第8話 なぜか、薄い
ミオの若い酒は、ひと月で仕上がった。
そのひと月、アニエスはミオとラヴォーを行ったり来たりした。歩いて一刻半ある。朝にラヴォーの壺と桶を見て、昼にミオの桶を見て、日が暮れる前に戻る。戻ってからもう一度、壺に声をかける。
四日目からは、マノンが半分を引き受けた。
「朝の三回のうち、二回はわたしがやる」
「ありがとうございます」
「べつに。……あんた、そのうち倒れるでしょ」
倒れるかどうかは分からなかったが、実際、足の裏が痛かった。都の靴でこの谷を歩くものではない。
濁りが落ちきる前に、アニエスは五つの村へ一樽ずつ配らせた。長く置ける酒ではない。置けないものを置いておくのは、腐らせるのと同じことだ。
味は、思ったとおりだった。薄い。酸が立っている。水で割ると、ちょうど飲みやすくなる。
ベルナールは一口飲んで、それから二口目を飲んで、器の底を見て、また注いだ。
「……これは」
「いかがでしょう」
「安酒ですな」
「はい」
「安酒だが」老人は口の中で転がした。「安酒として、真面目な味がする」
アニエスは、その言い方を覚えておくことにした。
◇
商会の馬車が谷へ入ってきたのは、その三日後だった。
四頭立てで、車体に紋が入っている。天秤と麦の穂を組んだ紋だ。ラヴォーの広場に停まると、村の子どもが全員集まってきた。この谷では、四頭立てというだけで見世物になる。
降りてきたのは、五十過ぎの男だった。
背が低く、腹が出ていて、外套の襟に毛皮を巻いている。手袋を外しながら村を見回した。見回すというより、値踏みをしていた。目の動きが、家の屋根から荷車から井戸の縁まで、順に止まっていく。
「クロヴィス商会のバルテルだ。この谷で、今年、酒を作った家があると聞いた」
ギヨームが前へ出て、帽子を取った。
「村長のギヨームと申します」
「村長。どこだ、その家は」
「はあ、それは、上の——」
「案内しろ」
帽子を取った相手に、名も名乗らせずに用件を言う。それでこの男の人となりが分かった。
この手の客は、ドレニエ家にもよく来た。応接間で待たされるあいだ、壁の絵と燭台の値段を数えている類の客だ。ジェラールはそういう相手が得意だった。得意というより、同じ数え方をしていたのだと思う。
村の男たちが、家の陰から様子をうかがっている。四頭立ての馬車は、この谷では十年ぶりだそうだ。
マノンが井戸のところに立って、こちらを見ていた。目が合うと、顎で馬車を示した。「なにあれ」と言いたいらしい。アニエスは首を横に振った。「わたくしにも分かりません」という意味だったが、たぶん伝わらなかった。
◇
バルテルは、家の中には入らなかった。
戸口で足を止めて、土間を一瞥して、外の切り株に腰を下ろした。汚れるのが嫌なのだろう。アニエスは器を二つ持って外へ出た。
「どうぞ」
商会主は器を受け取り、鼻を近づけ、それから一口飲んだ。
三秒ほど、口の中に置いた。
「田舎の酸っぱい水だな」
「はい」
「否定しないのか」
「事実でございますので」
バルテルは眉を上げた。それから、もう一口飲んだ。
「悪くはない。まずくもない。真面目だ」
ベルナールと同じ言葉が出てきた。この男は、味は分かるらしい。分かるのに、ああいう言い方をするのだ。
「いくつある」
「五樽です」
「全部で五樽か」
「はい」
「少ないな」バルテルは指で膝を叩いた。「一樽、銀貨八枚で買おう」
「お断りいたします」
「九枚」
「値の話ではございません」
「では何の話だ」
「この酒は、もう配ってしまいました」
バルテルは動きを止めた。
「配った?」
「はい。五つの村に、一樽ずつ」
「売ったのではなく」
「配りました。拾ったのは村の方々ですので」
商会主は、しばらくアニエスの顔を見ていた。信じられないものを見る目でもなく、呆れた目でもない。ただ、勘定が合わないものを見る目だった。
「あんた、商売を知らんな」
「存じません」
「銀貨九枚だぞ。五樽で四十五枚だ。この谷の家が一年で見る金じゃない」
「はい」
「それを、配った」
「はい」
「なぜだ」
アニエスは器の縁を指で拭いた。
