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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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20/23

第20話 公爵、来訪

人影は、動かなかった。アニエスは灯りを持って、道を下りた。


近づくにつれて、外套の形が見えてきた。上等な仕立てだが、古い。肩の縫い目が白くなっている。三年か四年、着ているものだ。


その人は、灯りが近づいても顔を上げなかった。


「……旦那様」


呼び方が、勝手に出てきた。ジェラール・ドレニエは、そこで顔を上げた。痩せていた。顎の線が変わっている。


「アニエス」


「はい」


「ここに、住んでいるのか」


「はい」



家に入れると、彼は土間の真ん中で立ち止まった。半分塞がった屋根を見た。土の床を見た。囲炉裏を見た。隅の薪を見た。それから、何か言おうとして、言わなかった。


「お座りください。板でよろしければ」


「……ああ」


湯を出した。


酒は出さなかった。ジェラールは器を両手で持った。持ち方が、ロランと同じだった。歩いてきたのだろう。宿場から谷までは半日ある。辻馬車は村の入口までしか入れない。


「馬車は」


「返した。往復の代を持っていない」


「王室の棚を、下ろされた」


彼は、そこから話しはじめた。


「先月末だ。クロヴィスが下ろした。二十年の付き合いだと言ったが、聞かなかった」


「……」


「棚を失うと、掛けが立たない。掛けが立たないと、仕入れが止まる。止まると、屋敷の払いが回らない」


「はい」


「南の畑を売る話が出ている。三つの段のうち二つだ」


アニエスは、湯の器を膝に置いた。南の段。摘みはじめる段だ。日が長くて、いちばん実が甘くなる。あそこを売れば、残るのは北の段だけになる。北だけでは、あの黒は二度と出ない。


「蔵は」


「ピエールという若いのが残っている。夜も蔵にいるらしい」


「よい子です」


「そうか」


「ロランさんは」


「……暇を出した」ジェラールは器を見ていた。「私が出した」


「はい」


「戻すつもりで人をやった」


「はい」


「去年の冬に、姪の家で亡くなったそうだ」


湯の面が、揺れた。


「……いつでございますか」


「一月の末だと聞いた」


一月の末。


峠が塞がって、リゼット・マルソーが一晩泊まっていった、あのころだ。あの人は「蔵頭が書き置いていきました」と言った。書き置いていった人は、そのとき、もういなかったのかもしれない。


