↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/24

第22話 名前だけ売ってください

「〈クレールの白〉という名を、譲っていただきたいのです」


初夏の昼過ぎだった。アニエスは北の部屋の入口に立ったまま、そう言った男の外套の裾を見ていた。裾に土がついていない。宿場から谷まで歩いてくれば、どんな乾いた日でも膝から下は白くなる。


「金貨十枚。中身は要りません」


——中身は、要らない。


聞き違いではなかった。男は同じ言葉をもう一度、今度は少しゆっくり言った。ゆっくり言われたところで意味が減るわけではなく、むしろ増えた。


背中のほうで桶が鳴っている。この時期の桶は昼のほうがよく動く。アニエスは戸を半分だけ引いた。音を隠したかったわけではない。ただ、この話を桶のそばでするのは、なんとなく気が進まなかった。


「立ち話で、よろしゅうございますか」


「けっこうです。長くはかかりませんので」


男はモーリスと名乗った。王都のフォンテーヌ商会の手代で、三十がらみに見える。日に焼けていない手をしていた。荷を担いだことのない者の手は、指の付け根が滑らかで、爪が割れていない。


「主のフォンテーヌが、谷の酒の名を気に入っておりまして」


「飲まれたのですか」


「名を、でございます」


    ◇


金貨十枚、と胸のうちで置いてみる。銀貨に直せば千枚になる。


この秋にクロヴィス商会へ納める二十樽が、一樽 銀貨九枚で百八十枚。ヴェルヌのティボーへ渡す樽六つが四十八枚。合わせて二百二十八枚で、それが今年の谷の実入りのほとんど全部だ。千枚といえば、その五年ぶんに近い。五年ぶんが、樽を一つも動かさずに手に入る。


数えることは数えた。数えたうえで、指はどこへも動かなかった。金貨三十枚と言われても、百枚と言われても、壺は動かなかった。数えても答えの変わらないものが、いくつかあるというだけの話だ。


「名前だけ、と申されますと」


アニエスは言った。声はいつもどおりのつもりだった。


「樽は、どうなさるのですか」


モーリスは少し笑った。人を馬鹿にした笑い方ではなく、話が早くて助かるという顔だった。そういう顔をされると、こちらが話を早くしてやったように見えるので、少し困る。


「主が用意いたします。王都には、酒はいくらでもございますので」


「その酒は、どちらの酒でございますか」


「さて。仕入れは別の者が」


「では、その酒に〈クレールの白〉と札を出されるのですね」


「はい」


肯定は速かった。恥じている者はもう少し言葉を選ぶし、選んだぶんだけ話は長くなる。この人の話は短い。


「買われた方は、その酒を谷の酒だと思って飲まれますね」


「思われるでしょう」


「思われて、まずかったら」


「そういう年もあると、思われるでしょう」


外套の裾はやはり動かなかった。よく考えてある、とアニエスは思った。悪いことにならない順番で、あらかじめ考えてある。


    ◇


村の広場に人が集まりはじめていた。谷まで馬車が入ってくること自体、年に何度もない。荷車ならある。馬車はない。轍の幅が違うので、土に残る跡でそれと分かる。


ギヨームが井戸のそばから様子をうかがっていた。マノンは井戸の縁に座って、男の靴を見ている。この娘は人を靴から見る癖がある。


「金貨十枚だってさ」


誰かが言った。谷の中では、言葉は水より速い。


「十枚? 樽もつけずに?」


「名前だけだと」


「名前に十枚出す奴がいるのか」


「うちの屋根、いくらだったっけ」


「銀貨で九枚」


「じゃあ、名前ひとつで屋根が百枚だ」


そのあたりで声がひとつ落ちて、落ちた穴に別の声が入った。


「じゃあ、いままで名前がなかったから安かったのか」


アニエスは、そちらを見なかった。見なくても、言ったのがミオの若い衆だと分かる。ミオは谷でいちばん広い畑を持っていて、そのぶんいちばん長く、いちばん安く買われてきた村だ。あの村の者が言うのなら、それは愚痴ではなく勘定だった。


