第19話 値をつける
バルテル・クロヴィスは、春の終わりに来た。四頭立ての馬車が、今度は谷の道を知っている速さで入ってきた。村の子どもはもう集まらない。二度目からは見世物ではなくなるらしい。
商会主は、前より痩せて見えた。
「王室の棚から、ドレニエの黒が下りた」
椅子代わりの板に腰を下ろすなり、そう言った。
「先月末だ。二十年で初めてだ」
「……左様でございますか」
「他人事だな」
「他人事でございます」
「うちは、二十年あの棚を持っていた」
バルテルは帽子を膝に置いた。
「棚というのは、空けたら終わりだ。次に入れるものを持っていかないと、他の商会に取られる。取られたら二度と戻らん」
「今年は、どうなさいましたか」
「南の商会のものを繋ぎで入れた。半年は保つ。半年だ」
「半年で、代わりを」
「見つけねばならん」
商会主は、そこで一度、外を見た。戸口の向こうで、マノンが荷車に樽を積んでいた。ユーグが荷を縛っている。
「あんたのところの、あの三年の樽だ」
「はい」
「一杯、飲ませてもらえるか」
◇
アニエスは北の部屋へ降りて、器に少しだけ取ってきた。バルテルは器を受け取り、鼻を近づけ、それから、しばらく動かなかった。
一口飲む。顔をしかめた。
「固いな」
「はい」
「渋が角のままだ。今飲むものじゃない」
「あと二年ございます」
「……二年か」
彼はもう一口飲んだ。今度は長く口の中に置いた。置いて、飲み込んで、器の底を見た。
「後ろが、伸びる」
「はい」
「この痩せた土で、この後ろが出るのか」
「痩せた土のほうが出ます。実が小さくて、皮が厚うございますので」
バルテルは器を板に置いた。
「本題に入る」
「秋の二十樽は、書付どおりだ。一樽銀貨九枚。あれは安酒として引く」
「結構でございます」
「そのうえで、別の話をする」バルテルは指を一本立てた。「二年後から、この三年の樽と同じ作り方のものを、毎年うちに納めてもらいたい」
「本数は」
「初年は十樽。増やせるなら増やす」
「棚は」
「王室の棚だ」
土間の空気が動いた。戸口で、ユーグが縄を持つ手を止めていた。アニエスは、膝の上で手を重ねた。
「その一号の樽は、お売りできません」
「なぜだ」
「取ってございますので」
「誰にだ」
「……まだ、決めておりません」
バルテルは眉を上げたが、それ以上は聞かなかった。
「よかろう。二年後からの十樽だ。それでいい」
「はい」
「値だが——」
「一樽、銀貨三十枚出す」
三十枚。安酒の三倍と少しだ。谷の五つの村が一年で見る現金が、たぶん全部で銀貨百枚に届かない。十樽で三百枚。マノンが荷車の陰で、指を折りはじめたのが見えた。
アニエスは、しばらく黙っていた。
「バルテルさん」
「なんだ」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「二十年、ドレニエの黒を、おいくらで引いておいででしたか」
商会主の指が、帽子の縁で止まった。
「……それは言えん」
「では、値はつけられません」
「三十枚が不服か」
「不服ではございません。分からないのです」
アニエスは、正直に言った。
「わたくしは、あの家の帳面を一度も見たことがございません。自分の仕込んだものが、いくらで出ていたのかを知らないのです。十二年、一度も」
バルテルが、初めて言葉に詰まった。
「知らないまま、三十枚を高いと申し上げることも、安いと申し上げることもできません。ですから、教えていただきたいのです」
「……それを聞いてどうする」
「値をつけます」
「言えば、あんたはその値を言うだろう」
「言うかもしれません」アニエスはうなずいた。「けれど、教えていただかなければ、わたくしはこの先ずっと、自分の仕事の値を知らないままです」
長いあいだ、誰も何も言わなかった。外で、荷車の車輪が一度だけ鳴った。バルテルは帽子を膝の上で回した。二度、三度回して、それから、板の上に置いた。
「五十五枚だ」
「……」
「ドレニエの黒は、一樽、銀貨五十五枚で引いていた。王室へは八十で入れる」
八十。アニエスは、その数字を口の中で繰り返した。十二年ぶんだ。年に四十樽として、四十掛ける五十五。
——数えるのは、やめた。数えたところで、一枚も手元には来ない。来ないが、知らないままでいるのと、知っているのとでは、この先が違う。
蔵は屋敷の北の端で、石段を二十三段下りたところにある。数字の話は、いつも上でされていた。上でされたことが、翌朝、命令の形だけになって下りてくる。今年は量を増やせ。南の畑を貸すことにした。
理由は、ついてこなかった。理由を聞かなかったのは自分だ。聞ける立場ではないと思っていた。
