第6話 弔いの酒は、酢になっていました
サンス村から人が来たのは、朝の暗いうちだった。
戸を叩く音でアニエスが出ていくと、四十がらみの男が立っていた。日はまだ昇っておらず、男の顔は、提灯の下でだけ見えた。目が赤い。
「ラヴォーのアニエスさんですか」
「はい」
「サンスのドニの、息子です。……昨日、親父が死にました」
「……このたびは」
「弔いは明日です。それで、その」男は言葉を探した。「親父が、開けろと言い残した樽がありまして」
◇
サンス村はラヴォーから歩いて一刻ほどの、川沿いの村だった。
道は川に沿って、ゆるく下っていく。両側は麦の刈り跡で、その向こうに葡萄の段が少しだけ見えた。ラヴォーの山より低い場所にあるぶん、こちらのほうが土は厚いのだろう。畝の形も残っている。誰かが今も手を入れている畑の形だ。
エマンは前を歩きながら、父親の話を途切れ途切れにした。七十四で、去年から寝ついていて、最後の三日は水しか通らなかったこと。母親が十年前に流行り病で死んだこと。それから二人とも黙って、しばらく水の音だけが続いた。
ドニの家は石造りで、天井が低かった。梁に燻された鍋が下がっていて、床は踏み固められた土だ。台所の棚には木の器が伏せて並べてある。数がそろっていない。割れたぶんを補充しないまま、十年たった家の棚だった。
奥の物置に、樽が一つ据えてある。
「これです」
腹に「十年」と炭で書いてあった。
「十年、置いたのですか」
「親父が置いたんです。おふくろが死んだ年の酒だから、と」息子のエマンは膝をついた。「おふくろが仕込んだ最後の酒です。うちは葡萄も少しやってましたんで」
「奥様が」
「はい。親父は葡萄のほうで、酒はおふくろが」
十年。
アニエスは樽の前にしゃがんだ。
まず、腹に掌を当てる。木は乾いていた。というより、乾きすぎている。十年のあいだ、この物置は夏に熱を持ち、冬に冷えたのだろう。板と板のあいだが、髪の毛ほど開いている。
次に、口を見た。封蝋が古い。古いのはかまわない。
問題は色だ。
本来なら濃い赤黒でなければならないところが、縁のあたりで白っぽく粉を吹いている。指で押すと、わずかに沈んだ。
——ああ。樽を軽く傾けて、耳を寄せた。中身が動く音がする。音が高い。つまり、減っている。
減るということは、抜けたということだ。抜けたぶんだけ、入れ替わりに何かが入っている。
「開けてもよろしいですか」
「そのために来ていただきました」
栓を抜いた。
匂いが上がってくる前に、答えは出た。抜くときの音が、乾いていた。
「……戻りません」
アニエスは栓を手に持ったまま、そう言った。
「え」
「酒には戻りません。これは酢になっております」
エマンの顔から、表情が抜けた。
「そんな。いや、待ってください。まだ味も見てないでしょう」
「見ても同じです」
「見てください」
アニエスは器を借りて、少しだけ注いだ。琥珀に近い色をしている。口に含んだ。
酸が舌の両側を刺す。刺してから、その奥に、乾いた果物の甘さが残る。
「……よい酢です」
「酢の話はしてない!」
エマンが声を上げた。それから、自分で驚いた顔をして、口を押さえた。
アニエスは器を置いた。
「封が甘うございました。十年のあいだ、少しずつ空気が入っております。急に悪くなったのではありません。一年ごとに、少しずつ変わっていったのです」
「じゃあ、途中で気づけば」
「はい。三年目までなら、詰め替えれば止まりました」
「……親父は、一度も開けなかった」
「開ければ減りますので」
エマンは樽の腹に手を置いた。「十年」と書いた炭の字は、もう半分かすれていた。
「明日、なんて言えばいいんだ。村の連中に。おふくろの酒を出すって、もう言っちまった」
◇
アニエスは物置を見回した。
隅に、素焼きの甕が三つ並んでいる。蓋の縁に、布を裂いて縛った跡がある。
「あちらは」
「ああ、おふくろの漬物です。もう空ですけど」
「何を漬けておられましたか」
「羊です。祝いのときに、酸っぱいやつを煮て」
アニエスは、ゆっくり息を吸った。
「エマンさん」
「はい」
「奥様は、この酒を何にお使いになっていましたか」
エマンが顔を上げた。