「お返事を、いま伺えますか」


モーリスが言った。


「お断りいたします」


「理由をお聞かせ願えますか。金額のことでしたら、主に伝えますので」


「金額ではありません」


アニエスは、北の部屋の戸のほうを一度だけ見た。半分引いてあるので、桶の音はもう聞こえない。聞こえないだけで、鳴っていることは知っている。


「区別がつかないと、いちばん安いものの値で買われますので」


「はあ」


「うちの酒は、区別がつくようになったばかりでございます。名前は、そのためのものです。売ってしまえば、また区別がつかなくなります」


「しかし、名がなくとも酒はお作りになれる」


「作れます。売れません」


    ◇


モーリスは、しばらく黙っていた。黙っているあいだも外套の裾は動かなかった。風のない日だった。谷の風は昼のうち南から来るが、この日は畑の葉も揺れていない。


「承知いたしました」


彼は帳面を出さなかった。断られた話を持ち帰る者は、ふつう、断られた言い分を書く。書かないということは、持ち帰るつもりがないということだ。


「では、こちらで名づけます」


アニエスは、その言葉を一度で受け取れなかった。


「名づける、と申されますと」


「谷の名でなくとも、似た名は作れますので。主は、そういうことが得意でございます」


「その名は、どちらの酒に付きますか」


「安いものに。名のないものは、安うございますので」


言い返す言葉を探して、見つからなかった。たったいま、こちらが同じことを言ったばかりだった。


そう言ってモーリスは馬車へ戻り、乗る前に一度だけ振り返って、丁寧に頭を下げた。谷へ来てから、いちばん丁寧な仕草だった。


馬車は峠のほうへ上がっていき、乾いた土に轍が二本だけ残った。村の者は、しばらくその轍を見ていた。


「断ってよかったの」


マノンが井戸から降りてきて、隣に立った。手には水桶を提げている。汲みに来たわけではなく、汲みに来たふりで最初からそこにいたのだと思う。


「よろしゅうございます」


「金貨十枚だよ」


「はい」


「十枚あったら、村の屋根が全部葺けるって、父さんが」


「葺けると思います」


「……それでも?」


「それでも」


「ふうん」


「気になりますか」


「べつに。屋根なんか、漏るときは漏るし」


マノンは、水桶を地面に置いた。置いた音が広場に響いて、遠くにいたギヨームがこちらを向いた。


「あんた、変わんないね」


「そうでしょうか」


「壺のときと、おんなじ顔してた」


そう言われて、アニエスは自分の顔を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。人は自分の顔を見られない。見られないものを言い当てられるのは、こちらを毎日見ている者だけだ。


ギヨームが近づいてきて、轍を靴の先でならした。


「奥さん。あれ、また来ますかね」


「来ないと思います」


「来ないほうが、悪いんじゃないですかね」


「なぜ、そう思われます」


「畑もそうですよ。雹が降った年より、降らなかった年のほうが、次が怖い」


村長というのは、ときどきこういうことを言う。畑と天気を四十年見てきた人の言い方だった。


「はい」アニエスは言った。「わたくしも、そう思います」


    ◇


その日の夕方、アニエスは工房へ行った。


ユーグは板を削っていた。削りかすが足首の高さまで溜まっていて、踏むと乾いた音がする。壁には桶の五つ目が立てかけてあった。四つで足りると言ったのに五つ作った、あの五つ目だ。使う当てのないまま、春から壁に立っている。


「印が要ります」


ユーグは手を止めた。


「印」


「樽に押す印です。うちの樽と、うちでない樽の、区別がつくものが」


「炭では消える」


「消えます」


彼は板を置いて、腰の後ろの布で手を拭いた。手を拭くのは、話を聞く姿勢に入るという合図だ。この人は、樽の話でないときは、そういう順番で人の話を聞く。


「王都の商人が来ました」


「見た」


「名を買いたいと申されました。中身は要らないと」


ユーグは、削りかすを靴の先で寄せた。寄せて、山にして、それから崩した。何か言うつもりがあって、途中でやめたときの手つきだった。


「断ったのか」


「断りました」


「そうか」


「よろしかったでしょうか」


「聞くな」


叱られたわけではない。この人は、決まったことを確かめ直されるのが好きではない。


「秋までに二十だな」


「はい」


「彫る」


それだけ言って、ユーグは工房の奥へ入っていった。奥には樽にしない木が積んである。細かい細工に使う木で、目の詰んだものが要るのだと、いつだったか聞いた。梨の木がどうとか言っていた気がする。あのときはずいぶん長い話で、半分も覚えていない。


覚えておけばよかった、といまさら思った。

焼き印は、木で型を彫って、それを鍛冶が鉄に写します。木を彫るのが樽師の仕事で、鉄にするのは別の職の仕事です。二人がかりでなければ、樽に押す一文字ができません。


十二年いた蔵には、その印がありました。誰が彫ったのかは、とうとう聞かないままでした。


——王都のフォンテーヌ商会は、名を「作る」のが得意だそうです。作られた名がどこに置かれるのかは、この秋、二十樽を運んでから分かります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。