第23話 樽のない村
「足りません」
朝、仕込み帳を広げて数え直したが、答えは昨日と同じだった。アニエスは指で紙をたどり、もう一度はじめに戻った。
山の畑の十列を秋までに起こしたとして、そこから取れるのが四樽ぶん。ラヴォーが六樽、サンスが三樽、ミオが五樽、ヴェルヌが二樽。合わせて二十樽になる。
クロヴィス商会と交わした書付が、その二十樽だ。そのうえに、ヴェルヌのティボーへ渡す六樽が要る。去年の商談で決めた樽で、こちらは一年待たせている。
「六つ足りないの?」
戸口からマノンが覗いた。手にパンを持っている。朝に来ると必ず何か食べている娘だった。
「六つ足りません」
マノンは戸口の柱に肩をあずけて、帳面を覗きこんだ。去年の秋は、この紙の上に何が書いてあるのか一つも読めなかった娘だ。いまは数の並びだけなら追える。
「ミオにもう少し出させれば」
「ミオはもう、出せるだけ出します」
「じゃあ、どうすんの」
書付は紙だ。紙に書いた数は、畑の都合では減らない。減らないから書付という。十二年、そういう紙を見てきたわけではないが、見てきた人の帳面なら毎日読んでいた。
「トゥールへ行きます」
マノンは、パンを飲み込むのに少し時間をかけた。
「トゥールって、あのトゥール?」
「谷に、トゥールは一つでございます」
◇
トゥールは谷でいちばん奥に近い村で、ラヴォーから歩いて一刻半かかる。道は途中から川を離れて上がっていく。細くなり、荷車の轍が消え、人の足あとだけになる。上がりきったところに二十軒ばかりの家があって、その先はもう山だった。
家の壁はどれも石を積んである。木を使っていない。木があれば樽になるはずだから、この村には木を使う余裕がなかったのだろう、とアニエスは思った。屋根は板ではなく、平たい石を重ねてあった。
樽がない村だ、と去年の冬に聞いた。あのとき凍りかけた樽を毛布でくるみながら、ユーグが「トゥールには樽がない」と言った。理由までは聞かなかった。
村の入口で、荷車を引いた老女とすれ違った。すれ違いざま、向こうが足を止めた。
「あんたが、ラヴォーの奥さんかい」
「アニエス・ヴァルネと申します」
「ロズリーヌだ。ここの村長をやってる」
背が低くて、腕が太い。六十は越えているはずだが、荷車の柄を持つ手が緩まなかった。
「用は?」
「葡萄を、分けていただきたいのです」
ロズリーヌは、荷車を道の端へ寄せた。寄せてから、はじめてこちらを正面から見た。
「うちには樽がないよ」
「存じております」
「樽がないってのはね、何も貯まらないってことだ。酒も貯まらない。麦も貯まらない」
「はい」
「そのかわり、借金も貯まらないけどね」
そう言って、ロズリーヌは笑った。笑うと歯が二本欠けていた。
「ヴェルヌのティボーんとこ、借金あったろ」
「ございました」
「あれ、あんたが返したって聞いたけど」
「前金がございましたので」
「前金ってのも、樽があるから入るんだ」
返す言葉が見つからなかった。この人は、樽がないことを四十年考えてきた人なのだと思った。考えていない人は、そういう順番で物を言わない。
◇
村の畑は、思っていたよりずっと広かった。
段が四つあって、そのどれもが北を向いている。谷のほかの村は南斜面に段を切るが、トゥールは地形の都合でそれができない。
石が多い。土に手を入れると、土より先に石に当たる。指で掻き分けると、石の下がひやりと湿っていた。日が当たらないぶん、水が抜けない。抜けない土は、根を深く伸ばさせない。
「ここの葡萄は、どうされているのですか」
「干す」
「干して?」
「宿場へ持っていく。干した葡萄は腐らないからね。荷車で半日でも困らない」
言われてみれば、道ですれ違った荷車には筵がかかっていた。筵の下は、たぶん干し葡萄だったのだろう。
