第20話 公爵、来訪
人影は、動かなかった。アニエスは灯りを持って、道を下りた。
近づくにつれて、外套の形が見えてきた。上等な仕立てだが、古い。肩の縫い目が白くなっている。三年か四年、着ているものだ。
その人は、灯りが近づいても顔を上げなかった。
「……旦那様」
呼び方が、勝手に出てきた。ジェラール・ドレニエは、そこで顔を上げた。痩せていた。顎の線が変わっている。
「アニエス」
「はい」
「ここに、住んでいるのか」
「はい」
◇
家に入れると、彼は土間の真ん中で立ち止まった。半分塞がった屋根を見た。土の床を見た。囲炉裏を見た。隅の薪を見た。それから、何か言おうとして、言わなかった。
「お座りください。板でよろしければ」
「……ああ」
湯を出した。
酒は出さなかった。ジェラールは器を両手で持った。持ち方が、ロランと同じだった。歩いてきたのだろう。宿場から谷までは半日ある。辻馬車は村の入口までしか入れない。
「馬車は」
「返した。往復の代を持っていない」
「王室の棚を、下ろされた」
彼は、そこから話しはじめた。
「先月末だ。クロヴィスが下ろした。二十年の付き合いだと言ったが、聞かなかった」
「……」
「棚を失うと、掛けが立たない。掛けが立たないと、仕入れが止まる。止まると、屋敷の払いが回らない」
「はい」
「南の畑を売る話が出ている。三つの段のうち二つだ」
アニエスは、湯の器を膝に置いた。南の段。摘みはじめる段だ。日が長くて、いちばん実が甘くなる。あそこを売れば、残るのは北の段だけになる。北だけでは、あの黒は二度と出ない。
「蔵は」
「ピエールという若いのが残っている。夜も蔵にいるらしい」
「よい子です」
「そうか」
「ロランさんは」
「……暇を出した」ジェラールは器を見ていた。「私が出した」
「はい」
「戻すつもりで人をやった」
「はい」
「去年の冬に、姪の家で亡くなったそうだ」
湯の面が、揺れた。
「……いつでございますか」
「一月の末だと聞いた」
一月の末。
峠が塞がって、リゼット・マルソーが一晩泊まっていった、あのころだ。あの人は「蔵頭が書き置いていきました」と言った。書き置いていった人は、そのとき、もういなかったのかもしれない。
「お一人で」
「姪の家だ。一人ではない」
「……そうですか」
四十年、あの蔵にいた人だった。その最後の半年に、雪の中を半日歩いて、この土間で二十三枚の紙を書いた。書いて、自分では使わないと言って、持って帰った。
アニエスは、湯を注ぎ足そうとして、手が止まった。注ぐ相手が湯を飲んでいなかった。
「アニエス」
「はい」
「あの秋のことだが」
「はい」
「婚礼の席で、樽を一つ開けた」
——来た、と思った。
「マルソーの家の者も、王都の者も、五十人ほどいた。私が自分で栓を抜いた。最上の一樽だと言って」
「はい」
「飲めたものではなかった」
ジェラールは、湯の器を板に置いた。
「濁っていて、渋くて、口の中に残った。全員が飲んだ。誰も何も言わなかった。言わないのが、いちばんこたえた」
アニエスは、うなずいた。
「澱を、引いておりませんでしたので」
「……そうだ」
「あと十日でございました」
「……」
「十日待てば、飲めておりました」
彼は、両手で顔を覆った。
◇
しばらく、火の音だけがしていた。アニエスは、その姿を見ていた。
十二年、この人が困っているところを見たことがなかった。困る前に、誰かが片づけていたからだ。誰が片づけていたのかを、この人は最後まで知らなかった。
いま、片づける人がいない。
「アニエス」
顔を上げた。目が赤い。
「戻ってくれ」
「……」
「頼む。頭を下げる。ほら、下げている」
彼は本当に頭を下げた。土間の板の上で、膝に手を置いて、深く。公爵が頭を下げるところを、アニエスは初めて見た。
「畑は残す。南の段は売らない。君が戻るなら、銀行も待つと言っている。蔵は君の好きにしていい。ピエールも置く。……壺も、もう何も言わん」
「マルソーの奥様は」
ジェラールの動きが止まった。
「……知っているのか」
「冬に、こちらへ来られました」
「そうか」
「お元気でいらっしゃいますか」
「家の帳面を全部出させた」彼は苦い顔をした。「三年ぶんだ。私が見せなかったものを、あれは一日で出させた」
