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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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第7話 落ちた葡萄

雹は、夜のうちに降った。


音で目が覚めた。屋根に載せた瓦が鳴っている。三割しかない瓦だ。アニエスは飛び起きて北の部屋へ降り、桶と樽の上に板を渡し、その上へさらに毛布をかけた。


雹は一刻ほどで止んだ。


朝、外へ出てみると、庭に白い粒がまだいくつか残っていた。指で摘むと冷たい。ラヴォーの山の畑は、幸い実をもう摘み終えている。


ミオ村から人が走ってきたのは、日が昇ってすぐだった。



ミオ村の畑は、谷でいちばん広い。


川がゆるく曲がったところの内側に、段が七つ。ラヴォーの山よりも日当たりがよく、土も厚い。谷の五つの村のうち、まともに葡萄で食べているのはミオだけだと、道々ギヨームが教えてくれた。


その広い段畑の地面が、一面、紫色になっていた。


落ちた実だ。房ごと落ちているものもあれば、粒だけ叩き落とされたものもある。踏むと潰れる。畝のあいだを歩くと、靴の裏がべたついた。


村の男たちが、畑の縁に並んで立っていた。誰も畑へ入ろうとしない。入っても、どうしようもないからだろう。


「アニエスさん」


ミオ村の村長は、痩せた老人だった。名をベルナールという。


「うちは、この畑で麦を買うんです」


「はい」


「今年は、買えません」


老人は、それだけ言って黙った。



アニエスは畑へ降りた。まず、木を見た。枝はほとんど折れていない。葉が破れているだけだ。房も、上のほうは残っている。


次に、地面のものを拾った。一粒つまんで、皮を破って舐める。


酸っぱい。ひどく酸っぱくて、甘さがほとんどない。もう一粒。もう一粒。畝を移動しながら、十粒ばかり続けて舐めた。全部同じだった。


「……そうですね」


アニエスは腰を伸ばした。


「ベルナールさん。この畑は、いつ摘む予定でしたか」


「あと十日ばかり待つつもりでした。今年は色づきが遅いんで」


「では、落ちた実は熟しておりません」


「そうです。だから駄目なんです。青いのが落ちたんだから」


「熟していないのと、傷んでいるのは、別でございます」


老人が顔を上げた。


「傷んだ実は、何にもなりません。腐ったものは腐ります」アニエスは掌の粒を見せた。「けれど、これは腐っておりません。青いだけです。青い実には、酸と、少しの糖があります」


「そんなもんで酒になりますか」


「なります。ただし、あの黒くて重い酒にはなりません」


「じゃあ何になるんです」


「薄くて、酸っぱくて、その年のうちに飲みきる酒です」


村の男の一人が鼻で笑った。


「そんな酒、誰が買うんですか」


アニエスは笑わなかった。


「買わなくても、飲みます」


「は?」


「夏の畑仕事に、水ばかり飲んでいると腹が冷えます。薄くて酸のある酒を水で割ると、よく飲めます。——皆さん、麦の刈り入れのときは何を持って出ますか」


男たちが顔を見合わせた。


「……水と、去年の酒の残りを、少し」


「その、少し、が足りているのでしたら、結構です」


誰も答えなかった。


「もう一つ、急ぐ理由がございます」


アニエスは足元を指した。


「これを放っておくと、腐ります。腐ったものが畝に残ると、来年、木が病みます」


ベルナールが眉を寄せた。


「例年は、鋤き込むんですが」


「今年は量が違います。鋤き込みきれません」


「……確かに」


「どのみち、拾わねばなりません。拾うのであれば、桶に入れてください。捨てる手間で、酒が一年ぶんできます」


老人は、しばらく畑を見渡していた。それから、大きな声で言った。


「桶だ! 家じゅうの桶を持ってこい!」



その日、ミオ村は総出で葡萄を拾った。


拾う、というのは思ったより重い労働だった。房ごと落ちているぶんはいい。粒だけ叩き落とされたものは、腰を折って一粒ずつ摘まなければならない。三畝も進むと背中が固まって、みんな一度立ち上がり、腰を叩き、また折れる。


子どもは腰の高さの籠を引きずり、女たちは前掛けを袋にして運んだ。ラヴォーからも人が下りてきた。ギヨームが来て、マノンが来て、しまいにはユーグまで荷車を押してきた。