「酒には、されないのですか」
「してたよ。あたしの親の代までは」
「やめられた理由を、伺ってもよろしいですか」
「聞いてどうするんだい」
「同じことが、うちにも起きますので」
ロズリーヌは、いちばん下の段へ降りていった。降りる足取りが速い。石を踏む場所を全部覚えている足だった。
「樽が割れて、買い直せなくて、それきりだ」
「一つも、ですか」
「一つもだよ。桶で作った年もあったけど、桶の酒はすぐ酸くなる。二年やって、やめた」
「そのあとは」
「干した。干して売って、その金でまた干す道具を買った。それだけさ」
段の途中で、ロズリーヌは足を止めた。石を一つ蹴って、転がるのを見送った。
「悪い暮らしじゃないよ。誰にも頭を下げなくていい」
「はい」
「ただね。うちの葡萄が、いくらの葡萄なのか、あたしは知らないんだ」
干した葡萄は、宿場では籠いくらで売る。籠の値は葡萄の出来では変わらない。乾いてしまえば、どこの畑のものでも同じ籠に見える。
アニエスは、いちばん下の段の木に手を伸ばした。房はまだ固い。粒は小さくて、皮が厚い。指の腹で押すと、跳ね返してくる。
北向きの段は日が遅い。日が遅ければ熟すのも遅くて、そのぶん酸が残る。酸の残った葡萄は、それだけで飲むには痩せているが、丸い酒に少し混ぜると背筋が立つ。十二年のあいだに二度だけ、そういう年の葡萄を扱った。
「いくつ要るんだい」
「六樽ぶんでございます」
「六樽ね。……六樽ぶんの葡萄が、うちの畑からいくら取れるか、あんた分かってるのかい」
「八樽ぶんは取れると思います」
ロズリーヌは、少し黙った。
「まあ、取れるだろうね」
◇
帰りは荷車が来た。
ユーグが引いていた。頼んでいない。頼んでいないのに、荷台には桶が一つ載っている。壁に立てかけてあった五つ目だった。
「なぜ、これを」
「トゥールには樽がない」
「桶の酒は、すぐ酸くなるそうです」
「知っている」
「では、なぜ」
ユーグは荷車の柄を持ち直した。
「洗うのに要る」
なるほど、と思った。樽が要らない仕事もある。摘んだ葡萄を運ぶにも、選り分けるにも、器は要る。トゥールの者はそれを筵と籠でやってきたのだろう。
荷車の車輪が石を踏むたび、桶が荷台の上で小さく跳ねた。跳ねるのは中が空だからだ。空の桶ほど音を立てる。
ロズリーヌは、荷台の桶を長いこと見ていた。
「これ、いくらだい」
「置いていく」
「いくらだって聞いてるんだよ」
「四つでよかったところに、五つ作った」
「答えになってないね」
「なっている」
「なってないよ」
「洗え。返さなくていい」
アニエスは、口を挟まなかった。この人が値の話をするときは、たいてい値の話をしていない。
◇
戻り道、日が傾いてから、アニエスは足を止めた。
指で潰した粒の汁が、まだ手のひらに残っている。舐めると、舌の脇が引き締まった。ラヴォーの葡萄とも、ミオの葡萄とも違う。
「どうした」
「トゥールの葡萄は、混ぜると味が変わります」
「六樽ぶんだろう」
「二十六樽のうちの六樽です。全部が、少しずつ違う酒になります」
ユーグは荷車を止めた。止めて、こちらを見た。
「同じにできるのか」
「やったことがございません」
十二年、同じ畑の同じ段から摘んだ葡萄で、同じ酒を作ってきた。違う畑の葡萄を一つの味に合わせたことは、一度もない。
「では、やってみます」
樽のない村というのは、この谷では珍しくありません。樽は高いのです。空で銀貨二枚、中身が入れば七枚から八枚。割れたら買い直せない村は、酒をやめて干し葡萄に移ります。
干し葡萄は腐りません。腐らないかわりに、名前もつきません。
——次は、五つの村から集めた葡萄を、一つの味に揃える話です。うちの葡萄が薄まる、と最初に言うのはミオの人たちでした。




