第22話 名前だけ売ってください
「〈クレールの白〉という名を、譲っていただきたいのです」
初夏の昼過ぎだった。アニエスは北の部屋の入口に立ったまま、そう言った男の外套の裾を見ていた。裾に土がついていない。宿場から谷まで歩いてくれば、どんな乾いた日でも膝から下は白くなる。
「金貨十枚。中身は要りません」
——中身は、要らない。
聞き違いではなかった。男は同じ言葉をもう一度、今度は少しゆっくり言った。ゆっくり言われたところで意味が減るわけではなく、むしろ増えた。
背中のほうで桶が鳴っている。この時期の桶は昼のほうがよく動く。アニエスは戸を半分だけ引いた。音を隠したかったわけではない。ただ、この話を桶のそばでするのは、なんとなく気が進まなかった。
「立ち話で、よろしゅうございますか」
「けっこうです。長くはかかりませんので」
男はモーリスと名乗った。王都のフォンテーヌ商会の手代で、三十がらみに見える。日に焼けていない手をしていた。荷を担いだことのない者の手は、指の付け根が滑らかで、爪が割れていない。
「主のフォンテーヌが、谷の酒の名を気に入っておりまして」
「飲まれたのですか」
「名を、でございます」
◇
金貨十枚、と胸のうちで置いてみる。銀貨に直せば千枚になる。
この秋にクロヴィス商会へ納める二十樽が、一樽 銀貨九枚で百八十枚。ヴェルヌのティボーへ渡す樽六つが四十八枚。合わせて二百二十八枚で、それが今年の谷の実入りのほとんど全部だ。千枚といえば、その五年ぶんに近い。五年ぶんが、樽を一つも動かさずに手に入る。
数えることは数えた。数えたうえで、指はどこへも動かなかった。金貨三十枚と言われても、百枚と言われても、壺は動かなかった。数えても答えの変わらないものが、いくつかあるというだけの話だ。
「名前だけ、と申されますと」
アニエスは言った。声はいつもどおりのつもりだった。
「樽は、どうなさるのですか」
モーリスは少し笑った。人を馬鹿にした笑い方ではなく、話が早くて助かるという顔だった。そういう顔をされると、こちらが話を早くしてやったように見えるので、少し困る。
「主が用意いたします。王都には、酒はいくらでもございますので」
「その酒は、どちらの酒でございますか」
「さて。仕入れは別の者が」
「では、その酒に〈クレールの白〉と札を出されるのですね」
「はい」
肯定は速かった。恥じている者はもう少し言葉を選ぶし、選んだぶんだけ話は長くなる。この人の話は短い。
「買われた方は、その酒を谷の酒だと思って飲まれますね」
「思われるでしょう」
「思われて、まずかったら」
「そういう年もあると、思われるでしょう」
外套の裾はやはり動かなかった。よく考えてある、とアニエスは思った。悪いことにならない順番で、あらかじめ考えてある。
◇
村の広場に人が集まりはじめていた。谷まで馬車が入ってくること自体、年に何度もない。荷車ならある。馬車はない。轍の幅が違うので、土に残る跡でそれと分かる。
ギヨームが井戸のそばから様子をうかがっていた。マノンは井戸の縁に座って、男の靴を見ている。この娘は人を靴から見る癖がある。
「金貨十枚だってさ」
誰かが言った。谷の中では、言葉は水より速い。
「十枚? 樽もつけずに?」
「名前だけだと」
「名前に十枚出す奴がいるのか」
「うちの屋根、いくらだったっけ」
「銀貨で九枚」
「じゃあ、名前ひとつで屋根が百枚だ」
そのあたりで声がひとつ落ちて、落ちた穴に別の声が入った。
「じゃあ、いままで名前がなかったから安かったのか」
アニエスは、そちらを見なかった。見なくても、言ったのがミオの若い衆だと分かる。ミオは谷でいちばん広い畑を持っていて、そのぶんいちばん長く、いちばん安く買われてきた村だ。あの村の者が言うのなら、それは愚痴ではなく勘定だった。
「お返事を、いま伺えますか」
モーリスが言った。
「お断りいたします」
「理由をお聞かせ願えますか。金額のことでしたら、主に伝えますので」
「金額ではありません」
アニエスは、北の部屋の戸のほうを一度だけ見た。半分引いてあるので、桶の音はもう聞こえない。聞こえないだけで、鳴っていることは知っている。
「区別がつかないと、いちばん安いものの値で買われますので」
「はあ」
「うちの酒は、区別がつくようになったばかりでございます。名前は、そのためのものです。売ってしまえば、また区別がつかなくなります」
「しかし、名がなくとも酒はお作りになれる」