「樽師は何をしに来たのですか」


「桶が足りないと聞いた」


「桶をお持ちに」


「作れる」


作れる、と言われて、返す言葉がなかった。拾った実は、そのまま踏んだ。洗わない。畑の土がついていても、今回はかまわない。皮についているものが、そのまま働く。


ミオ村の広場に桶を並べ、順に人が入って踏んだ。子どもが三人、手をつないで一つの桶に入り、途中で一人が滑って尻もちをついた。引き上げられた子は膝から下が紫色になっていて、それを見た母親が悲鳴を上げ、そのあと笑い出した。


アニエスは桶の縁を回って、汁の上がり方を見ていた。


ドレニエ家では、こんなふうに人が桶に入ったことはない。十二年、蔵に入れたのは蔵人だけだ。屋敷の人間は蔵の匂いを嫌がった。応接間まで匂いが上がってくると、窓を開けろと言われた。


その匂いの正体が何なのか、たぶん誰も知らないまま十二年たった。


——いま、あの窓は開いているだろうか。考えても仕方のないことだった。アニエスは桶へ向き直り、次の桶の縁に手をかけた。


「アニエスさん、これ、いつ飲めるようになるんです」


「ひと月ほどで」


「ひと月!」


「熟していない実ですので、早く仕上がります。——長く置けないのも、同じ理由です」



日が落ちるころには、大きな桶が十一、いっぱいになった。村の女たちが火を焚いて、パンと塩漬け肉を配りはじめた。誰かが歌い出した。婚礼の日と同じ、音程の外れた歌だった。


アニエスは畑の縁の石に腰を下ろして、手についた葡萄の汁を布で拭いていた。


桶が十一。ひと桶からどれだけ取れるかを、頭の中で数えた。四百五十から五百というところだろう。この谷の五つの村が夏の刈り入れに持って出るぶんとしては、たぶん、ちょうど足りる。足りるが、余らない。売りに出す量ではない。


売りに出す量ではないものを、村の全員が一日かけて拾った。そのことが、なぜか、指先まで来ていた。


マノンが隣に座った。何も言わずに座って、しばらく黙っていた。それから、前を向いたまま言った。


「弟子にして」


「はい?」


「弟子。……そういうの、あるんでしょ。酒作る人の」


アニエスは布を膝に置いた。


「ございますが」


「あるならいいじゃん」


「なぜ、そう思われたのですか」


マノンは足元の石を蹴った。


「今日、みんな拾ってたでしょ。あんたが『拾ってください』って言ったから」


「はい」


「うちの父さんが言っても、あんなに拾わないよ」


「……」


「あれ、何なの」


アニエスは考えた。何と答えるのが正しいのか、少し分からなかった。


「たぶん、拾ったものが何になるか、申し上げたからです」


「それだけ?」


「それだけです」


マノンは、ふん、と鼻を鳴らした。


「それ、教えてよ」


「……分かりました」


「え、いいの」


「はい。では、明日から毎朝、うちへ来てください」


「毎朝?」


「壺の様子を見ていただきます。朝と、昼と、夜に」


「三回!?」


「三回です」



夜、帰り道で、ユーグが荷車を押しながら聞いた。


「あの手紙は、どうした」


「まだ、机の上です」


「読んだのか」


「読みました」


「返事は」


「書いておりません」


荷車の軋む音が、しばらく続いた。


「断らないのか」


アニエスは前を向いたまま歩いた。


「断る言葉が、ないのです」


「金貨三十枚だと聞いた」


「誰から」


「村の連中だ。宿場の話が回ってくる」


そんなものかと思った。この谷では、手紙一通が三日で全戸に届くらしい。


「ユーグさん」


「なんだ」


「もし、あなたの作った樽を、金貨三十枚で買いたいという方がいらしたら、どうなさいますか」


ユーグは荷車を止めた。


「売る」


「まあ」


「金貨三十枚だぞ」


「……そうですね」


「だが」ユーグはまた荷車を押しはじめた。「俺の手は売らん」

熟していない実は、傷んだ実とは別ものです。酸が高くて糖が低いだけなので、酒にはなります。ただし、軽くて早く仕上がり、長くは置けません。ミオ村の畑にあれだけの量が落ちていなければ、そもそも作らなかった酒でした。


さて、そろそろ王都から人が来ます。手紙を三日ほったらかしにされて、向こうも黙っていられなくなったようです。次は「なぜか、薄い」。ただし来るのは、公爵家の使いではありません。

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