってたの」


「はい」


「何本」


「四十本ほどでしょうか」


「四十!?」


「三日かけて引きます」


「三日」


「三日目には、腕が上がらなくなります」


「上がらなくなったら?」


「上がらないまま持ちます」


娘は、心底いやそうな顔をした。



当日の朝、村の者が集まってきた。


呼んでいない。ギヨームが来て、ベルナールが来て、サンスからエマンが来て、ヴェルヌのティボーまで坂を下りてきた。北の部屋には入りきらないので、大半は土間と外にいた。


ユーグは台の脇に立って、樽の据わりを見ていた。


「傾いてるぞ」


「どちらへ」


「右へ、指一本」


板を一枚噛ませて直した。アニエスは管を洗い、両端を確かめ、それから、マノンを見た。


「では」


「え」


「引いてください」


北の部屋が、動かなくなった。


「……わたし?」


「はい」


「無理でしょ」


「無理ではございません」


「だってそれ、あんたの樽じゃん」


土間の入口で、ギヨームが娘の名を呼びかけて、やめた。アニエスは管を差し出した。


「冬のあいだ、朝と昼と夜に、この樽の腹に手を当てたのはどなたですか」


「……わたし」


「凍りかけた日に、炭を運んだのはどなたですか」


「それはユーグさんも」


「あなたもです」


マノンは管を見ていた。手が動かない。


「マノンさん。この樽の中身は、まだ飲めません。あと二年かかります。今日失敗しても、二年ぶんの時間は残っております」


「……失敗していいってこと?」


「いいえ」アニエスは首を振った。「失敗しても取り返せる、というだけです」


娘は、管を受け取った。引くのは、静かな作業だ。


管の一方を樽の口へ入れる。深く入れない。澱の層の上、指三本ぶんのところで止める。もう一方を口に含んで、一度だけ吸う。


酒が上がってきたら、口を離して、受ける樽の口へ差す。そこから先は、何もしない。見ているだけだ。


「マノンさん」


「……なに」


「息をしてください」


「してる」


「していらっしゃいません」


マノンが息を吐いた。長く吐いた。管の先から、細い線が落ちている。琥珀に近い、やや濁りの残った色。落ちる音が、受ける樽の中で少しずつ低くなっていく。


線は、切れなかった。



一刻が過ぎた。外にいた村の者が、交代で覗きに来る。誰も声を出さない。エマンが一度、鼻をすすって、隣のティボーに肘で突かれた。


アニエスは、樽の脇に立って、線だけを見ていた。


十二年、この作業を自分の手でやってきた。ドレニエ家の蔵では、樽が四十以上あった。春になると、三日かけて全部引いた。三日目には腕が上がらなくなって、それでも線は切らさなかった。


蔵人は手を出さなかった。出させなかったのではない。任せられなかったのだ。


一度、若い蔵人に引かせたことがある。嫁いで四年目だった。その子は途中で腕を下ろし、澱が上がって、樽を一つ駄目にした。それきり、アニエスは誰にも触らせなくなった。


——だから、あの蔵には、引ける人間が一人しかいなかった。一人しかいない蔵は、その一人が抜けたら終わる。終わるように作ったのは、自分だ。


ロランが手を止めた二か所のうち、一つは澱を引く日の決め方だった。教えていなかったのではない。教える場面を、自分で潰していた。


管の先で、線が細く落ち続けている。マノンの腕が震えはじめたのは、一刻を過ぎたころだった。


同じ高さで、同じ角度で、管を持ち続けるというのは、それだけで腕が固まる。


「代わろうか」


ユーグが言った。


「いい」


「震えてる」


「震えてるだけ」


線は、切れなかった。



終わりが近づくと、樽の中の音が変わる。低かった音が、また少し高くなる。中身が減って、空の部分が増えるからだ。


「マノンさん」


「うん」


「音が変わりました」


「うん」


「あと少しです。ここからは、傾けません」


「傾けない」


「はい。傾けると、澱が来ます。——最後は、来る前に止めます」


「どこで止めるの」


「わたくしが申し上げます」


管の線が、細くなった。アニエスは樽の口を覗いた。澱の層が、縁のところで揺れはじめている。


「——止めてください」


マノンが管を上げた。



引いた樽に栓をした。受けた樽の中は、澄んでいた。冬の夜が落としたぶんと、いま引いたぶんで、濁りがほとんど残っていない。


アニエスは器に少しだけ取って、口に含んだ。


——若い。固い。渋が角のまま立っている。まだ二年ある。


けれど、その奥に、細い甘さがあった。山の畑で最初に一粒舐めた、あの甘さだ。


「どう」


マノンが器を覗き込んだ。


「まだ飲めません」


「じゃあ、失敗?」


「いいえ」アニエスは器を娘へ渡した。「素性が見えます。これは、上等です」


マノンは器を受け取って、恐る恐る舐めて、盛大に顔をしかめた。


「にがい」


「はい」


「すっぱい」


「はい」


「……これが上等なの?」


「二年後には、そうなります」



外へ出ると、村の者がまだ待っていた。


「引けましたか」


「引けました」


ギヨームが両手を打った。それで全部伝わったらしく、外で誰かが歓声を上げた。歓声を上げるほどのことでもないのだが、この谷では、待つことのほうが多いので、終わったことがあると人が集まる。


エマンが樽を叩いて言った。


「これ、名前はあるんですか」


「名前」


「うちの酒でしょう。名前がないと、宿場で何て言えばいいんです」


たしかに、そのとおりだった。


「谷の酒、じゃ分かんないよ」マノンが言った。「クレールの、なんとか」


「白でございましょうね」


「クレールの白?」


「色が薄うございますので」


村の者が、口の中で繰り返した。クレールの白。クレールの白。


「なんか、ちゃんとしてるね」マノンが言った。


「ちゃんとしております」


「うちの村の酒に、名前がついた」


「五つの村の酒でございます」


「そうだけど」


娘は樽の腹を撫でた。撫でてから、こちらを見上げた。


「ねえ、名前って、なんで要るの」


「区別がつかないと、いちばん安いものの値で買われますので」


「……なにそれ」


「樽師のお父様が、そうでした」


マノンは、少し離れたところに立っているユーグを見た。ユーグは台の板を外しながら、こちらを見ていなかった。見ていなかったが、聞こえてはいるはずだった。



その夜、アニエスは納屋の裏へ薪を取りに行った。行って、途中で足を止めた。


マノンが、薪の陰にしゃがんでいた。顔を膝に埋めていて、肩が動いている。声は出していない。腕がまだ震えていた。


アニエスは、薪を取らずに戻った。囲炉裏に残っていた枝を足して、湯を沸かして、器を二つ出した。


しばらくして、娘が入ってきた。目のあたりが赤い。


「薪」


「まだございます」


「……そう」


マノンは湯を受け取って、両手で持った。持ったまま、しばらく黙っていた。


「ねえ」


「はい」


「わたし、二年後もいる?」


「いてくださると、助かります」


「……そういうことじゃなくて」

澱引きは、汲みません。高低差で流します。汲むと澱が巻き上がって、引いた意味がなくなるからです。管が細いのは、そのほうが澱を動かさないからで、そのぶん一刻半かかります。


一刻半、同じ高さで同じ角度に管を持ち続けます。腕は震えます。震えても、線は切ってはいけません。


この日から三日後に、宿場から早馬が来ます。差出人は毛皮の襟の商会主で、「春のうちに、もう一度伺いたい」とだけ書いてありました。

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