第21話 どうぞご自分で
朝、村の広場にジェラールが立っていた。外套の肩に藁がついている。ギヨームの家の土間で寝たのだろう。取ってやろうかと思ったが、やめた。
遠巻きに、村の者が集まっていた。誰も近づかない。麦を担いだまま立ち止まっている者もいる。マノンは井戸の縁に座っていた。ユーグは工房の戸口から動かなかった。
「アニエス」
「はい」
「答えを聞きたい」
アニエスは、少し離れたところで足を止めた。
——三度、南の段から摘めと申し上げた。一度目は、離縁を告げられた応接間で。二度目は、蔵を出る朝、門のところで。三度目は、この冬、リゼット・マルソーに託した。
三度言って、一度も届かなかった。四度目を言う気は、もうなかった。
「離縁いたしました」
ジェラールが顔を上げた。
「今年の葡萄酒は、どうぞご自分で」
広場が動かなくなった。村の者は言葉の意味を半分も分かっていないはずだが、それでも、何かが決まったことだけは伝わったらしい。
同じ台詞を、半年前に一度言った。
あのときは応接間の扉の前で、頭を下げてから言った。売り言葉のつもりはなかったが、売り言葉に聞こえただろうとは思う。相手はたしかにそう受け取って、笑った。
いま、笑う者はいない。
半年で変わったのは酒のほうだ。あのとき「どうぞご自分で」と言った酒は、この人の手元で本当に自分のものになった。濁ったまま渋いまま、五十人の前で栓を抜かれた。
言ったとおりになった、というだけだ。それを望んだかと聞かれれば望んでいない。望まなくてもそうなった。澱は待ってくれない。
ジェラールは、しばらく立っていた。
「……それは、断るということか」
「はい」
「理由を聞かせてくれ」
「三つございます」
アニエスは指を折った。
「一つ。あの蔵には、もう引ける者がおります。ピエールと、ロランさんの覚書です。二十三枚あります。あれを読んで、毎朝三回、桶に耳を当てている子がおります」
「……」
「二つ。母は三年かかります。わたくしが今日戻っても、今年の酒は戻りません。来年も戻りません。戻るのは三年後です。三年後に戻るのなら、わたくしが行っても、ピエールが待っても、同じでございます」
「同じではない。君なら——」
「同じでございます」アニエスは繰り返した。「わたくしにも、三年は縮められません」
「三つ目は」
彼が待った。
「わたくしは、ここに二十樽の書付がございます」
「書付」
「クロヴィス商会と交わしました。この秋、二十樽。二年後から毎年十樽。ヴェルヌのティボーさんの借財を、その前金で返しました」
「……」
「その二十樽を仕込むのは、わたくしです。ほかにおりません」
ジェラールは、口を開けた。
「では、こちらの蔵は」
「あちらには、ピエールがおります」
「こちらには、まだ一人しかおらんのか」
「一人でございます」アニエスは井戸のほうを見た。「二人目が、いま十六になりました」
井戸の縁で、マノンが跳ねるように立ち上がった。立ち上がって、慌てて座り直した。ジェラールは、ずいぶん長く黙っていた。
朝の風が、広場の土を薄く動かしていた。谷の風は乾いている。この時期は南から来る。
「アニエス」
「はい」
「私は、何を失ったんだろうな」
問いの形をしていたが、答えを求めていない声だった。
だから、アニエスは答えなかった。彼は、自分で続けた。
「……蔵頭を失った。棚を失った。畑も、たぶん二つ失う」
「はい」
「それは、全部、金で数えられる」
「はい」
「数えられないものを、先に失っていたんだな」
アニエスは、うなずかなかった。うなずけば、この人が言葉にしたものを、こちらが引き取ってしまう。引き取るのは筋が違う。
「旦那様」
「なんだ」
「南の段は、いま芽が出ております」
「……ああ」
「摘みは、南からです」
ジェラールは、目を閉じた。それから、開けて、言った。
「南からだ。……そうだな。南から摘む」
四度目は言わないつもりだったのに、言ってしまった。言ってしまったが、今度は、返ってきた。
◇
宿場まで、ギヨームが荷車で送っていくことになった。アニエスは頼んでいない。村長が勝手に決めた。「あの人は歩きだ」と言って、それだけだった。
