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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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第5話 三年後に開く樽

山の畑は、畑には見えなかった。


段になった斜面に、葡萄の木が二十年ぶん勝手に伸びている。蔓が隣の木に絡み、絡んだ先でまた別の木に絡み、全体が一枚の藪になっていた。足を踏み入れると、脛のあたりまで下草に埋まる。


「ひどいでしょ」


マノンが得意げに言った。得意げに言うことではない。


「ええ」


「うちの父さんが、何回か刈ろうって言ったんだけどさ。刈っても誰も摘まないから、そのうち誰も言わなくなった」


「もったいのうございますね」


「もったいないって言われても、みんな麦作ってるし」


アニエスは藪に手を入れて、房を一つ探り当てた。小さい。ドレニエの畑の房の、三分の一もない。粒がそろっていない。指で一粒つまんで、皮を破って舐めた。


酸っぱい。酸っぱくて、その奥に、細い甘さがある。


「……よかった」


「よくないでしょ、これ」


「よろしいのです」アニエスは房を放した。「甘い葡萄は、放っておいても甘い酒になります。この葡萄は、放っておいても甘くなりません。だから、こちらが仕事をする余地があります」


マノンは意味が分からないという顔をした。分からないまま、鼻を鳴らした。



その日から三日、アニエスは山にいた。


一日目は、ほとんど蔓を解くだけで終わった。二十年ぶんの蔓は、切ればいいというものではない。切る場所を間違えると、その先の枝が全部死ぬ。どれが今年伸びた蔓で、どれが五年前の枝か、一本ずつ辿って確かめなければならなかった。日が暮れるころには指がぱんぱんに腫れていた。


