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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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8/23

第8話 なぜか、薄い

ミオの若い酒は、ひと月で仕上がった。


そのひと月、アニエスはミオとラヴォーを行ったり来たりした。歩いて一刻半ある。朝にラヴォーの壺と桶を見て、昼にミオの桶を見て、日が暮れる前に戻る。戻ってからもう一度、壺に声をかける。


四日目からは、マノンが半分を引き受けた。


「朝の三回のうち、二回はわたしがやる」


「ありがとうございます」


「べつに。……あんた、そのうち倒れるでしょ」


倒れるかどうかは分からなかったが、実際、足の裏が痛かった。都の靴でこの谷を歩くものではない。


濁りが落ちきる前に、アニエスは五つの村へ一樽ずつ配らせた。長く置ける酒ではない。置けないものを置いておくのは、腐らせるのと同じことだ。


味は、思ったとおりだった。薄い。酸が立っている。水で割ると、ちょうど飲みやすくなる。


ベルナールは一口飲んで、それから二口目を飲んで、器の底を見て、また注いだ。


「……これは」


「いかがでしょう」


「安酒ですな」


「はい」


「安酒だが」老人は口の中で転がした。「安酒として、真面目な味がする」


アニエスは、その言い方を覚えておくことにした。



商会の馬車が谷へ入ってきたのは、その三日後だった。


四頭立てで、車体に紋が入っている。天秤と麦の穂を組んだ紋だ。ラヴォーの広場に停まると、村の子どもが全員集まってきた。この谷では、四頭立てというだけで見世物になる。


降りてきたのは、五十過ぎの男だった。


背が低く、腹が出ていて、外套の襟に毛皮を巻いている。手袋を外しながら村を見回した。見回すというより、値踏みをしていた。目の動きが、家の屋根から荷車から井戸の縁まで、順に止まっていく。


「クロヴィス商会のバルテルだ。この谷で、今年、酒を作った家があると聞いた」


ギヨームが前へ出て、帽子を取った。


「村長のギヨームと申します」


「村長。どこだ、その家は」


「はあ、それは、上の——」


「案内しろ」


帽子を取った相手に、名も名乗らせずに用件を言う。それでこの男の人となりが分かった。


この手の客は、ドレニエ家にもよく来た。応接間で待たされるあいだ、壁の絵と燭台の値段を数えている類の客だ。ジェラールはそういう相手が得意だった。得意というより、同じ数え方をしていたのだと思う。


村の男たちが、家の陰から様子をうかがっている。四頭立ての馬車は、この谷では十年ぶりだそうだ。


マノンが井戸のところに立って、こちらを見ていた。目が合うと、顎で馬車を示した。「なにあれ」と言いたいらしい。アニエスは首を横に振った。「わたくしにも分かりません」という意味だったが、たぶん伝わらなかった。



