↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/27

第6話 弔いの酒は、酢になっていました

サンス村から人が来たのは、朝の暗いうちだった。


戸を叩く音でアニエスが出ていくと、四十がらみの男が立っていた。日はまだ昇っておらず、男の顔は、提灯の下でだけ見えた。目が赤い。


「ラヴォーのアニエスさんですか」


「はい」


「サンスのドニの、息子です。……昨日、親父が死にました」


「……このたびは」


「弔いは明日です。それで、その」男は言葉を探した。「親父が、開けろと言い残した樽がありまして」



サンス村はラヴォーから歩いて一刻ほどの、川沿いの村だった。


道は川に沿って、ゆるく下っていく。両側は麦の刈り跡で、その向こうに葡萄の段が少しだけ見えた。ラヴォーの山より低い場所にあるぶん、こちらのほうが土は厚いのだろう。畝の形も残っている。誰かが今も手を入れている畑の形だ。


エマンは前を歩きながら、父親の話を途切れ途切れにした。七十四で、去年から寝ついていて、最後の三日は水しか通らなかったこと。母親が十年前に流行り病で死んだこと。それから二人とも黙って、しばらく水の音だけが続いた。


ドニの家は石造りで、天井が低かった。梁に燻された鍋が下がっていて、床は踏み固められた土だ。台所の棚には木の器が伏せて並べてある。数がそろっていない。割れたぶんを補充しないまま、十年たった家の棚だった。


奥の物置に、樽が一つ据えてある。


「これです」


腹に「十年」と炭で書いてあった。


「十年、置いたのですか」


「親父が置いたんです。おふくろが死んだ年の酒だから、と」息子のエマンは膝をついた。「おふくろが仕込んだ最後の酒です。うちは葡萄も少しやってましたんで」


「奥様が」


「はい。親父は葡萄のほうで、酒はおふくろが」


十年。


アニエスは樽の前にしゃがんだ。


まず、腹に掌を当てる。木は乾いていた。というより、乾きすぎている。十年のあいだ、この物置は夏に熱を持ち、冬に冷えたのだろう。板と板のあいだが、髪の毛ほど開いている。


