第7話 落ちた葡萄
雹は、夜のうちに降った。
音で目が覚めた。屋根に載せた瓦が鳴っている。三割しかない瓦だ。アニエスは飛び起きて北の部屋へ降り、桶と樽の上に板を渡し、その上へさらに毛布をかけた。
雹は一刻ほどで止んだ。
朝、外へ出てみると、庭に白い粒がまだいくつか残っていた。指で摘むと冷たい。ラヴォーの山の畑は、幸い実をもう摘み終えている。
ミオ村から人が走ってきたのは、日が昇ってすぐだった。
◇
ミオ村の畑は、谷でいちばん広い。
川がゆるく曲がったところの内側に、段が七つ。ラヴォーの山よりも日当たりがよく、土も厚い。谷の五つの村のうち、まともに葡萄で食べているのはミオだけだと、道々ギヨームが教えてくれた。
その広い段畑の地面が、一面、紫色になっていた。
落ちた実だ。房ごと落ちているものもあれば、粒だけ叩き落とされたものもある。踏むと潰れる。畝のあいだを歩くと、靴の裏がべたついた。
村の男たちが、畑の縁に並んで立っていた。誰も畑へ入ろうとしない。入っても、どうしようもないからだろう。
「アニエスさん」
ミオ村の村長は、痩せた老人だった。名をベルナールという。
「うちは、この畑で麦を買うんです」
「はい」
「今年は、買えません」
老人は、それだけ言って黙った。
◇
アニエスは畑へ降りた。まず、木を見た。枝はほとんど折れていない。葉が破れているだけだ。房も、上のほうは残っている。
次に、地面のものを拾った。一粒つまんで、皮を破って舐める。
酸っぱい。ひどく酸っぱくて、甘さがほとんどない。もう一粒。もう一粒。畝を移動しながら、十粒ばかり続けて舐めた。全部同じだった。
「……そうですね」
アニエスは腰を伸ばした。
「ベルナールさん。この畑は、いつ摘む予定でしたか」
「あと十日ばかり待つつもりでした。今年は色づきが遅いんで」
「では、落ちた実は熟しておりません」
「そうです。だから駄目なんです。青いのが落ちたんだから」
「熟していないのと、傷んでいるのは、別でございます」
老人が顔を上げた。
「傷んだ実は、何にもなりません。腐ったものは腐ります」アニエスは掌の粒を見せた。「けれど、これは腐っておりません。青いだけです。青い実には、酸と、少しの糖があります」
「そんなもんで酒になりますか」
「なります。ただし、あの黒くて重い酒にはなりません」
「じゃあ何になるんです」
「薄くて、酸っぱくて、その年のうちに飲みきる酒です」
村の男の一人が鼻で笑った。
「そんな酒、誰が買うんですか」
アニエスは笑わなかった。
「買わなくても、飲みます」
「は?」
「夏の畑仕事に、水ばかり飲んでいると腹が冷えます。薄くて酸のある酒を水で割ると、よく飲めます。——皆さん、麦の刈り入れのときは何を持って出ますか」
男たちが顔を見合わせた。
「……水と、去年の酒の残りを、少し」
「その、少し、が足りているのでしたら、結構です」
誰も答えなかった。
「もう一つ、急ぐ理由がございます」
アニエスは足元を指した。
「これを放っておくと、腐ります。腐ったものが畝に残ると、来年、木が病みます」
ベルナールが眉を寄せた。
「例年は、鋤き込むんですが」
「今年は量が違います。鋤き込みきれません」
「……確かに」
「どのみち、拾わねばなりません。拾うのであれば、桶に入れてください。捨てる手間で、酒が一年ぶんできます」
老人は、しばらく畑を見渡していた。それから、大きな声で言った。
「桶だ! 家じゅうの桶を持ってこい!」
◇
その日、ミオ村は総出で葡萄を拾った。
拾う、というのは思ったより重い労働だった。房ごと落ちているぶんはいい。粒だけ叩き落とされたものは、腰を折って一粒ずつ摘まなければならない。三畝も進むと背中が固まって、みんな一度立ち上がり、腰を叩き、また折れる。
子どもは腰の高さの籠を引きずり、女たちは前掛けを袋にして運んだ。ラヴォーからも人が下りてきた。ギヨームが来て、マノンが来て、しまいにはユーグまで荷車を押してきた。
「樽師は何をしに来たのですか」
「桶が足りないと聞いた」
「桶をお持ちに」
「作れる」