二日目の朝、山を登っていくと、先に人がいた。マノンが、鎌を持って藪の前に立っていた。


「おはようございます」


「……早いね」


「あなたのほうが早うございます」


「ここ、うちの山だから」


そうだったろうか。昨日は「誰も摘まない」と言っていた気がする。


「どこを刈ればいいの」


「刈らないでください」


「はあ?」


「まだ、どれが生きている枝か分けておりません。刈ってしまうと、来年の実がなくなります」


マノンは鎌を下ろした。それから、ずいぶん不服そうに、下草だけを刈りはじめた。


「じゃあ、これは刈っていいでしょ」


「はい。たいへん助かります」



三日目には、ユーグが来た。誰も頼んでいない。


「刈るのか」


「摘める木の周りだけです。全部刈るのは来年で結構です」


「全部刈ったほうが早い」


「早うございますが、根が弱ります」


ユーグは黙って、摘める木の周りだけを刈った。三日で集まった葡萄は、木箱にして七つぶんだった。ドレニエ家なら、荷車一台で運ぶ量にもならない。


「これで足りるの」


「一樽ぶんには足ります」


「一樽」マノンが指を折った。「それだけ?」


「それだけです」



村へ下りると、広場に馬と荷が停まっていた。行商人だ。塩と、針と、安い布を積んでいる。この谷には月に一度来るのだという。


女たちが荷のまわりに集まって、値切っている。アニエスは葡萄の箱を家へ運び込んでから、水を汲みに広場の井戸へ行った。


「——それでな、王都は今、その話でもちきりよ」


行商人の声が、背中側から聞こえた。


「ドレニエ様のお屋敷。ご存じだろう、葡萄酒の」


「あの黒いやつかい」


「そう、その黒。蔵が朝から晩まで大騒ぎだそうだ。人が出たり入ったり、他所の蔵から人を呼んだりな」


「なんだい、火事でも出たのかね」


「さあ。仕込みの時期だからねえ。忙しいだけかもしらん」


アニエスは釣瓶を落とした。水の音がした。引き上げて、桶に移して、両手で持ち上げる。


——南の段から、と申し上げた。それだけだ。それ以上のことは、もう自分の仕事ではない。


歩き出そうとして、行商人と目が合った。向こうは、こちらを谷の女房の一人だと思ったらしく、愛想よく会釈をした。アニエスも会釈を返した。



仕込みは、その夜からはじめた。北の部屋の窪みに桶を据える。祖母が桶を置いていたのと同じ場所だ。摘んだ葡萄を洗わずに入れる。洗うと、皮についているものまで落ちる。


足を洗って、裾をまくって、桶に入った。踏む。


ドレニエの蔵では、十二年、この作業を蔵人にさせていた。量が多すぎて一人では追いつかないからだ。自分の足でやるのは、嫁ぐ前の実家以来だった。


皮が破れて、汁が上がってくる。冷たい。


「うわ」


戸口でマノンが声を上げた。いつのまにか来ていた。


「それ、足でやるの」


「はい」


「……汚くない?」


「洗った足でございます」


「そういうことじゃなくて」


三度目の「そういうことじゃなくて」だった。汁が上がりきったところで、アニエスは壺の蓋を開けた。


素焼きの壁を指でなぞり、ぬめりのついた指を、そのまま桶へ沈めた。それだけだ。大袈裟な儀式はない。ひと匙ぶんも入れない。指一本ぶんの、目に見えないものが移るだけだ。


「今、何入れたの」


「母です」


「はは?」


「ラ・メール。母、と呼びます」マノンのほうを見ずに、アニエスは桶の縁を布で拭いた。「祖母が呼んでいた呼び方です」


「なんで母なの」


「この子から生まれるからです。酒が」


マノンは黙った。それから、桶をのぞき込んで、しばらく見ていた。


「……何も起きないじゃん」


「明日には泡が立ちます」


「立たなかったら?」


「そのときは、わたくしの手が悪かったということです」



泡は、翌朝に立った。ぱち、ぱち、と、桶の蓋の下で鳴っていた。三日目には音の間隔が短くなり、七日目にはまた長くなった。


そのあいだ、アニエスは日に三度、北の部屋へ降りた。朝と、昼と、夜に。蓋に耳を寄せて、数を数える。数えて、仕込み帳に書く。


帳面は、村の雑貨屋で買った麦の勘定用のものだ。罫が太くて、書きにくい。ドレニエ家に置いてきた帳面は革の背表紙で、紙も上等だった。上等だったが、書いてある中身は同じだ。温度と、日付と、泡の間隔。


四日目の夜、マノンが戸口から覗いた。


「まだやってんの、それ」


「はい」


「三回も?」


「三回です」


「明日も?」


「明日もです」


娘は「ふうん」と言って帰った。翌朝、また来た。今度は何も言わずに、桶の蓋に耳を寄せていた。


「聞こえますか」


「……ぱち、って言った」


「はい」


「今の、何?」


「働いている音です」


止まりかけたところで、ユーグが樽を運んできた。例の、焼きの弱いほうの樽だ。腹に文字が彫ってある。


「アニエス、と読むのですね」


「読めるか」


「読めます」


「なら、いい」


樽に移す。澱は桶に残す。細く流して、途中で一度止めて、また流す。樽の口を塞いだとき、外はもう暗くなっていた。


マノンとギヨームとユーグが、狭い北の部屋に三人並んで立っていた。


「これで、できたの」


「まだです」


「え」


「これから寝かせます」


アニエスは樽の腹に手を当てた。木は冷たかった。


「この葡萄は皮が厚うございます。厚い皮のものは、若いうちは固くて飲めません。ほどけるのに時間がかかります」


「どのくらい」


「三年です」


三人が、同時に同じ顔をした。


「さん、ねん」


「はい」


「三年って、あんた」ギヨームが手を振った。「そのあいだ、どうやって食べていくんです」


「別の樽を作ります。早く飲めるものも作れます」アニエスは炭を拾って、樽の腹に、彫られた名前の下へ数字を書き足した。「けれど、この一樽だけは、待ちます」


三、と書いた。


「なんでその樽だけ」


「最初だからです」


マノンが何か言おうとして、言わなかった。ユーグは樽の彫りの上を指でなぞって、それきり黙っていた。


戸の隙間から風が入って、灯りが揺れた。


「アニエスさん」ギヨームが咳払いをした。「その、三年後というのは」


「はい」


「三年後、あんたはここにいるんですかね」


アニエスは炭を置いた。


「——さあ」

皮の厚い葡萄は、若いうちは渋くて固く、時間をかけないとほどけません。だから「三年」は気の長い話ではなく、単に必要な年数です。ただし、必要な年数を待てるかどうかは、また別の話でした。


谷の二つ目の村から、頼まれごとが来ます。亡くなった方が「わしの弔いにはあの樽を開けろ」と言い残していて——けれど今度ばかりは、アニエスにも救えません。(弔いの酒は、酢になっていました)


※本日はここまで連続で公開しました。明日からは毎日十九時に一話ずつ更新します。

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