バルテルは、家の中には入らなかった。


戸口で足を止めて、土間を一瞥して、外の切り株に腰を下ろした。汚れるのが嫌なのだろう。アニエスは器を二つ持って外へ出た。


「どうぞ」


商会主は器を受け取り、鼻を近づけ、それから一口飲んだ。


三秒ほど、口の中に置いた。


「田舎の酸っぱい水だな」


「はい」


「否定しないのか」


「事実でございますので」


バルテルは眉を上げた。それから、もう一口飲んだ。


「悪くはない。まずくもない。真面目だ」


ベルナールと同じ言葉が出てきた。この男は、味は分かるらしい。分かるのに、ああいう言い方をするのだ。


「いくつある」


「五樽です」


「全部で五樽か」


「はい」


「少ないな」バルテルは指で膝を叩いた。「一樽、銀貨八枚で買おう」


「お断りいたします」


「九枚」


「値の話ではございません」


「では何の話だ」


「この酒は、もう配ってしまいました」


バルテルは動きを止めた。


「配った?」


「はい。五つの村に、一樽ずつ」


「売ったのではなく」


「配りました。拾ったのは村の方々ですので」


商会主は、しばらくアニエスの顔を見ていた。信じられないものを見る目でもなく、呆れた目でもない。ただ、勘定が合わないものを見る目だった。


「あんた、商売を知らんな」


「存じません」


「銀貨九枚だぞ。五樽で四十五枚だ。この谷の家が一年で見る金じゃない」


「はい」


「それを、配った」


「はい」


「なぜだ」


アニエスは器の縁を指で拭いた。


「あれは、放っておけば腐るものでした。腐るものを拾っていただいたので、拾った方に返しました。それだけでございます」


バルテルは鼻から息を出した。笑ったのだと、少し遅れて分かった。



彼はそれから、なかなか帰らなかった。


器が空になると、アニエスは黙って注いだ。三杯目に入るころには、外套の襟を緩めて、切り株に深く座り直していた。


「……まったく、今年は妙な年だ」


独り言のような言い方だった。


「妙、と申しますと」


「王都の話だ。あんたには関係ない」


「はい」


関係ない、と言われたので、アニエスは黙って四杯目を注いだ。注ぐと、男はまた喋りはじめた。


「ドレニエ公爵家というのがあってな」


指が、器の縁で止まった。


「ご存じですか」


「名前だけは」


「王室御用達だ。黒い酒を出す。あれを二十年、うちが引いてきた」バルテルは器を傾けた。「その今年ぶんが、薄い」


「……薄い」


「薄い。色が出ていない。渋が痩せている。去年までのあれとは、別のものだ」


アニエスは、器を持つ手をそのままにしていた。


「不作でございましたか」


「不作じゃない。今年の葡萄は良かった。よそはみんな良い年だと言っている」バルテルは首を振った。「畑は同じだ。木も同じだ。蔵も同じ場所にある。なのに、出てきたものだけが違う」


「不思議でございますね」


「不思議だ。しかも先方は理由を言わん。訊いても、蔵頭が黙っている」


——ロラン。


「若い当主が、来年は必ず戻すと言っている。だが、来年戻る保証がどこにある。二十年やってきた棚だぞ」


「……さぞ、お困りでしょう」


「困る。王室の棚は空にできん」


バルテルは器を空にして、こちらへ突き出した。アニエスは注いだ。


手は震えなかった。震えるほどのことでもない。ただ、注ぎながら、頭の中で日付を数えていた。


摘みが遅れたはずだ。南から摘めと言い置いたが、あの人は収穫祭の翌週に婚礼を入れた。人手が三日、四日と抜ける。抜ければ北から先に摘むしかない。北の実は酸が落ちない。落ちない実を、去年と同じ手順で仕込めば、色は出ない。


出るはずがない。


それに——ラ・メールがいない。


十二年、ドレニエの黒はあの壺から出ていた。指一本ぶんの、目に見えないものが桶に移る。それだけで、あの色と、あの渋の形が決まっていた。壺がなければ、桶には畑と空気にいるものが勝手に入る。入ったものは働く。働くが、思ったようには働かない。


ロランは知っている。知っているから、黙っているのだ。


言えるはずがない。「奥様が持って出られました」とは言えない。言えば、それを「がらくた」と呼んで手の甲を振った人が、自分で自分の首を絞めたことになる。蔵頭が主人にそれを言うのは、辞めるということだ。


アニエスは五杯目を注いだ。


注ぎながら、自分の指を見た。震えていない。ざまあみろ、とも思わない。思わないことに、自分で少し驚いた。


——南の段から、と申し上げたのに。


そこまでだった。それ以上は何も出てこなかった。


「あんた」


バルテルが器を下ろした。


「なんでしょう」


「その酒、あんたが一人で作ったのか」


「はい」


「桶は」


「一つです」


「一人で、一つの桶で、この味を出したのか」


「安酒でございます」


「安酒だ。だが」商会主は器の底に残ったものを揺らした。「安酒でこれを出す手は、そのへんに転がってない」


風が出てきた。


谷の風は日が傾くと強くなる。バルテルは外套の襟を戻し、立ち上がって、外套の裾を払った。


それから、こちらを振り返った。


「ヴァルネのアニエスといったな」


「はい」


「あんた、どこで醸造を覚えた」

酒は、畑と木と蔵が同じでも、同じものが出るとは限りません。摘む順番が三日ずれるだけで、酸の残り方が変わります。ドレニエ家では今年、収穫の真っ最中に婚礼が入りました。


クロヴィス商会のバルテルは、二十年ドレニエの黒を引いてきた男です。二十年引いてきて、誰がそれを仕込んでいたのかは、一度も訊いたことがありませんでした。


次は借金の話になります。ヴェルヌ村で、樽が差し押さえられます。ユーグがめずらしく、自分の話をします。

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