「よろしいことでございます」
「よくない」
「いいえ。よろしいことでございます」
「……」
「見なければ、傾いていることも分かりません」
ジェラールは口を閉じた。それから、また開いた。
「離縁は、しない。あちらもそう言っている。……いま離縁したら、うちもマルソーも、両方潰れる」
「では、そのままでよろしいかと」
「アニエス」
「はい」
「君は、なんとも思わんのか」
アニエスは、少し考えた。
「思いません」
「……」
「わたくしは、離縁いたしましたので」
彼は、そこでもう一度、頭を下げた。
「君の趣味を、私は軽んじていた」
◇
——趣味。アニエスは、湯の器を持ち直した。持ち直すときに、指の先が少し冷たくなった。あの秋、応接間で同じ言葉を聞いたときと、同じ冷たさだった。この人は、謝りに来ている。
謝りに来て、なお、その言葉しか持っていない。
十二年、蔵の石段を一度も降りなかった人が、下りていたら使わなかったはずの言葉を、いまここで使っている。悪意ではない。悪意ではないから、直しようがない。
「旦那様」
「なんだ」
「軽んじておられたのは、趣味ではございません」
「……ああ、そうだな。仕事だ。君の、仕事だった」
「はい」
言い直せる人ではあった。言い直せる人が、十二年、一度も言い直さなかったというだけの話だ。
「今夜、お泊まりになりますか」
「泊まれるのか」
「ここには寝るところがございません。村長の家に、頼んでみます」
「村長の」
「ギヨームと申します。子どもが四人おりますが、土間なら空いております」
ジェラールは、口を開けたまま、しばらく黙っていた。それから、うなずいた。
「……頼む」
ギヨームは、断らなかった。断らなかったが、公爵という言葉を聞いても顔色を変えなかった。この谷では、四頭立ての馬車のほうが公爵より珍しい。
マノンが藁を運びながら、アニエスの袖を引いた。
「ねえ」
「はい」
「あれが、あんたを追い出した人?」
「はい」
「ふうん」
娘は、藁の束を土間に落として、それから、こう言った。
「痩せてるね」
「はい」
「あんた、戻るの?」
アニエスは、答えなかった。
◇
家に戻って、北の部屋へ降りた。いつもの三つをやった。壺の音を聞く。壁に手の甲を当てる。帳面に書く。
音は、よく鳴っていた。春だ。それから、樽の前に立った。三年の樽だ。腹に〈アニエス〉と彫ってあり、その下に炭で「三」と書いてある。今年で一年目が終わる。あと二年。
戻れば、この樽は谷に置いていくことになる。
あるいは持っていくこともできるが、持っていけば、それはドレニエの蔵の樽になる。ドレニエの蔵で二年寝かせて、ドレニエの黒の隣に並ぶ。
——それは、悪いことだろうか。考えてみた。
悪くはない。あの蔵はよい蔵だ。石が厚くて、夏も温度が動かない。ここの北の部屋より、ずっと酒に向いている。ピエールもいる。
畑もある。南の段には、いま芽が出ているはずだ。
戻れば、南の段は売られない。戻れば、ピエールは一人で三年を耐えなくてよくなる。戻れば、あの二十三枚は、書いた人が死んだあとも役に立つ。
——そこまで数えて、アニエスは手を止めた。数えているものが、全部、あちら側のものだった。
◇
灯りを消して、寝床に入った。眠れなかった。天井の板の隙間から、夜の色が見えている。冬に霜が降りた壁は、いまは乾いている。明日、答えを言わなければならない。
言わなければならないが、まだ、言葉になっていなかった。代わりに、頭の中で数えていたのは、まったく違うことだった。
——南の段から摘めと、三度申し上げた。一度目は、離縁を告げられた日。二度目は、蔵を出る日、門のところで。三度目は、この冬、リゼット・マルソーに託した。
三度言って、一度も届かなかった。届かなかったことが、いまここに、この人を歩いてこさせている。
婚礼の席で開けられた樽のことは、第1話でアニエスが数えていたとおりです。澱を引くまで、あと十日ありました。
蔵頭は、去年の冬に姪の家で亡くなりました。二十三枚の覚書は、若い蔵人の手元に残っています。
——明日の朝、アニエスは答えを言います。この物語の題は、そのときの台詞です。