「作れます。売れません」
◇
モーリスは、しばらく黙っていた。黙っているあいだも外套の裾は動かなかった。風のない日だった。谷の風は昼のうち南から来るが、この日は畑の葉も揺れていない。
「承知いたしました」
彼は帳面を出さなかった。断られた話を持ち帰る者は、ふつう、断られた言い分を書く。書かないということは、持ち帰るつもりがないということだ。
「では、こちらで名づけます」
アニエスは、その言葉を一度で受け取れなかった。
「名づける、と申されますと」
「谷の名でなくとも、似た名は作れますので。主は、そういうことが得意でございます」
「その名は、どちらの酒に付きますか」
「安いものに。名のないものは、安うございますので」
言い返す言葉を探して、見つからなかった。たったいま、こちらが同じことを言ったばかりだった。
そう言ってモーリスは馬車へ戻り、乗る前に一度だけ振り返って、丁寧に頭を下げた。谷へ来てから、いちばん丁寧な仕草だった。
馬車は峠のほうへ上がっていき、乾いた土に轍が二本だけ残った。村の者は、しばらくその轍を見ていた。
「断ってよかったの」
マノンが井戸から降りてきて、隣に立った。手には水桶を提げている。汲みに来たわけではなく、汲みに来たふりで最初からそこにいたのだと思う。
「よろしゅうございます」
「金貨十枚だよ」
「はい」
「十枚あったら、村の屋根が全部葺けるって、父さんが」
「葺けると思います」
「……それでも?」
「それでも」
「ふうん」
「気になりますか」
「べつに。屋根なんか、漏るときは漏るし」
マノンは、水桶を地面に置いた。置いた音が広場に響いて、遠くにいたギヨームがこちらを向いた。
「あんた、変わんないね」
「そうでしょうか」
「壺のときと、おんなじ顔してた」
そう言われて、アニエスは自分の顔を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。人は自分の顔を見られない。見られないものを言い当てられるのは、こちらを毎日見ている者だけだ。
ギヨームが近づいてきて、轍を靴の先でならした。
「奥さん。あれ、また来ますかね」
「来ないと思います」
「来ないほうが、悪いんじゃないですかね」
「なぜ、そう思われます」
「畑もそうですよ。雹が降った年より、降らなかった年のほうが、次が怖い」
村長というのは、ときどきこういうことを言う。畑と天気を四十年見てきた人の言い方だった。
「はい」アニエスは言った。「わたくしも、そう思います」
◇
その日の夕方、アニエスは工房へ行った。
ユーグは板を削っていた。削りかすが足首の高さまで溜まっていて、踏むと乾いた音がする。壁には桶の五つ目が立てかけてあった。四つで足りると言ったのに五つ作った、あの五つ目だ。使う当てのないまま、春から壁に立っている。
「印が要ります」
ユーグは手を止めた。
「印」
「樽に押す印です。うちの樽と、うちでない樽の、区別がつくものが」
「炭では消える」
「消えます」
彼は板を置いて、腰の後ろの布で手を拭いた。手を拭くのは、話を聞く姿勢に入るという合図だ。この人は、樽の話でないときは、そういう順番で人の話を聞く。
「王都の商人が来ました」
「見た」
「名を買いたいと申されました。中身は要らないと」
ユーグは、削りかすを靴の先で寄せた。寄せて、山にして、それから崩した。何か言うつもりがあって、途中でやめたときの手つきだった。
「断ったのか」
「断りました」
「そうか」
「よろしかったでしょうか」
「聞くな」
叱られたわけではない。この人は、決まったことを確かめ直されるのが好きではない。
「秋までに二十だな」
「はい」
「彫る」
それだけ言って、ユーグは工房の奥へ入っていった。奥には樽にしない木が積んである。細かい細工に使う木で、目の詰んだものが要るのだと、いつだったか聞いた。梨の木がどうとか言っていた気がする。あのときはずいぶん長い話で、半分も覚えていない。
覚えておけばよかった、といまさら思った。
焼き印は、木で型を彫って、それを鍛冶が鉄に写します。木を彫るのが樽師の仕事で、鉄にするのは別の職の仕事です。二人がかりでなければ、樽に押す一文字ができません。
十二年いた蔵には、その印がありました。誰が彫ったのかは、とうとう聞かないままでした。
——王都のフォンテーヌ商会は、名を「作る」のが得意だそうです。作られた名がどこに置かれるのかは、この秋、二十樽を運んでから分かります。