「お一人で」


「姪の家だ。一人ではない」


「……そうですか」


四十年、あの蔵にいた人だった。その最後の半年に、雪の中を半日歩いて、この土間で二十三枚の紙を書いた。書いて、自分では使わないと言って、持って帰った。


アニエスは、湯を注ぎ足そうとして、手が止まった。注ぐ相手が湯を飲んでいなかった。


「アニエス」


「はい」


「あの秋のことだが」


「はい」


「婚礼の席で、樽を一つ開けた」


——来た、と思った。


「マルソーの家の者も、王都の者も、五十人ほどいた。私が自分で栓を抜いた。最上の一樽だと言って」


「はい」


「飲めたものではなかった」


ジェラールは、湯の器を板に置いた。


「濁っていて、渋くて、口の中に残った。全員が飲んだ。誰も何も言わなかった。言わないのが、いちばんこたえた」


アニエスは、うなずいた。


「澱を、引いておりませんでしたので」


「……そうだ」


「あと十日でございました」


「……」


「十日待てば、飲めておりました」


彼は、両手で顔を覆った。



しばらく、火の音だけがしていた。アニエスは、その姿を見ていた。


十二年、この人が困っているところを見たことがなかった。困る前に、誰かが片づけていたからだ。誰が片づけていたのかを、この人は最後まで知らなかった。


いま、片づける人がいない。


「アニエス」


顔を上げた。目が赤い。


「戻ってくれ」


「……」


「頼む。頭を下げる。ほら、下げている」


彼は本当に頭を下げた。土間の板の上で、膝に手を置いて、深く。公爵が頭を下げるところを、アニエスは初めて見た。


「畑は残す。南の段は売らない。君が戻るなら、銀行も待つと言っている。蔵は君の好きにしていい。ピエールも置く。……壺も、もう何も言わん」


「マルソーの奥様は」


ジェラールの動きが止まった。


「……知っているのか」


「冬に、こちらへ来られました」


「そうか」


「お元気でいらっしゃいますか」


「家の帳面を全部出させた」彼は苦い顔をした。「三年ぶんだ。私が見せなかったものを、あれは一日で出させた」


「よろしいことでございます」


「よくない」


「いいえ。よろしいことでございます」


「……」


「見なければ、傾いていることも分かりません」


ジェラールは口を閉じた。それから、また開いた。


「離縁は、しない。あちらもそう言っている。……いま離縁したら、うちもマルソーも、両方潰れる」


「では、そのままでよろしいかと」


「アニエス」


「はい」


「君は、なんとも思わんのか」


アニエスは、少し考えた。


「思いません」


「……」


「わたくしは、離縁いたしましたので」


彼は、そこでもう一度、頭を下げた。


「君の趣味を、私は軽んじていた」



——趣味。アニエスは、湯の器を持ち直した。持ち直すときに、指の先が少し冷たくなった。あの秋、応接間で同じ言葉を聞いたときと、同じ冷たさだった。この人は、謝りに来ている。


謝りに来て、なお、その言葉しか持っていない。


十二年、蔵の石段を一度も降りなかった人が、下りていたら使わなかったはずの言葉を、いまここで使っている。悪意ではない。悪意ではないから、直しようがない。


「旦那様」


「なんだ」


「軽んじておられたのは、趣味ではございません」


「……ああ、そうだな。仕事だ。君の、仕事だった」


「はい」


言い直せる人ではあった。言い直せる人が、十二年、一度も言い直さなかったというだけの話だ。


「今夜、お泊まりになりますか」


「泊まれるのか」


「ここには寝るところがございません。村長の家に、頼んでみます」


「村長の」


「ギヨームと申します。子どもが四人おりますが、土間なら空いております」


ジェラールは、口を開けたまま、しばらく黙っていた。それから、うなずいた。


「……頼む」


ギヨームは、断らなかった。断らなかったが、公爵という言葉を聞いても顔色を変えなかった。この谷では、四頭立ての馬車のほうが公爵より珍しい。


マノンが藁を運びながら、アニエスの袖を引いた。


「ねえ」


「はい」


「あれが、あんたを追い出した人?」


「はい」


「ふうん」


娘は、藁の束を土間に落として、それから、こう言った。


「痩せてるね」


「はい」


「あんた、戻るの?」


アニエスは、答えなかった。



家に戻って、北の部屋へ降りた。いつもの三つをやった。壺の音を聞く。壁に手の甲を当てる。帳面に書く。


音は、よく鳴っていた。春だ。それから、樽の前に立った。三年の樽だ。腹に〈アニエス〉と彫ってあり、その下に炭で「三」と書いてある。今年で一年目が終わる。あと二年。


戻れば、この樽は谷に置いていくことになる。


あるいは持っていくこともできるが、持っていけば、それはドレニエの蔵の樽になる。ドレニエの蔵で二年寝かせて、ドレニエの黒の隣に並ぶ。


——それは、悪いことだろうか。考えてみた。


悪くはない。あの蔵はよい蔵だ。石が厚くて、夏も温度が動かない。ここの北の部屋より、ずっと酒に向いている。ピエールもいる。


畑もある。南の段には、いま芽が出ているはずだ。


戻れば、南の段は売られない。戻れば、ピエールは一人で三年を耐えなくてよくなる。戻れば、あの二十三枚は、書いた人が死んだあとも役に立つ。


——そこまで数えて、アニエスは手を止めた。数えているものが、全部、あちら側のものだった。



灯りを消して、寝床に入った。眠れなかった。天井の板の隙間から、夜の色が見えている。冬に霜が降りた壁は、いまは乾いている。明日、答えを言わなければならない。


言わなければならないが、まだ、言葉になっていなかった。代わりに、頭の中で数えていたのは、まったく違うことだった。


——南の段から摘めと、三度申し上げた。一度目は、離縁を告げられた日。二度目は、蔵を出る日、門のところで。三度目は、この冬、リゼット・マルソーに託した。


三度言って、一度も届かなかった。届かなかったことが、いまここに、この人を歩いてこさせている。

婚礼の席で開けられた樽のことは、第1話でアニエスが数えていたとおりです。澱を引くまで、あと十日ありました。


蔵頭は、去年の冬に姪の家で亡くなりました。二十三枚の覚書は、若い蔵人の手元に残っています。


——明日の朝、アニエスは答えを言います。この物語の題は、そのときの台詞です。

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