次に、口を見た。封蝋が古い。古いのはかまわない。


問題は色だ。


本来なら濃い赤黒でなければならないところが、縁のあたりで白っぽく粉を吹いている。指で押すと、わずかに沈んだ。


——ああ。樽を軽く傾けて、耳を寄せた。中身が動く音がする。音が高い。つまり、減っている。


減るということは、抜けたということだ。抜けたぶんだけ、入れ替わりに何かが入っている。


「開けてもよろしいですか」


「そのために来ていただきました」


栓を抜いた。


匂いが上がってくる前に、答えは出た。抜くときの音が、乾いていた。


「……戻りません」


アニエスは栓を手に持ったまま、そう言った。


「え」


「酒には戻りません。これは酢になっております」


エマンの顔から、表情が抜けた。


「そんな。いや、待ってください。まだ味も見てないでしょう」


「見ても同じです」


「見てください」


アニエスは器を借りて、少しだけ注いだ。琥珀に近い色をしている。口に含んだ。


酸が舌の両側を刺す。刺してから、その奥に、乾いた果物の甘さが残る。


「……よい酢です」


「酢の話はしてない!」


エマンが声を上げた。それから、自分で驚いた顔をして、口を押さえた。


アニエスは器を置いた。


「封が甘うございました。十年のあいだ、少しずつ空気が入っております。急に悪くなったのではありません。一年ごとに、少しずつ変わっていったのです」


「じゃあ、途中で気づけば」


「はい。三年目までなら、詰め替えれば止まりました」


「……親父は、一度も開けなかった」


「開ければ減りますので」


エマンは樽の腹に手を置いた。「十年」と書いた炭の字は、もう半分かすれていた。


「明日、なんて言えばいいんだ。村の連中に。おふくろの酒を出すって、もう言っちまった」



アニエスは物置を見回した。


隅に、素焼きの甕が三つ並んでいる。蓋の縁に、布を裂いて縛った跡がある。


「あちらは」


「ああ、おふくろの漬物です。もう空ですけど」


「何を漬けておられましたか」


「羊です。祝いのときに、酸っぱいやつを煮て」


アニエスは、ゆっくり息を吸った。


「エマンさん」


「はい」


「奥様は、この酒を何にお使いになっていましたか」


エマンが顔を上げた。


「……煮込みに、少し」


「どのくらい」


「玉杓子で二杯くらい。おふくろは、酒を入れると肉が柔らかくなるって」


「酢のほうが柔らかくなります」


「え」


「酢のほうが、よく柔らかくなります」アニエスは甕の一つを持ち上げた。軽い。「十年の酢です。買えるものではありません。——羊は、ございますか」



その日、サンス村の女たちが三人がかりで羊を捌いた。


アニエスは酢を鍋に取って、火にかけた。蜜を入れ、玉葱を入れ、塩を入れる。肉を入れて、蓋をして、そこからは何もしない。


「……本当に、これでいいのかね」


村の女が心配そうにのぞき込んだ。


「はい。あとは待つだけです」


「酢って、そんなに入れて」


「飛びます。三刻も煮れば、酸は骨になります」


「骨」


「背骨です」アニエスは前にも同じことを言った気がした。「まっすぐな味になります」


待つあいだ、アニエスは物置に戻って甕を洗った。


三つとも、内側に薄く膜が張っていた。指でこすると、あっけなく剥がれる。十年ぶん誰も使わなかった甕だ。それでも縁の布の跡は残っていて、縛った位置が三つとも同じ高さだった。同じ人間が、同じ手つきで、毎年同じように縛っていたのだと分かる。


そういうものが、家には残る。


ドレニエ家の蔵にも、たぶん残っている。桶を洗う順番。樽の齢の書き方。鍵の柄に入れた傷。誰の手つきかは、そのうち忘れられる。手つきのほうは残る。


——残ったところで、酒が出るわけではないけれど。


アニエスは甕を伏せて、台所へ戻った。



夕方には、家の中いっぱいに匂いが回っていた。エマンが物置から出てきて、匂いに気づいて、鍋の前で立ち止まった。


しばらく動かなかった。


「……これ」


「はい」


「おふくろの」


「はい」


エマンは口を押さえた。今度は驚いたからではなかった。



翌日の弔いには、村じゅうが来た。


家に入りきらないので、庭に板を渡して長い卓を作った。大鍋が二つ、その真ん中に据えられた。空は薄曇りで、風がなかった。この谷にしては珍しく、風がなかった。


はじめは、みんな黙って食べていた。弔いの席というのはたいていそうなる。器の当たる音と、匙の音しかしない時間が続いて、途中で年寄りの一人が「ドニは若い頃、川に落ちて三日寝込んだことがある」と言い出した。誰かが笑った。笑ってしまってから慌てて口を押さえて、それを見てまた誰かが笑った。


そこからは、ふつうの席になった。


エマンが器を持って、アニエスのところへ来た。


「アニエスさん」


「はい」


「あれ、酒じゃなくて、酢だったんですよね」


「はい」


「……でも、おふくろが仕込んだやつですよね」


アニエスは器を受け取った。羊の脂が浮いていて、湯気が立っている。


「はい。奥様が仕込まれたものです。酢になっても、仕込んだ手は残ります」


エマンはうなずいて、それから、しばらくうなずき続けた。


「……ありがとうございました」


「いいえ」


「親父に、言っときます。酒じゃなかったけど、みんな喜んだって」



家へ帰り着いたのは、その夜遅くだった。灯りをつけて、北の部屋へ降りて、桶に耳を寄せる。ぱち、と鳴った。書き取る。


それから、机の上に置いたままの封筒を見た。三日、置いてある。


アニエスは封を切った。紙は一枚きりだった。字は、封筒の宛名と同じ、丸みのある字だ。


『拝啓。ドレニエ公爵夫人リゼットと申します。

 この度、蔵に古い壺が一つ不足していると聞き及びました。

 持参財としてお持ち帰りになったものと存じますが、当家にとっては備品の一部でございます。

 金貨三十枚にてお買い取りいたします。

 悪い話ではないと存じますが、いかがでしょう』


アニエスは紙を裏返した。裏には何も書いていない。もう一度表を読んだ。


金額の桁が、几帳面にそろっていた。

酢は、酒に戻りません。けれど酢は酢で、十年寝かせたものは十年ぶんの値打ちがあります。この話でアニエスがしたのは救出ではなく、行き先の変更でした。


——ところで、あの手紙の差出人は、金額の桁をきれいにそろえて書いていました。貴族の令嬢は、ふつうそういう書き方をしません。


明日は雹の話です。ミオ村の畑が半分やられて、地面が葡萄だらけになっています。(落ちた葡萄)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。