——立場ではなく、値を知らなかっただけだ。値を知らない者は、理由を訊けない。訊いても、何と比べればいいのか分からないからだ。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋ではない」
「筋でございます。二十年、誰も教えてくださいませんでしたので」
「では、四十枚でお願いいたします」
バルテルが顔を上げた。
「五十五とは言わんのか」
「申しません」
「なぜだ」
「あれは、ドレニエの畑の、ドレニエの木の酒でございました。二十年、あの名で棚に載っていた値です。クレールの白には、まだ何もございません」
「……」
「一年目は四十枚で結構です。三年たって、棚が保ったら、そのときにもう一度お話しさせてください」
商会主は、しばらくこちらを見ていた。それから、鼻から息を出した。今度は、はっきり笑った。
「あんた、やっぱり商売を知らんな」
「存じません」
「知らんが、負けん」
「負けたくないわけではございません」アニエスは器を寄せた。「三年後に、まだお取引をしていたいだけでございます」
◇
書付は、その日のうちに二枚作った。前金として、銀貨六十枚が置かれた。二年後の十樽の、手付だという。
その日の夕方、村の者が家に集まった。土間に入りきらないので、外に板を並べた。
「六十枚」ギヨームが銀貨の袋を見た。「六十枚」
「はい」
「これ、どうします」
「ヴェルヌの借財が三十二枚でございます」
ティボーが立ち上がりかけて、座り直した。座り直してから、また立ち上がった。
「いや、待ってくれ。それは俺の——」
「あなたの樽に詰めるのは、来年の秋です」アニエスは言った。「来年まで山羊を抱えて過ごすより、いま返してしまったほうが、畑に手が回ります」
「……」
「利子が止まります。それだけのことです」
ティボーは、口を開けたまま、しばらく突っ立っていた。
◇
残りの二十八枚は、桶と樽と、屋根に使うことになった。ミオに桶を四つ。サンスに二つ。トゥールとラヴォーに一つずつ。ユーグの工房に、材木の代金を先に払う。
配り方を決めるのに、日が暮れるまでかかった。
ミオがいちばん広いから四つでいい、いや広いのは畑で人手は少ない、トゥールは桶を貸せば来年増やせる——五つの村の男たちが、板の上で銀貨を動かしながら言い合った。
アニエスは口を出さなかった。
数字を書く係だけをした。マノンが隣に座って、書いたものを読み上げた。読み上げると、男たちは自分の言ったことを聞き直して、たいてい「そりゃ多すぎる」と言い直した。
書いて、読み上げるだけで話が進む。
——これが応接間でされていたことか、と思った。思ったより、たいしたことはしていなかった。
アニエスの家の屋根も、この際、全部塞ぐことになった。
「あんたの家、いちばん後回しでいいの」
マノンが呆れた顔をした。
「順番の問題でございます」
「順番って」
「桶がなければ、来年仕込めません。仕込めなければ、樽が詰まりません。詰まらなければ、書付が果たせません」
「屋根がなくても?」
「屋根がなくても仕込めます」
「雨降るよ」
「北の部屋は塞がっております」
マノンは、しばらくこちらを睨んで、それから、板に何か書きつけた。覗くと、〈やねをなおす〉と書いてあった。
◇
村の者が帰り、板を片づけて、日が落ちた。アニエスは家の前で、宿場のほうから来る道を見ていた。
——五十五枚。十二年、知らなかった数字だ。知ったところで、何かが変わるわけではない。あの家の帳面はもう自分のものではないし、返ってくるものもない。
ただ、これから先、誰かに値を訊かれたときに、黙らずに済む。それだけだった。それだけのことを、十二年、誰も教えてくれなかった。
◇
戸を閉めようとして、手が止まった。村の入口の、道が曲がるところ。
馬車が一台、停まっていた。
四頭立てではない。二頭立てでもない。一頭立ての、小さな辻馬車だ。塗りも紋もない。宿場で拾えるいちばん安い馬車だった。
灯りはついていない。人影が、その脇に立っていた。
ドレニエの黒は、商会が一樽 銀貨五十五枚で引き、王室へは八十枚で入れていました。年に四十樽です。十二年ぶんの計算は、この話ではしません。
アニエスが四十枚と言ったのは、謙遜ではなく見立てです。名前のない酒に、名前のある酒の値はつきません。三年後にもう一度話す、というのは、そのときには名前があるはずだという意味でした。
——ところで、村の入口に馬車が一台停まっています。宿場でいちばん安い辻馬車です。公爵家の紋は、入っていません。