作れる、と言われて、返す言葉がなかった。拾った実は、そのまま踏んだ。洗わない。畑の土がついていても、今回はかまわない。皮についているものが、そのまま働く。
ミオ村の広場に桶を並べ、順に人が入って踏んだ。子どもが三人、手をつないで一つの桶に入り、途中で一人が滑って尻もちをついた。引き上げられた子は膝から下が紫色になっていて、それを見た母親が悲鳴を上げ、そのあと笑い出した。
アニエスは桶の縁を回って、汁の上がり方を見ていた。
ドレニエ家では、こんなふうに人が桶に入ったことはない。十二年、蔵に入れたのは蔵人だけだ。屋敷の人間は蔵の匂いを嫌がった。応接間まで匂いが上がってくると、窓を開けろと言われた。
その匂いの正体が何なのか、たぶん誰も知らないまま十二年たった。
——いま、あの窓は開いているだろうか。考えても仕方のないことだった。アニエスは桶へ向き直り、次の桶の縁に手をかけた。
「アニエスさん、これ、いつ飲めるようになるんです」
「ひと月ほどで」
「ひと月!」
「熟していない実ですので、早く仕上がります。——長く置けないのも、同じ理由です」
◇
日が落ちるころには、大きな桶が十一、いっぱいになった。村の女たちが火を焚いて、パンと塩漬け肉を配りはじめた。誰かが歌い出した。婚礼の日と同じ、音程の外れた歌だった。
アニエスは畑の縁の石に腰を下ろして、手についた葡萄の汁を布で拭いていた。
桶が十一。ひと桶からどれだけ取れるかを、頭の中で数えた。四百五十から五百というところだろう。この谷の五つの村が夏の刈り入れに持って出るぶんとしては、たぶん、ちょうど足りる。足りるが、余らない。売りに出す量ではない。
売りに出す量ではないものを、村の全員が一日かけて拾った。そのことが、なぜか、指先まで来ていた。
マノンが隣に座った。何も言わずに座って、しばらく黙っていた。それから、前を向いたまま言った。
「弟子にして」
「はい?」
「弟子。……そういうの、あるんでしょ。酒作る人の」
アニエスは布を膝に置いた。
「ございますが」
「あるならいいじゃん」
「なぜ、そう思われたのですか」
マノンは足元の石を蹴った。
「今日、みんな拾ってたでしょ。あんたが『拾ってください』って言ったから」
「はい」
「うちの父さんが言っても、あんなに拾わないよ」
「……」
「あれ、何なの」
アニエスは考えた。何と答えるのが正しいのか、少し分からなかった。
「たぶん、拾ったものが何になるか、申し上げたからです」
「それだけ?」
「それだけです」
マノンは、ふん、と鼻を鳴らした。
「それ、教えてよ」
「……分かりました」
「え、いいの」
「はい。では、明日から毎朝、うちへ来てください」
「毎朝?」
「壺の様子を見ていただきます。朝と、昼と、夜に」
「三回!?」
「三回です」
◇
夜、帰り道で、ユーグが荷車を押しながら聞いた。
「あの手紙は、どうした」
「まだ、机の上です」
「読んだのか」
「読みました」
「返事は」
「書いておりません」
荷車の軋む音が、しばらく続いた。
「断らないのか」
アニエスは前を向いたまま歩いた。
「断る言葉が、ないのです」
「金貨三十枚だと聞いた」
「誰から」
「村の連中だ。宿場の話が回ってくる」
そんなものかと思った。この谷では、手紙一通が三日で全戸に届くらしい。
「ユーグさん」
「なんだ」
「もし、あなたの作った樽を、金貨三十枚で買いたいという方がいらしたら、どうなさいますか」
ユーグは荷車を止めた。
「売る」
「まあ」
「金貨三十枚だぞ」
「……そうですね」
「だが」ユーグはまた荷車を押しはじめた。「俺の手は売らん」
熟していない実は、傷んだ実とは別ものです。酸が高くて糖が低いだけなので、酒にはなります。ただし、軽くて早く仕上がり、長くは置けません。ミオ村の畑にあれだけの量が落ちていなければ、そもそも作らなかった酒でした。
さて、そろそろ王都から人が来ます。手紙を三日ほったらかしにされて、向こうも黙っていられなくなったようです。次は「なぜか、薄い」。ただし来るのは、公爵家の使いではありません。