ジェラールは荷車の縁に座った。公爵が村の荷車に乗るところを、村の子どもが全部見ていた。出るとき、彼が一度だけ振り返った。
「アニエス」
「はい」
「あの壺は、まだ生きているのか」
「生きております」
「……そうか」
それが最後の言葉だった。荷車は、峠のほうへ上がっていった。
◇
その日の午後、アニエスは北の部屋へ降りた。三年の樽の前に立つ。
腹には〈アニエス〉と彫ってある。冬にユーグが彫った字だ。その下に、去年の秋、自分で炭で書いた「三」がある。
炭を拾って、その下の余白に、もう一行足した。〈引き手 マノン〉書いていると、後ろで音がした。振り向くと、マノンが戸口に立っていた。
「なにそれ」
「引いた人の名でございます」
「……なんで書くの」
「区別がつかないと、いちばん安いものの値で買われますので」
娘は、樽の前にしゃがんだ。炭の字を、指で押さえた。押さえて、擦れないように、すぐ離した。
「これ、消えない?」
「消えます。消えたら、書き直してください」
「わたしが?」
「あと二年ございます」
「ねえ」
「はい」
「二年後、これ開けたら、どうなるの」
「分かりません」
「分かんないの?」
「今年で一年目が終わったところです。二年目に何が起きるかは、開けるまで分かりません」
「……失敗してたら?」
「そのときは、三年ぶんの時間が無駄になります」
マノンは、樽の腹をもう一度見た。〈アニエス〉と、〈三〉と、〈引き手 マノン〉。
「二つ名前があるね」
「はい」
「あと、書ける?」
余白は、まだあった。
炭で書ける幅が、指三本ぶんほど残っている。アニエスは、そこに何も書かなかった。
「まだ、二年ございますので」
◇
マノンが帰ってから、アニエスは仕込み帳を開いた。
一冊目は麦の勘定用の粗い紙だ。罫が太くて書きにくい。去年の秋から今日までの日付と、音の間隔と、寒いか寒くないかが全部書いてある。
途中から、字が二種類になる。自分の字とマノンの字だ。最初のころのマノンの字は大きくて罫からはみ出している。冬を越えたあたりから行に収まるようになった。
一冊目が、あと十数枚で終わる。二冊目は宿場で買ってこなければならない。前金があるので今度は紙の帳面が買える。
——買ったら、表紙に何と書こうか。〈ドレニエ蔵 覚書〉とあの人は書いた。四十年いた蔵の名を最後に書いた。
こちらはまだ蔵と呼べるものがない。北の部屋があるだけだ。石の床に桶が一つと樽が一つ。
それでも名前は要る。区別がつかないものはいちばん安いものの値で買われる。
◇
夕方、山の畑へ登った。
去年の秋に摘んだ木は、今年もちゃんと芽をつけている。刈らずに残した根が、そのぶん先まで水を上げている。二十年放っておかれた畑は、一年ではまだ畑の形にならない。
段の下のほうに、まだ手をつけていない列があった。十列ばかり。蔓が絡んだままだ。ユーグが、そこに立っていた。
「登ってきたのですか」
「桶の材を見に来た」
「桶の材は、下の川でしょう」
「……ああ」
そのまま、二人で列を見ていた。
「ここも起こすのか」
「起こします」
「いつだ」
「秋までに」
「二十樽ぶんは、足りるか」
「足りません。ミオとヴェルヌから買います」
ユーグは、蔓の一本を指で引いた。乾いた音がして、途中で折れた。
「桶は、あといくつ要る」
「四つ」
「五つ作る」
「四つで足ります」
「五つだ」
理由は言わなかった。言わなかったが、この人はたぶん、来年の話をしている。
ここまでが第1部です。第2部は、この続きの初夏から始まります。
三年の樽の腹には、いま名前が二つ書いてあります。彫ってあるのが一つ、炭で書いてあるのが一つ。炭のほうは、そのうち消えます。消えたら書き直す人が決まっているので、それでかまいません。
余白は、指三本ぶん残っています。
——山の畑には、まだ手をつけていない列が十ばかりあります。秋までに起こします。二十樽の書付があって、桶が四ついるところに、樽師は五つ作ると言いました。その二十樽に押す印を、まだ誰も持っていません。