「……煮込みに、少し」
「どのくらい」
「玉杓子で二杯くらい。おふくろは、酒を入れると肉が柔らかくなるって」
「酢のほうが柔らかくなります」
「え」
「酢のほうが、よく柔らかくなります」アニエスは甕の一つを持ち上げた。軽い。「十年の酢です。買えるものではありません。——羊は、ございますか」
◇
その日、サンス村の女たちが三人がかりで羊を捌いた。
アニエスは酢を鍋に取って、火にかけた。蜜を入れ、玉葱を入れ、塩を入れる。肉を入れて、蓋をして、そこからは何もしない。
「……本当に、これでいいのかね」
村の女が心配そうにのぞき込んだ。
「はい。あとは待つだけです」
「酢って、そんなに入れて」
「飛びます。三刻も煮れば、酸は骨になります」
「骨」
「背骨です」アニエスは前にも同じことを言った気がした。「まっすぐな味になります」
待つあいだ、アニエスは物置に戻って甕を洗った。
三つとも、内側に薄く膜が張っていた。指でこすると、あっけなく剥がれる。十年ぶん誰も使わなかった甕だ。それでも縁の布の跡は残っていて、縛った位置が三つとも同じ高さだった。同じ人間が、同じ手つきで、毎年同じように縛っていたのだと分かる。
そういうものが、家には残る。
ドレニエ家の蔵にも、たぶん残っている。桶を洗う順番。樽の齢の書き方。鍵の柄に入れた傷。誰の手つきかは、そのうち忘れられる。手つきのほうは残る。
——残ったところで、酒が出るわけではないけれど。
アニエスは甕を伏せて、台所へ戻った。
◇
夕方には、家の中いっぱいに匂いが回っていた。エマンが物置から出てきて、匂いに気づいて、鍋の前で立ち止まった。
しばらく動かなかった。
「……これ」
「はい」
「おふくろの」
「はい」
エマンは口を押さえた。今度は驚いたからではなかった。
◇
翌日の弔いには、村じゅうが来た。
家に入りきらないので、庭に板を渡して長い卓を作った。大鍋が二つ、その真ん中に据えられた。空は薄曇りで、風がなかった。この谷にしては珍しく、風がなかった。
はじめは、みんな黙って食べていた。弔いの席というのはたいていそうなる。器の当たる音と、匙の音しかしない時間が続いて、途中で年寄りの一人が「ドニは若い頃、川に落ちて三日寝込んだことがある」と言い出した。誰かが笑った。笑ってしまってから慌てて口を押さえて、それを見てまた誰かが笑った。
そこからは、ふつうの席になった。
エマンが器を持って、アニエスのところへ来た。
「アニエスさん」
「はい」
「あれ、酒じゃなくて、酢だったんですよね」
「はい」
「……でも、おふくろが仕込んだやつですよね」
アニエスは器を受け取った。羊の脂が浮いていて、湯気が立っている。
「はい。奥様が仕込まれたものです。酢になっても、仕込んだ手は残ります」
エマンはうなずいて、それから、しばらくうなずき続けた。
「……ありがとうございました」
「いいえ」
「親父に、言っときます。酒じゃなかったけど、みんな喜んだって」
◇
家へ帰り着いたのは、その夜遅くだった。灯りをつけて、北の部屋へ降りて、桶に耳を寄せる。ぱち、と鳴った。書き取る。
それから、机の上に置いたままの封筒を見た。三日、置いてある。
アニエスは封を切った。紙は一枚きりだった。字は、封筒の宛名と同じ、丸みのある字だ。
『拝啓。ドレニエ公爵夫人リゼットと申します。
この度、蔵に古い壺が一つ不足していると聞き及びました。
持参財としてお持ち帰りになったものと存じますが、当家にとっては備品の一部でございます。
金貨三十枚にてお買い取りいたします。
悪い話ではないと存じますが、いかがでしょう』
アニエスは紙を裏返した。裏には何も書いていない。もう一度表を読んだ。
金額の桁が、几帳面にそろっていた。
酢は、酒に戻りません。けれど酢は酢で、十年寝かせたものは十年ぶんの値打ちがあります。この話でアニエスがしたのは救出ではなく、行き先の変更でした。
——ところで、あの手紙の差出人は、金額の桁をきれいにそろえて書いていました。貴族の令嬢は、ふつうそういう書き方をしません。
明日は雹の話です。ミオ村の畑が半分やられて、地面が葡萄だらけになっています。(落ちた葡萄)