「あれは、放っておけば腐るものでした。腐るものを拾っていただいたので、拾った方に返しました。それだけでございます」
バルテルは鼻から息を出した。笑ったのだと、少し遅れて分かった。
◇
彼はそれから、なかなか帰らなかった。
器が空になると、アニエスは黙って注いだ。三杯目に入るころには、外套の襟を緩めて、切り株に深く座り直していた。
「……まったく、今年は妙な年だ」
独り言のような言い方だった。
「妙、と申しますと」
「王都の話だ。あんたには関係ない」
「はい」
関係ない、と言われたので、アニエスは黙って四杯目を注いだ。注ぐと、男はまた喋りはじめた。
「ドレニエ公爵家というのがあってな」
指が、器の縁で止まった。
「ご存じですか」
「名前だけは」
「王室御用達だ。黒い酒を出す。あれを二十年、うちが引いてきた」バルテルは器を傾けた。「その今年ぶんが、薄い」
「……薄い」
「薄い。色が出ていない。渋が痩せている。去年までのあれとは、別のものだ」
アニエスは、器を持つ手をそのままにしていた。
「不作でございましたか」
「不作じゃない。今年の葡萄は良かった。よそはみんな良い年だと言っている」バルテルは首を振った。「畑は同じだ。木も同じだ。蔵も同じ場所にある。なのに、出てきたものだけが違う」
「不思議でございますね」
「不思議だ。しかも先方は理由を言わん。訊いても、蔵頭が黙っている」
——ロラン。
「若い当主が、来年は必ず戻すと言っている。だが、来年戻る保証がどこにある。二十年やってきた棚だぞ」
「……さぞ、お困りでしょう」
「困る。王室の棚は空にできん」
バルテルは器を空にして、こちらへ突き出した。アニエスは注いだ。
手は震えなかった。震えるほどのことでもない。ただ、注ぎながら、頭の中で日付を数えていた。
摘みが遅れたはずだ。南から摘めと言い置いたが、あの人は収穫祭の翌週に婚礼を入れた。人手が三日、四日と抜ける。抜ければ北から先に摘むしかない。北の実は酸が落ちない。落ちない実を、去年と同じ手順で仕込めば、色は出ない。
出るはずがない。
それに——母がいない。
十二年、ドレニエの黒はあの壺から出ていた。指一本ぶんの、目に見えないものが桶に移る。それだけで、あの色と、あの渋の形が決まっていた。壺がなければ、桶には畑と空気にいるものが勝手に入る。入ったものは働く。働くが、思ったようには働かない。
ロランは知っている。知っているから、黙っているのだ。
言えるはずがない。「奥様が持って出られました」とは言えない。言えば、それを「がらくた」と呼んで手の甲を振った人が、自分で自分の首を絞めたことになる。蔵頭が主人にそれを言うのは、辞めるということだ。
アニエスは五杯目を注いだ。
注ぎながら、自分の指を見た。震えていない。ざまあみろ、とも思わない。思わないことに、自分で少し驚いた。
——南の段から、と申し上げたのに。
そこまでだった。それ以上は何も出てこなかった。
「あんた」
バルテルが器を下ろした。
「なんでしょう」
「その酒、あんたが一人で作ったのか」
「はい」
「桶は」
「一つです」
「一人で、一つの桶で、この味を出したのか」
「安酒でございます」
「安酒だ。だが」商会主は器の底に残ったものを揺らした。「安酒でこれを出す手は、そのへんに転がってない」
風が出てきた。
谷の風は日が傾くと強くなる。バルテルは外套の襟を戻し、立ち上がって、外套の裾を払った。
それから、こちらを振り返った。
「ヴァルネのアニエスといったな」
「はい」
「あんた、どこで醸造を覚えた」
酒は、畑と木と蔵が同じでも、同じものが出るとは限りません。摘む順番が三日ずれるだけで、酸の残り方が変わります。ドレニエ家では今年、収穫の真っ最中に婚礼が入りました。
クロヴィス商会のバルテルは、二十年ドレニエの黒を引いてきた男です。二十年引いてきて、誰がそれを仕込んでいたのかは、一度も訊いたことがありませんでした。
次は借金の話になります。ヴェルヌ村で、樽が差し押さえられます。ユーグがめずらしく、自分の話をします。




